B-01 奪われた空

 人は空を飛べた。
 どうして、と言われても説明のしようがない。歩き方を説明しろ、と言われてどうやって説明したらいいだろうか?
 別に翼があるわけじゃない。空中に見えない通路があってそれを歩いているわけでもない。ただ人の歴史が始まったころから人は普通に空を飛んでいた。
 人によって個体差があるのか、ゆっくりしか飛べない人もいれば、馬並の速度で飛べる人もいる。ただ、人がそのように進化していないところを見ると「空を飛ぶ」という能力はどこかオマケ的な意味合いがあるのでは、というのが科学者の意見だ。空力的にはあり得ないし、重力の乱れも検知されず、体内にそれらしき器官も見つからない。
 つまりは人が空を飛ぶプロセスは未だに理解されていない、ということだ。
 遺伝子的に近いサルは飛ぶことが出来ないので、精神活動に何らかの理由があるのではないか、という超心理学的な仮説だけで検証は全くなされていない。
 ただ科学技術の発展はそんなことはお構いなしに進んでいった。
 結局のところ、他の動物が飛べるわけでもなく、普通の物もやはり飛べない。となると車やそれこそ飛行機が普通に発明され、普通に世の中に広まっていった。

 もし人が飛べない世界があったとしたら、この世界はどう見えるだろうか。
 基本的に人が「落下」することがないのでどんな高いところにも人の通行を遮るような設備が存在しない。動物の侵入を防ぐための柵や塀はあるが、人の侵入を防ぐにはそのような設備はまるで役に立たない。
 この世界の「当たり前」はとても奇異に見えるだろう。
 でもそんな「人が飛べない世界」があったら僕は心底行ってみたいと思う。
 何故なら僕は空を飛べないから。

 赤ん坊だって半年もすればフワフワ浮き始める。活発な子ならあちこち飛び回って大変らしい。僕はずっとベッドにいて、いきなりベッドから墜ちて床を四つん這いで犬猫のように這い始めたので親は驚いたらしい。
 病院にも何度も行かされた。ただ「飛べる」原因も分かっていないのに「飛べない」原因なんて分かるはずがない。CTとかMRIとか色んな機械にかけられて、はたまた精神鑑定みたいなのも受けて、異常らしき物は見つからなかったそうだ。何もかも分からない、ってことで学術的興味を持たれなかったことは今考えても幸運だったんだろう。
 それから一六年。実用的な意味で靴を履いて、動物達と一緒に地面を歩く生活をしている。おかげで足に筋肉が付いてしまった。
「よ、今日も地面歩いてるんだね♪」
 上下逆さまに女の子の顔がいきなり現れた。そんなに長くない髪が僕からは逆立っているように見える。
 そいつは僕をヒラリと飛び越えると、僕の横に並ぶ。足が地面から僅かに浮いているが、傍目には彼女も「歩いて」いるように見えなくもない。
 こいつはいわゆる幼なじみ、って奴だ。名前はツバサ。まぁ、その、飛べない僕に対してずっと同じ態度で振る舞ってくれた…… ありがたい奴だ。
「しょーがねぇだろ、飛べないんだから」
 いつものやりとり。他の奴が相手なら険悪な雰囲気になるんだろうけど、こいつとなら単なる挨拶みたいなものだ。
「でもどうして君は飛べないんだろうね?」
 茶化したりバカにした口調ではなく、本当に不思議そうな口調。
「僕からしたら飛べる方が不思議だよ」
「そりゃそっか」
 ツバサが納得したように頷く。
 こんな体質(?)だからこそ、人が飛ぶ理由なんて図書館で一生懸命勉強してみた。世の学者が分からないで、そんな人たちが書いた本をいくら読んだところで、凡人の僕が分かるわけがない。
「何故人は空を飛べるのか……」
 蒼穹を見上げて呟く。
 そこには飛んでいる人たちがとても小さく見える。飛行機に乗ったことはあるが、生身で空を飛ぶ気分はどんなのだろうか? 風を切る爽快感はどんなのだろうか?
「ホント、何でなんだろうね」
 僕と一緒に空を見上げる。
 空はどこまでも広く青かった。

 どんな時代でも同じなのかもしれないが、今の世の中はちょっと荒んでいるように見えた。社会人でもない僕でもそう思えるのだから、本当にそうに違いない。
 きっと「地に足が付いていない」からじゃないか、なんてうまいことを言ってみくなるが、その影響はあると思う。
 人が空を飛べるのは神に選ばれたからだ、と飛ぶ能力に長けた人間を集めている宗教団体があるかと思えば、逆に人が空を飛ぶのは摂理に反していると騒ぐ集団もいる。
 犯罪者は空を飛んで逃げ、それを追う警察も空を飛ぶ。でも相手が速ければヘリコプターで追うこともある。――所詮は人間、最終的には機械には敵わないようだ。
 当然のことながら世の中は空を飛べる者に都合良く作られている。とりあえず自分以外に「飛べない人」を見たことが無いが、同じように苦労している人はいるのだろうか?
 特にニュースにもならないし、話題にもなってないから、知らないだけでそんなに珍しくないのだろうか?
 それでも将来には不安がある。明確にはされていないが、この「能力」が進学や就職にも影響すると聞く。都市伝説かもしれないけど、運動神経抜群で成績優秀、人当たりもいい人が飛ぶのが苦手、という理由を発端として落伍人生を送ったという話もある。
 100%そうとは言い切れないだろうけど、将来その辺で苦労はするんだろうなぁ……

「最近考え事多くない?」
 休日、ツバサと歩いていると、わざわざ上から顔を覗き込んでくる。
「色々とね……」
「そっか」
 またいつものように僕の隣に並んで浮く。何を考えているのか想像がついたんだろう、って僕の悩む事なんてそんなに多いわけじゃないし。
「でも君が君でいてくれれば、あたしはそれでいいと思うな」
 うんうん、と一人納得したように肯く。
 ……お互い、異性として意識し始めたのか、子供の頃からの好意が微妙に変化しつつある。ただ、その方向性は変化してない、と思う。
 口に出してしまえばそれまでの関係が崩れてしまうと思っているのか、お互いその手の話題は暗黙の了解で言い出すことはない。変わって欲しくない、と思いつつ変わりたいのはきっと僕も彼女も同じだろう。付き合いが長いのは良いことか悪いことか。
 そして僕たちの関係が壊れることを悩む前に、世界のルールがたった一つだけど壊れることになるなんて誰も予想できなかった。

「あれ?」
 いきなりツバサが足下をふらつかせた。地面に足をつけて膝をつきそうになる。慌てて手を伸ばして――こんなときになんだが、女の子って柔らかいんだなと感じてしまった――身体を支える。
 何故、と考える前に嫌な予感が頭をよぎり、彼女の膝の裏に手をかけて、いわゆる「お姫様抱っこ」にして抱え上げた。
 幸か不幸か、それとも何かの皮肉なのか、飛べないからこそ歩き慣れていて身体が鍛えられていたのだろう。小柄とはいえ、女の子一人の体重を軽々持ち上げて僕は周囲を見渡した。
「えっ!?」
 彼女の驚きとか戸惑いの混じった声は無視して、僕はマンションの一階に引っ付いているコンビニへと駆けていった。
 ここなら「上」から多少何か墜ちたところで被害を受けることはない。
 僕の様子を見て、さすがにただ事じゃないと判断したんだろう。ツバサは腕の中で暴れることもなく僕の首に腕を巻き付ける。
 入ったコンビニの中も混乱しているようだった。あちこちに商品が散乱し、人が呆然と倒れている。
 間違いなく、いきなり「飛べなく」なってしまったのだろう。自分の予感が当たったことを知ったのと同時に、次に起きることを理解して身構えた。
 風切り音。
 外が暗くなったように見えた。
「?」
「見るな!」
 状況が分からずに外に目を向けたツバサの頭を有無を言わせずに抱きしめた。
 次の瞬間、悲鳴と共に重くて柔らかい物がいくつもいくつも落下する音が聞こえてくる。
 彼女は僕と一緒に「歩く」癖がついていたから転びそうになるだけで済んだ。店内の人も大怪我するほどの高さで浮いているわけでもないから何とかなった。
 しかし、普通に、ごくごく普通に「飛んで」いた人たちは墜ちるしかない。そして余程の高所恐怖症でも無い限り、ビルの十階くらいの高さは平気で飛んでいる。となると結果は正直口にしたくない。
 が、現実は残酷である。
 最初の数秒で僕も直視できなくなった。目を逸らしても血の匂いが辺りに立ちこめる。運良く、はたまた運悪く命が助かった人のうめき声も聞こえてきた。
 見えなくとも凄惨な光景が想像できる。ツバサは腕の中でガタガタ震えているだけだった。

 ……それからどうやって家まで戻ってきたか記憶が曖昧だ。
 気付いたときにはツバサの肩を抱いたまま、家のリビングでTVを見ていた。
 どうにか怪しい記憶を掘り返すと、歩くのに慣れていない彼女を抱きかかえたまま家まで送っていったが、一人でいたくないと言うので自分の家に連れてきたようだ。
 会話もなかったので、とりあえず、とTVをつけてみたが、当然の如くに緊急放送ばかりであった。どうやら世界中で同時に人が飛べなくなったらしい。昔の与太話にあったグリセリンのように。
 建物の中にいた人はほぼ無事だったが、外にいた人はほとんど被害に遭ったという。犠牲者は相当な数に上るらしい。おそらくは全世界の人口の何割、という数になる可能性もあるとか。
 そして無事ですんだ人たちも飛べなくなった、ということに変化はないので、混乱が続いていた。まともに歩いていなかった人が大半で、事態の収拾もおぼつかない。
 うちは両親が家を空けがちなので、食べる物の備蓄は豊富だった。しかもこの家は僕のために「飛べない」人のための構造になっていたので飛べなくなったツバサにとってもしばらくは安心である。
 どのみち、しばらく社会が落ちつくまでは学校も何も無いだろう。僕たちは一週間ほど家にこもって事態を見守ることにした。

 三日くらいでツバサも事態に慣れたのか――それこそ僕に付き合って歩くことが多かったのが良かったのだろう――元気を取り戻し、一週間もあればいつもの調子を取り戻していた。
「大変なことになったわねぇ」
 意外と呑気な口調。そのことを言ってみたら簡単に答が返ってきた。
「だって君がいるし」
 そんなことを言われてちょっと頬が赤くなりそうになり、彼女もそれに気付いたのか慌てて手をバタバタさせて否定する。
「違う違うって! その、ほら、飛べない大変さは君で見慣れてるから…… ね?」
真っ赤になりながら言われても説得力に欠けるが、ここは素直に受け取っておこう。
 社会もそろそろ落ち着きを取り戻してきた。死者の数が尋常ではなかったし、飛ぶ能力は人の手には戻らなかった為、しばらくは混乱が続くだろう。しかしヒトの遺伝子はこうなることを覚悟していたのか、暴動が起きたり集団自殺などが起きたりする事はなかった。
 まぁ無責任ではあるが後の事に関しては、とりあえず学生である自分たちにはやや他人事であった。
 いずれ人間も飛べなくなったことを受け入れるだろう。
 窓から外を見上げる。
 人がいなくなっても空には何も変わりがなかった。
「何故人は空を飛べたのか……」
 それは誰も分からない。

 余談ではあるが、僕はあれから学校を卒業した後、飛べなくなった人たちへのカウンセリングの仕事に就いた。世界が変わったあの日から数年の時が流れたが、未だに人間の世界は完全に追い付いてなかった。そんな中、最初から飛べなかった僕の経験は大変重宝された。
 ついでに幼なじみだったツバサとは法律的にも実質的にも家族になった。もうちょっとで家族が増える予定だ。人生何があるか分からない。
 分からないと言えば、僕に翼が無かったのはどうしてなんだろう?
「何か考え事?」
 幼なじみから関係が大きく変わったツバサが横から顔を覗き込んでくる。
 いや別に、と返してからふと考える。
 もしかして彼女が僕の「翼」だったんだろうか?
 思いついた事がツボに入ってしまい、我慢しようにもニヤニヤ笑いが顔から消えない。
「あ、また変なこと考えてる」
 しょうがないなぁ、という顔をするツバサ。
 呆れたような声を聞きながら、僕はもう一つ思いついたことがあった。
 僕にもう一つ与えられなかった物。
「空」
 子供が生まれたらこの名前をつけよう、と。

inserted by FC2 system