D-07 そらをみた人魚姫
地上の王子様に恋した人魚は、陸へと上がった。けれど、その恋は実らず海の泡となった。
海の上で伝わる物語は、そこで終わる。けれど、海の下では続きがあった。
末娘の死を嘆き悲しんだ人魚の王は、すべての人魚に対して海の上へと出ることを禁じたという続きが。
あれから、長い年月が経った。しかしこの禁令は未だ残っている――。
***
はるか上の方から、かすかな光が入って、きらめきを海底の砂へ与えている。
そのきらめきの元を追って、見上げた。だんだんと上方が明るくなってきているのが分かった。
すーっと音も立てず、上るように泳ぐ。周りが明るくなっていくのを感じる。
(もう少し、もう少し……)
光の元を追いかけるように、上へ上へと向かう。幻想的なその光を一心に見つめながら。
突然だった。自分の前にがっと槍が下ろされ、それ以上上れなくさせられる。
夢心地でふわふわと浮かんだ心は、すぐに戻らされ、彼女は顔をしかめた。しかしそれに頓着せず、鎧を身につけ槍を持つ番人が言う。
「いくら、姫様でもこの先は行ってはならない領域です。お戻りください」
その言葉を右の耳から左の耳へ抜けさせながら、見上げる。もう少しで、水面だ。あと三掻き、いや二掻き。それで水面の向こうに何があるのか、分かるのに。
がっと手首をつかまれたのが分かった。振り払おうとするけれど、かなわない。
「姫様」
冷たい声が聞こえる。その声で、父である王に報告するという意図が知れた。興がさめてしまう。
「……分かったわ」
絞り出した声とともに、眼を閉じた。もう上を見てはならない。
***
ふてくされた彼女の横で、友人が耐え切れず吹き出した。
「ひどいわ、笑うなんて」
「っ、だって」
眼をつぶって我慢しようとしているのが分かるが、口端が耐え切れずあがっている。
「あなた、何回目よ。水面より上へ出てはならないっていう禁令は知っているでしょう?」
それをまた懲りずに破ろうとするんだからと、友人は言う。それを横目で見ながら、ため息をついた。
分かってる。それが禁じられているのを。それでも、あの光の元がなんなのか、水面のむこうにはなにがあるのか、知りたいのだ。
すでに水面の上を知る人魚は全て死んだ。ここに残っているのは、昔の王が残した禁令に何も分からず従う者ばかりだ。
「……それにあなたはまだ十四でしょ。禁令がなくとも、十五歳未満は水面に上がってはならないはずよ」
一つ上の友人の言葉に、猛烈に反発する。
「もうわたしは今日で十五よ! 禁令がなければ、水の上へと上れる年齢よ!」
王子に恋した人魚姫がなんだというのと呟いた。まぁまぁと肩を叩く友人。
「そうだったわ、あなたももう十五なのね」
笑みを浮かべていた友人の顔が引きしまった。つられて姿勢を正す。
「じゃあ、水の上を見ればいいじゃないの」
***
身に帯びたのは、番人がつけているような貝殻の鎧ではなく、しゃこ貝や真珠の首飾りなど、十五歳となった時のためのものばかりだった。
ひれが痛い。しゃこ貝とはこんなにきっちり挟まれるものなのか。
そう考えながら、すっかり暗くなってしまった海の中をゆうゆうと泳いでいく。時折方向を変え、どこに向かっているのか分からなくさせる。
番人たちはまだ気付いていない。けれどここで泳いでいるのが自分だと気付かれれば、すぐ来てしまう。彼女は髪の毛で顔を覆い隠すように、泳いだ。
すこしずつ、だけど確実にスピードを早めていく。しゃらしゃらと揺れる真珠の首飾りがほどなく揺れず胸に張り付くようになる。
音を立てないよう、水を揺らさないよう、静かに動き回りながら上っていく。
ちらりと番人の方を見た。彼らは昼より下の方にいる。水面の向こうへ出ようと思うと、番人のいる場所を通り過ぎてから、五掻きはしなければいけないだろう。そう目測してから、くるくると回ってわざと揺れを起こす。
一番近い番人が気付くと、他の場所へ向かって同じことをくり返す。そうして番人の目を下へと向ける。
実際彼らは揺れ動いた。定位置から少しずつ離れて、その揺れの元をたどる。
そうして目をこらしながら、すぅっと泳いでいく。
(見つけた)
番人が張る網に、穴が開いた。誰もそこを見ていない。彼女は体勢を変え、そこへと突進した。ひどい揺れが起こる。番人たちは皆こちらを向いた。
わき目もふらず、その穴へと向かう。この穴を抜けてそのまま水面を突っ切ればいい。
(お願い、逃して)
願ってみたけれど、それはかなわないと分かっていた。うしろからたくさんの揺れが伝わってきて、追ってきているのが分かる。
穴も修復し始められた。だんだん狭まっていく。
すっとその小さくなった穴を抜ける。抜ける途中、ひれのしゃこ貝がつかまれた。激痛と共に、それが外れたのが分かる。重たかったのだろう、ひれは先ほど以上に動き、彼女を高みへと連れて行く。
もう一度、ひれがつかまれた。もう外れるものもない。彼女は人魚という荷を負って、それでも泳ぎ続けた。
水面を見上げる。もう手の届くところに、それはあった。懸命に手を伸ばす。
突然だった。その指が水でないものに触れた。
そのまま大きな音とともに、上半身がその水でないものの中へ飛び出た。続いて下半身も。
でもそんなことは関係ないとでもいうように、彼女の瞳はさらなる高みへと向けられていた。
「……なにこれ」
真っ黒な面にきらきらと光る小さい粒。それは光を反射して光る砂粒とは何か違っている。
そう思ったところで、二度の大きな音とともに水の中へと戻った。そうして初めて分かった。
(あれが、水面の上……)
もう一度見ようと、顔を水面の上に浮かべる。何だか安定がない。見回すと岩場を見つける。その上へとよじ登った。水の中のように、すーっと移動できないのが歯がゆい。
そこへ着いてから、また見上げる。
海でいうなら水面だろう真っ黒のところにきらきらと何かが輝き続けている。それは鋭い光だった。
まるで落ちてきそうな光。そして手の届きそうな光。
手を伸ばしてみたけれど、それは届かなかった。どれぐらい遠くにあるのだろう。
見回せば、その小さなそれでたくさんある光の近くに丸いものが浮かんでいた。一際大きい。うすい黄だ。やさしい色をしている。そしてやさしい光だった。
じっとその光たちを見つめていた。
しばらくすると、その黒いところに淡い光がさしてきた。その光の元を求めて目線を下げると、遠くの水面からさしてきている。
その光に包まれて、丸いものが姿を現す。それ自体も淡く白く光っていた。というより、それが光を発しているんだろう。
黒い部分がだんだん狭まっていく。鋭い光もなくなっていく。振り返ってみれば、やさしく光る丸いものはすでになかった。
姿を現し始めていたものに視線を戻す。上へ上へと昇っていくそれは、だんだん光を強めていく。色も心なしか強くなっていくようだった。黒いところはすべて、淡い青へと変化していく。そうして海の中にも光がさしてきていた。
(これが光の源……)
大きいそれはだんだん小さくなっていく。それはだんだん自分から遠ざかっているということなのだろう。慌てて手を伸ばしてみたけど、届きはしなかった。
すべてが青へと変化した頃、やっと彼女は視線を上から周りへと下ろしてきた。
「……姫様」
がたがたと震えている番人がいる。それだけで分かった。
「お父様が――王が呼んでいるのね」
「はっはい……」
激しく怒っているのだ。自分の娘が禁令を破ったことを。
「こちらに向かおうとするのを、必死で周りがとめております……」
早くと言外に急かす番人を尻目にもう一度見上げた。
「ねぇ、あなたはこの景色を見て、どう思った?」
訊ねると、きょとんとした顔をしてから自分と同じように見上げた。
「っ、これは――」
言葉にならない吐息が、その驚きを語る。王のところへ自分を連れて行くことに精いっぱいで見ていなかったのだろう。
「どうして、王はこれを禁じておられるのかしらね」
「あっ、そっそれは!」
言ってはいけない王への批判を口にすると、番人が慌てた。
それを視線の端に捕らえてから、海の中へとゆっくり飛び込んだ。王のもとへとおもむくために。
***
***
頭の上に、貝殻を組み合わせて作られた髪飾りをかざる。首には真珠の首飾りが何連にもつらなり、尾には巨大なしゃこ貝が挟み込まれていた。痛みはそれほどない。鏡を見つめた。
あれから十年。長くも短いような時が過ぎていった。
ずっとずっと、まなこの裏には、あの景色が焼き付いている。
(やっと、ここまできた……)
もう一度その景色を思い出して、心のなかでつぶやいた。
「すみません、そろそろよろしいですか?」
その声に振り向いて、たてに首をふった。部屋を出て、長い廊下を泳いでいく。
廊下の終わりには、明るい光に満たされた広場があった。一つ下の段に、大勢の人魚がひしめき合っている。
そして自分がいる壇の向こう側に、友人がいた。貝殻でできた冠を、手にしている。
頭をさげて、その前にひざまずいた。
小声の言葉が、頭上から降ってきた。
「ひさしぶりね」
十年前、“そら”をみるよう薦めた彼女を見上げると、うっすらと笑っていた。
久しぶりにみる友人の顔だった。だから、そうねとこちらも小声で応えた。そして、続ける。
「会って、一つ聞きたいことがあったの」
なぁに? とたずねられた。
「あのとき、あなたが“そら”をみるよう、わたしの背中を押したのは、どうして?」
その途端、彼女は周りに分からないよう吹き出した。たぶん、なんだそんなことと思っている。端の上がった口の隙間から言葉が漏れ出る。
「要らないからよ」
真顔に戻ってもう一度告げる。
「昔になんて、縛られ続ける王はもう要らないからよ。あの十年前、あなたを前王にぶつけることで、わたしたちは期待した。王が変わることを、次代の王が変わることを」
あなたはわたしの思った通りに動いてくれた、と言う。
「あれから十年、あなたは周囲の反対を押し切って、王となった」
「……これからわたしがあなたの言うように動くとは限らないわよ?」
十年前“そら”を見てから、生き方が変わった。それまでおざなりにしてきた勉強を一生懸命行った。女でありながらも、男であるように振る舞った。後継と認められるよう、がんばった。いつのまにか友人とも会わなくなり、その代わり重役たちとの会合が予定をしめた。己の楽しみをすてた。
すべてはこの時のため。
「じゃあ、わたしからもひとつきかせて?」
その言葉で、彼女の方を向く。
「あの禁令はどうするの?」
「決まってるじゃない」
そのために王となるのだ。
言わずと知れたその返事で、友人は笑みを浮かべてから、彼女の頭に冠をそっとのせた。そして、ゆっくり額ずいた。
「われらが海の民、なんじを王としてお迎えする」
***
気が遠くなるほどの年月をこえ、再び水の上へと目を向けた人魚たちは、各々そらの素晴らしさに驚き、そして称えた。また、その禁令を解いた女王を称えた。
そしていつしか、そらを人魚たちに贈った女王はこう呼ばれるようになった。
そらをみた人魚姫、と。