D-08 灼けた空に手を伸ばす

 細い首に指を這わせる。
 揺れる蝋燭の炎に照らされ、きらと光る金髪に唇を落とした。
 白い頬に口付け、それからそっと暖かい首筋に唇を押し当てる。
 ふ、っと吐息のような息遣いと共に、微かに身体が震えたのが解った。
 男はゆっくりと顔を上げる。口元を綻ばせた。
「怖いか?」
 彼女はこちらを見上げてきた。青い、青い瞳がまっすぐに男を映す。
指をこちらに伸ばしてきた。細い手首につけられた重たげな鎖が、じゃらりと音を立てる。僅かに唇に触れた指先から熱を感じた。彼女は赤い唇を開く。
「冷たい」
 男は哂って女の手首を掴んだ。冷たく重い枷の上から彼女の手を掴み、彼女の熱い掌に口付ける。だが、彼女は表情を変えはしなかった。そこには何の恐れも嫌悪も映らない。
「怖がった方が良い」
 言いながら、彼女の首筋に触れる。
 どくりと脈打つ場所。熱いそこを指で撫でながら、男は言葉を続けた。
「永遠に続く苦しみを与えられるのかもしれないのだから」
 永遠、と。彼女はそう繰り返した。
「――そう、永遠。断ち切る方法は知っているけれど、どれも試したくは無いな」
 男はそう言って彼女の金髪に手を入れる。首筋に愛しげに唇を落とした。

 自分がいつから“こう”なのか。
 もう思い出すのも難しいほど長い間、男は一人こうして生きていた。
 深夜、ふらりと外に出て獲物を物色する。大抵は若い女だ。理由は自分でも解らないが、そちらの方が美味しそうに見えるのだ。白く薄い皮膚から流れ出る、とろける様に赤く甘い血液。――いつからだろう、そんなものを欲するようになったのは。
 いつから、そんなものが無いと生きていけない身体になったのか。

 女の華奢な首筋に自分の牙を落としたい衝動に駆られ、ゆっくりと身体を離した。
 彼女はなおも、青い瞳をこちらに向けていた。
 それは、宝石のような硬質な美しさでは無い。何処までも透き通り、吸い込まれそうなほどの青。一点の曇りも無いそれに、古い古い懐かしさを感じ、男は目を細めた。
「空、はこんな色だったかな」
 彼女の頬に掌を当て、その瞳を覗き込む。
 もう空の青さなど覚えてもいない。
 けれど何故か、これほど青く美しかったものは、空以外に無いと思った。
「重たい夜の帳の下りた空しか、長らく見ていないから。忘れてしまったな」
 月の光でさえ、自分には眩しすぎる。
 外に出られるのは、暗雲が立ち込め空など望めない夜。雨の音が染み入るような夜。もしくは星達が微かに瞬くだけの、静かな夜。それでも普通と違う自分の瞳は周りの風景を映す事が出来る。人の動きを捕える事は出来る。
 だが、色と言うものを認識するには、世界は暗すぎた。
 せいぜい、揺れる蝋燭が作る薄い灯りと、それに照らされて見える物質の微かな色合い。それが男の中にある色の全てだった。だが彼女の金髪は炎を受けていっそう煌き、彼女の青い瞳は炎の赤にも色褪せない。
「空は、もっと青い」
 女の言葉に、そうだったか、と男は呟いた。
 青い空、と言うのはきっとこの瞳のように綺麗なのだろう。いつも見上げる、全てを覆い隠すような黒とは違う。見ていると、心までも覆い潰すような闇とは違う。
 だが、それを二度と見る事は出来ないのだ。
 それが自らの、赦し難いこの身体に与えられた罰なのだろう。

 他人の生を狩ってしか、生きられない自分。
 そんな罪深い生に科されたのは、幾つもの罰だ。
 陽の光に当たれば焼け爛れ、炭化する肌。血の通わない、熱の通わない冷たい身体。交わった人物が死に絶え、どれだけの年月が経っても、全く衰えないこの身。人々から忌むべき存在として憎まれ続ける生。だが、他人の血を啜らねば、耐えられないほどの飢餓が待っている。

 男は、彼女の首筋を撫でた。
 彼女をここに攫ってきてから、もう半月にもなる。
 以来、ずっと鎖に繋ぎ傍に置いているが、彼女は一度も騒がなかった。泣いたり喚いたりもしない。逃げ出そうともしない。男が渡す食料を、ありがとう、と言って受け取り、食べる。喋りかけると、たまに言葉を返してくれる。そして眠る時は男の傍で眠った。

 普通ならば、数日もしないうちに殺してしまうのだ。
 生き血を啜り、男は生きながらえる。その代償として、彼女が息絶える。
 だが何故か、すぐに手をつける気になれなかった。
 彼女がこちらを見て恐がらなかったからかもしれない。
 ……昔、大切だった人に似ていたからかもしれない。
 自分が人間だった頃の事など、とっくに忘れていると思っていたのに、何故だか彼女を見ていると思い出した。年月も思い出せないほどに昔に、忘れてしまっていた孤独も思い出した。誰かと話をする事など、何十年ぶりだろう。もしかしたら、何百年ぶりかもしれない。
 同じ境遇にいる仲間ならば、何人か知っている。
 だが、話をすると言う間柄では無かったし、あまり近づきたくないというのが本音だった。忌むべき運命を背負わされた仲間。誰かの血を啜って生きている相手を見ても、哀れさや己に対する嫌悪しか浮かばない。

「離したくないな」
 言って、女の髪を撫でる。
 ずっとここに繋いでいたとしても、彼女はすぐに死んでしまうだろう。
 人間の寿命なんてものは短い。
 永遠と言う鎖に繋がれた自分が生きてきた時間に比べれば、瞬きをするほどの一瞬に近しい。男はふっと口の端だけで笑んで、彼女の首筋に唇をつけた。
 仲間にする事は容易い。
 己の牙で彼女の皮膚に傷をつければ良いだけだ。
 それで彼女の中に、己の身体を縛り付けるこの忌々しい毒が入り込む。三日もすれば、彼女の命を自分と同じ、永遠に近しいものに変える事が出来るのだ。
 唇をつけた白い首からは、甘い香りがした。
 食事の為につれてきた彼女をそのまま放置していたので、ほとんど一月は何も口にしていなかった。耐えられないほどではなかったが、それでも空腹は感じる。
「怖いか?」
 そう問いかけるが、やはり返事は無かった。

 怖がった方が良い。
 男は、そう口の中で呟いた。
 永遠の命を生きる苦しみは、何よりも自身が知っている。終わらない生と、狂おしいほどに退屈な時間をただ持て余す日々。人間を傷つけなければ生きていけない苦しみは、何ものにも変えがたいものだ。一人で生きていく孤独感は、苦くて重たい。
 もう見上げる事が出来ない青空が、どんなに愛おしいものか。
 貴女の声に、貴女の温もりに、貴女の瞳にどれほど幸せを感じていたのか。
 あなたにはきっと解らないだろう。

 かちり、と。鍵を回して錠を外した。
 女の手首を拘束していた鎖が床に落ちて、重たい音を響かせた。
「帰ると良い」
 彼女から手を離した。
 じっとこちらを見つめてくる青い瞳に、首を横に振った。
 彼女にも、他の誰にも、自らと同じような運命など背負わせたくないのだ。
 だから今まで襲った人間達も、永遠の命を与える前に殺した。酷い振る舞いなのかもしれない。自身が生き延びるために襲っておきながら、自らの牙から彼らの体内に入る毒が身体に回りきる前に殺す。仲間を増やそうとは思えなかったし、死んでしまう事よりも辛い事はある、と思う。
 だが、そう思っている自身が、何より死を怖れて人間を襲っているのだ。
 人間達にとってみれば、本当に非道な振る舞いだろう。自身ですら、自分の極悪さに嫌悪感を覚えてならない。何度、自ら命を絶とうと思ったか知れない。
 だが、どうしても死にきれなかった。空腹による飢餓は何にもまして耐え難かったし、日の光に身体ごと焼かれるのは筆舌に尽くし難いほどの苦しみだ。剣や杭を持って追いかけてくる人間達にこの身を任せるのは恐ろしくてたまらなかった。
 結果、罪を重ね続けているのだ。
 孤独も苦しみも、全てが自らの業によるものである。
「お帰り。あなたの帰りを待つ人の下へ」
 自分には二度と現れない、その場所へ。そう心の中で呟いて、さよならを口にした。

 彼女が出て行く足音を聞き、男は目を瞑る。
 全身を覆う飢餓感を覚えながら、また、と思った。
 日が暮れればまた、獲物を探さねばならないだろう。今度は情などが移る前に殺してしまえば良い。暖かさなどには触れず、声など聞かず、その瞳になど囚われずにいよう。
 そうする事でしか、自らの苦しみから逃れるすべは無いのだ。
 
 ***
 
 大きな音がして、男は重たい瞼を開いた。
 まだ日が暮れていないのだろう。身体は泥が詰まっているかのように重たい。
 だが、そんな身体に激しい痛みを感じ、目を見開いた。
 体中に火がついたような痛み。見開いた瞳が捉えたのは、割れた天窓だった。黒く塗られ、幾重にも木が打ち付けてあったはずのそれが、割られている。そこから眩いばかりの白い光が差し込んできていた。
 目が眩む。男はふらりと上体を起こすと、真っ黒な瞳を細めた。
「何が」
 起こったのだ、と。
 身を苛む痛みによろめきながらも、本能的に暗闇を求めて歩き出す。
 その時、扉が開け放たれた。
 そこにいた大勢の人間達に恐怖を感じるよりも先に、浴びせられる大量の光がたまらなく身を焦がす。片手で顔面を覆うように抑えると、ずるりと血が滲むのが解った。激しい痛みに、呻く事さえ出来ない。
 男は耐え切れず、床に膝を付いた。
 そして視線の先にあった青い瞳に愕然とした。
「あなたが」
 やはり自分は、人間ではなかったのだ。
 そんな当たり前の事を思った。彼女は人間だ。男のような存在を憎み、忌み、嫌悪するべき人間である。裏切られた――などと思う事ですら、おこがましいのだろう。
 ここにいた時と変わらない、透明で美しい青い瞳がこちらを見ていた。
 その瞳に吸い込まれ、一瞬だけ身体中を覆う痛みを忘れられた。

 永遠の苦しみが終わる。
 自分の生に比べれば、瞬きをするようなこの一瞬。
 その間の痛みと恐怖にさえ耐えれば、自らの忌まわしい生を終わらせる事が出来るのだ。もしかしたら。もしかしたら、彼女はそれを与えに戻ってきたのかもしれない。男を繋いでいた永遠の鎖を断ち切るために。
 そうと考える事は男に安堵を与えはしたが、再びこの身体に宿った言いようも無い苦しみを救ってはくれなかった。痛みと苦しみ。それから、孤独と絶望。
 どうしてこうも苦しんでまで、自分は生きたいと思ってしまうのだろう。
 何よりも自身を憎みながら、それでも死にたくないのは何故なのか。

 男は狂おしいほどに何かを求め、それを女へと向けた。青い、青い瞳へ。
 彼女は天を仰ぐ。男もそれを追って、空を仰いだ。
 天窓から差し込む、眩暈のするような光の洪水。
 それは自身を決して受け入れてはくれない陽の光だ。身を焼き、滅ぼす光。目を眇めて光の向こう側を仰ぎ見る。そこには、また見たいと願った青空があるはずだった。彼女の瞳の色と同じ、心がすくような青い空が。日の光は自身を罰するが、青い空は救いを与えてくれるはずだった。

 だが、瞳に捉えられたのは白けた空だけ。
 男の身体と同じように、日に灼け、ただれた空。
 天を覆っているのは圧倒的なまでの日の光に負け、その色を無くした空だった。
 ――ああ。
 やはり自分は罪人なのか。
 灼けた空に、そんな当たり前の事を突きつけられる。

 救いを求めるように空に差し出した掌が、黒い炭へと変わるのが見えた。

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