D-06 空を越えたら

 少しだけ視線を上にすると、真っ青な空が見えた。
 横を見れば遠くになった街並みが後ろにずれていく。
 下を見るとアスファルトが駆け抜けていく。
 前を見るのは恥ずかしかった。
 空だけはいつも変わらずそこにある。単純に面積の問題で、見上げた空が十メートル前と同じ場所というわけじゃないけど、それは同じ空。おでこの真ん中と眉毛の間みたいなものだろうか。私くらいの広さなら違いが分かるんだろうな。そんなことを思いながら広い額を押さえたくなる。今、髪は風になびいて隠してくれない。両腕も塞がっていた。
 早く終わってくれないだろうか、この状況。
「あと少しで、着くからな、こんにゃろう」
 言葉に視線を前に戻す。
 文章すれば、間違いなく句読点のところで息を吐き出してるだろう。語尾と一緒に荒い息が全部出て行って、思い切り息を吸って、また吐き出す。同じことを繰り返してる。
 私が見るのは彼の背中。落ちないよう、お腹に回した手に力を込める。びっくりするくらい大きい背中に顔を近づけると、彼の匂いが思ったよりも心地よくて、恥ずかしかった。
 また空を見上げて思う。
 どうしてこうなったんだろう。
 今あるのは、ほとんどが後悔だ。この坂を登った先にあるものが何かは良く分からない。漠然としているけれど、私にはそれが怖かった。
 空に溶け込ませるように、私自身が空になるように。
 背中の感触を忘れるために、こうなった経緯を辿ることだけが、現実からの逃避だった。



 始まりは些細なこと。取るに足らない口喧嘩。我が優秀ならざる幼馴染様は一年に三十回はある失言を、その時も躊躇いなく使っていた。
「美智子。お前の体重は何キロだ?」
「女の子にそんな質問するな馬鹿信也!」
 本当にデリカシーがない奴だった。周りの女子も私と同じ思いでいるからか、棘々しい視線を信也に向けていた。私も擁護しない。
 もう少しで完成する彫刻を落として割るような行為だ。
「いや、そんなもう少しで完成する彫刻落として割った時みたいに怒らないでも」
「そ、そんなこと思うわけないでしょ! 何よその例え!」
 後ろから「そうよー」とか「変な例え」とか聞こえてくる。私の感性がどこかずれているのかとへこむし、何より目の前の男が同じ例えをしたことが嫌だった。顔が熱くなる。何か胸の奥がざわざわする。
「まあいいや。で、何キロ?」
「教えるか馬鹿!」
 一刀両断してから唸り、睨み付けた。傍から見れば相手が見えているのか分からないくらい目を細めてみる。これで童顔の私でも少しは怖く見えるだろう。でも信也は慣れっこで腕を組んだまま平然と私を見ていた。顔は困ったようなどこか安堵しているような奇妙な表情になっていた。
 ……なんだろ。妙に気になった。
「でもどうして菅原さんの体重知りたいの? 阿部君」
 どこか楽しそうに取り巻いていた女子の一人が言う。解決するところだったのにひっくり返すなんて!
 後ろを振り返って声を主を探しても誰か分からなかった。既に人垣が出来ていて、私達のやり取りを見守ってる……楽しそうに。
 体重を聞かれる不快感を同じように感じていたクラスメイト達も、いつの間にか興味深々っていうように私と信也を見ていた。裏切り者め……。
「ん、ああ、えと」
 ん? 今度は信也が困りだした。私が聞いたらどうするつもりだったんだろうか?
 体重を聞くって事はつまり、数字が知りたいわけで。数字を知りたいってことは、何かに必要?
 まさか、信也のやつ――
「菅原さんに服か何かプレゼントするの?」
 それなら胸囲とかウエストじゃないだろうか。聞かれたら問答無用でお腹に蹴り入れるけどさ。
 信也は顔を赤くしながら「えとえとあと」とか繰り返してる。まさか本当に服をくれるつもりだったの? 体重だけ聞いて?
「おお、いいこと考えた」
 信也は両手を打ちつけて「閃いた!」と頭に電球マークが出すようなポーズをしてから、私の肩を掴む。
 急に目の前に迫った信也の顔、吐息に体温が沸騰した。
「え、え、信也?」
「今度の日曜さ、俺と勝負しようぜ」
 勝負? 体重の話からいきなり勝負とか私の思考をどこまで置いてけぼりにすれば気がすむんだろうか。複雑な乙女心なんて知らずに信也は続ける。
「俺がお前を自転車の後ろに座らせてさ、『空坂』を登りきれば俺の勝ち。駄目だったらお前の勝ちで」
『空坂』を二人乗りで。
 言い方から考えれば、座ったままってことになる。立ちこぎで二人乗りだと逆にバランスが崩れるだろう。
「『空坂』ってなんだっけ?」
「宮川坂のことだよ、街の外れにある。あのめっちゃ急な坂」
 後ろで『空坂』のことを知らない子に解説してる声が聞こえてくる。解説なんて大げさなものじゃないけどさ。
 空まで駆け上がれそうなほど急な坂。だから『空坂』だ。
 そこまで足に負担をかけて一体何をしたいんだろうか、この男は。
 うん。何をしたいのか、見たくなった。顔が綻ぶのを止められなかった。馬鹿さ加減も針を振り切ると楽しくなる。
「良いわよ。私が勝ったらどうするのさ」
「別に。お前が好きなことしたらいい」
「オッケ。今度の日曜ね」
 満足げに頷いた信也を見たら、また顔が熱くなる。胸の奥のざわざわが、少しだけ大きくなっていた。



 ――思い出して得た結論は、やっぱり後悔だった。
 日曜まで考えても特に信也に対して望みはなかった。小さい時からよく遊んだし、たまに映画とか見に行ったし。さすがに遊園地とか水族館に二人ではいかなかったけど。
 落ちないように信也を抱きしめていると、いろいろと昔の思い出が流れ込んでくるように思えた。これじゃまるで走馬灯だ。死んだことがないから分からないけど、きっとこんな感じで昔のことに浸るんだろう。
 なら、信也がこの坂を登りきってしまったら、私は死んでしまうんだろうか。
 今までの自分が死んで、坂の上の私は、今までの私と変わってしまうんだろうか。
 感じていた不安。漠然としていた不安が形になって、見えたもの。ずっと胸の中でざわついていたもの。
 それが、私が怖がっていたものかもしれない。
 青春映画のカップルみたいに私は足をそろえて荷台に乗って、信也のお腹に手を回してる。落ちないようにしっかりと抱えてるから、背中に密着してる。だから信也は座ったままこいで、坂を登ってる。私にも信也の膝の悲鳴が聞こえてくる。
 これじゃまるで、デートじゃないか。彼氏彼女みたいじゃないか。何を青春してるんだ私達は。
 単純に仲のいい男友達女友達してればいいじゃない。今からでも遅くない。この沈没しそうな船みたいに揺れてる自転車から下りて、背中を押してあげればいい。そうすれば今まで通りでいられる。最も近くて、絶対交わらない私達のままでいられるんだ。
「おっと!」
 自転車のバランスが崩れて、信也の声が聞こえた。空を見ていた私は、勢いに押されて前に身体が向かう。自然と、頬が背中にくっついた。
 もう限界だった。変な考えが暴走していく。
 心臓の音がバスドラムみたいにドンドンと外に聞こえていないか心配になった。信也の耳だけじゃなくて、遠くに見える街全体まで響き渡ってるんじゃないか。
 妄想の心音に耳を塞ぎたくなって右腕を離した瞬間、信也の手が私の手を掴んでいた。
「危ないだ、ろ! ちゃんと、掴まってろ!」
 力強い手。しっかりと握られた手が、お腹に回ってる左手に持ってかれた。
「あと少しだ、から、な!」
「う、ん。頑張ってね」
 自然と口から応援する言葉が出ていた。信也の必死さに思わず出たこともあるけれど、それよりも。
 信也の手は、思った以上に力強くて。
 ここち、よかった。
 信也のバランスを崩さないように背中越しに前を見ると、すぐそこに頂上があった。あと数こぎでたどり着く。この青春劇の終わり。ちょっと寂しかったけれど、嬉しくもあった。こんな坂を自転車に乗ったままで登りきるなんて出来る人はそういないだろう。私を乗せてまで。
「あ」
 そこでピンと来た。もしかして信也のやつ。
「ゴール、だ!」
 自分に最後の気合を入れて、一回足を踏み出す。ペダルが回ると同時に、風景に変化があった。思いついたことを信也に伝えることを後にして、自転車から降りる。
 真上も、進む方向も空だけだった。でも今は私達が住んでいる街並みが下半分に映っていた。ミニチュアの街と、遠くに霞んでる山と、どこまでも広がる空。
 何か、大中小って感じだ。
「大中小って感じだな」
 何度目になるかもう数えるのは止めた。心臓はずっとドキドキしてる。でも今までよりも緊張はしていなかった。バスドラムだった鼓動が耳障りじゃなくなってる。
 だから先に言えたんだろう。
「私の負けね。じゃあ、体重教えるわ」
「いや。もう目的は果たしたから体重はいいよ」
 やっぱりか。思った通りの答えを信也は口にした。
 私の体重を聞いたのはこの坂を登るためだったんだ。聞いておいて登る練習でもするつもりだったんだろう。でもあんな馬鹿な聞き方するから、ぶっつけ本番をやる羽目になったと。
「本当、馬鹿よね」
「会話が繋がらないんだけど」
「馬鹿は否定しないのね」
 涼しい風が火照った身体を冷やしていく。腕時計を見ると登り始めてから十分しか経っていなかった。でも信也には人生で一番長い十分だったに違いない。
 勿論、私にも。
「お疲れ様、信也」
 だから口にしてしまった。今の私達を壊すキーワードを。
「凄く格好良かったよ」
 信也が息を呑んで私を見る気配が伝わる。それまでのぬるま湯に浸かるような心地よさが消えて、緊張が生まれた。これから先に踏み込めばもう戻ってこれないという確信がある。前の景色から目を離せない。
 握り締めた手が、震えだした。
「俺、お前のことが好きだ。付き合って欲しい」
 青春劇の終わりなんて、まだまだ先だった。延長戦でもなんでもない。これからがクライマックスらしい。
「なんで。私なの?」
 ドラマや映画と同じ事を言うなぁ、と思う。
 知らなかった。思ってもみなかった。こういう時に口から出る言葉が、他に思いつかない。信也が私をじっと見つめながら言ってくる。目をそらしていても、強い視線は感じられた。
「ずっと一緒にいてさ、俺以外の男と美智子が一緒にいるところとか考えられなくなってさ。俺は馬鹿馬鹿言われてるけど考えたんだよ。で、答えが出た」
 信也は自分のほうに私を振り向かせようとしない。少しでも力を加えたら私達の何かが砕けてしまうことを知ってる。
 私達は今、壊れていくと同時に作られてる。昨日までの自分から今日の自分に身体が作りかえられてる。
 それは勢いだけならば砕けるのみで、もう元には戻らない。前の状態にも、後の状態にもなれずに『私達』はいなくなる。そんな確信がある。
「俺、ずっとお前といたいんだ」
 本当に、信也はテレビドラマの中から出てきたみたいだ。青臭いと思って笑っていた自分が思い出される。
 ねぇ、あの時の自分?
 あの青臭い言葉は、こんなにも温かくて、こんなにも私の中に染み入るよ。
「私も」
 だから、もっともっと言ってもらいたいと願ってしまう。
「信也のこと」
 最後まで残っていた『今までの私』が、砕けた。
「好きだよ」
 信也の目を見て答える。信也の顔は驚きとか嬉しさとか不安とかいろいろな感情が一緒にいた。まるでパレットの上で色が混ざり合ってるような。
「美智子、顔、なんか」
「パレットの上で色が混ざってるようだ、とか言うんでしょ」
 今度は完全に驚きだけに染まる。コクコクと頷く信也は可愛かった。さっきまでの格好良い信也もこっちの信也も全部が愛おしい。私は今、どんな顔をしているかな?
「信也」
「な、なに?」
「なんでもない」
 いきなり腕に抱きついて言う。信也にとっては何でもないことではないようで、見上げれば口をパクパクさせていた。息は出来ているんだろうか?
 信也の顔ごしに、空が見えた。
 雲ひとつなくて青い空。
 空だけはいつも変わらずそこにある。単純に面積の問題で、見上げた空が十メートル前と同じ場所というわけじゃないけど。でも、今この瞬間の私達が見ている空は、きっと刻々と変わっているんだろう。私達が変わるように、変わらないものなんて、多分ない。
 今あるのはほとんど幸福感だ。坂を登った先にあったものは新しい自分。今までの自分の先にいた、私だった。
 私の視線に気づいたのか、信也も空を見上げた。
 真っ青な空に一緒に溶け込むような錯覚が生まれる。
「空に溶けそうだな」
「うん」
 ほんの少しだけ残る、この先への不安が今だけは消える。
 ほんの少しだけ強く、信也の腕を抱きしめた。

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