C-12 三つ葉

 全ての始まりは少女との出会いだったのか。それとも、もっとずっと前だったのか。何かの始まりは何がきっかけで始まるのだろう。きっかけは分からないけど、私が妻と離婚をした時からもしかして世界は変わっていたのかもしれない。


 塚原誠二という名の平凡なサラリーマンである私は、その日ひどく酔っ払っていた。仕事が終わり、ふらふらと夜の歓楽街を歩いて飲み屋のはしごをしていたのだ。夜のネオンに飾られた街にふらふらと揺らぐ足取りと同様、気分もふらついていた。
 私は一人で歓楽街を歩いていた。そして一人で飲み屋に入り、浴びるように酒を飲んで出る。またふらついて店に入って――その繰り返し。顔を真っ赤にさせ、すぐ人にぶつかる。謝りながらまた歩く。
 泣き出したいような、笑い出したいような、とてつもない不安と興奮が押し寄せては引いていく。怒りたくなるような――死にたくなるような。時に、ふっと酒の魔力ではごまかしきれないものがこみ上げてくる。


 情けなくも私は、昨夜妻を失った。否『失った』という言い方は正しくない。正しくは、逃げられたのだ。十数年も連れ添った妻は離婚届さえ書かずに出て行った。小学校五年生の娘の手を引き、家を出た。手紙も、何もなかった。少しの荷物が残されて、必要なものだけを持っていって――まるで私も「いらない」ものだと告げているように。
 十数年、もう何年一緒にいるのか分からない。結婚記念日? そんなのいつだったか。娘と遊んだ記憶など、最近ではなしに等しい。
 普段はこうやって飲んだくれたりなどしない、私は真面目なサラリーマンで――真面目すぎて面白みも何もなくて。
 ヤケになって飲んでいる、というのもある。忘れたくて飲んでいる、というのもある。だけどこうやって酒を飲み、飲んで飲んで狂ってしまえば私も少しは変われるのだろうかという思いが根底にはあった。
 一人きりの家は寂しくて、年甲斐もなく帰りたくないと思う。朝まで飲んでしまえばいい、仕事などサボってしまえばいい、と。その考えを振り払うように、すでに視線は彷徨い始めた。
 その時、ふわりといい匂いがした。甘く香るような、それに混じる香ばしい匂い。くん、と鼻を鳴らし匂いの出所を掴もうとする。酒で狂ってしまったと思われた私の頭は、その時正常に働いた。匂いにつられてなんとなく腹が減る。飲んで食べてを繰り返し、もう腹いっぱいに近いはずだ。なのにその匂いは今すぐに食べたいと思わせるような匂いだった。
 私は人を避けながら一本の路地に入った。途端に匂いの強さが増し、自然と早足になる。気付いた時には路地を出て、小さな広場にいた。
 狭い広場には一軒だけ店があった。建物に囲まれてぎゅうぎゅうと窮屈そうだが、客を誘っているような大きさを感じた。私の足は止まらず、店の前まで進む。古風な建物で、気軽には立ち入れない雰囲気を醸し出している。 その雰囲気に気圧され、私はようやくなぜ自分がここまで来てしまったのかという思いに駆られた。なんだか酔いが覚めてしまい、急に現実に帰ってしまったような気がする。戻ろうか、と来た道を戻ろうと後ろを振り返った時。
 からりと開き戸が開いた。足を止め振り返ると、ぽつんと少女が立っている。綺麗な着物を着て、あどけない顔立ちには化粧が施されている。艶やかな黒髪は綺麗に結われていた。柄にもなく人形のようだと思う。娘と同じくらいか、小学校に通っている年だろう。
 そのまま固まって見つめていた私に、少女が綺麗な顔を歪ませてにたりと笑った。やけに澄んだ、よく通る声だった。
「おじさん、お客さんね」
「は?」
 思わず聞き返し、いやと苦笑を洩らす。
「いい匂いがしたもんで来てみただけだよ。客じゃ」
「じいー! お客さんっ」
 私の言葉を最後まで聞かず少女は店の中に叫ぶと、裸足のままこちらへ駆けてきた。裸足で危ないじゃないかと声をかけようとしたが、私の前まで来た少女はきゅっと私の右手を取り上げて握ってくる。
 ぎょっとして目を見開く私に、少女が紅の塗られた唇を引き上げた。
「おじさん、入って。すぐ準備するから」
 くいっと軽い力で引っ張られた。
 結構ですと言って強く振り払えば手を離せたのに、出来なかったのはつい娘の面影を被せてしまったためだろうか。
 店に入ると、玄関口で小柄なおじいさんがにこりと微笑んで座っていた。
「ようこそ」
 床に伏せ頭を下げられて、戸惑う私に少女が微笑む。
「ようこそ」
 それが不思議な一夜の始まり。


 店の中は全室畳で個室だった。それぞれ襖で仕切られていて、こじんまりしている。私が案内された部屋は『三つ葉』という部屋だった。
 部屋に入り、倒れこむように座ると畳の冷たさが肌に伝わる。酔いは覚めたが体は火照っていて、そのひんやりが心地よい。大事な書類が入っている鞄を放り投げてしまったが、今更気にすることもないか。仕事などもうどうでもいい。
 部屋の中は静かで、私以外に客の声や足音は聞こえない。案内してくれた少女もおじいさんも、足音をまったく立てなかったから、廊下も静かで人が通っているのかいないのかさえ分からない。
 けどこの静けさが忘れていた孤独を叩き起こした。急激に一人だという思いが頭からつま先まで伝わり、誰も来ないのではないかとまで思う。いつからこんなに人が恋しくなってしまったのか。人に関しては、来るもの拒まず去るもの追わずで興味も執着もなかったのに。だから捨てられたのだが。
 すっと静かな襖の開く音で、はたと私は現実に戻った。静かな部屋に僅かながら音が入ってきたことが嬉しく、ぱたりと襖を閉めたのは先ほどの少女だった。
「落ち着いた?」
 声をかけられ、私は少女を見る。赤い着物に身を包んでいる少女は、娘と同じぐらいに見えるが大人っぽい。どこか現実離れした雰囲気も持っている。答えられず戸惑っている私に、少女がおしぼりを差し出した。
「おじさん、寂しそうだったから。落ち着きたくなかったんでしょ?」
 そうだね、と少女が一人笑う。
「落ち着いたら、現実に戻っちゃうもんね」
 おしぼりを渡され、少女の言葉に呆然としている私は頭の中が真っ白になった。頭の中を見透かされたような気分になり、何も言えない私を見て少女が立ち上がる。
「もうすぐ料理が運ばれてくるよ。私はおじさんのお付の者なの。私の名前は三つ葉だよ」
 おじさんは、と少女が尋ね、ようやく私は少女の言葉に応えることが出来た。
「塚原誠二」
 ふーん、と自分で聞いておいて興味もなさそうに少女が頷いた。三つ葉というのかこの少女は。
 すっと静かに襖が開き、先ほどのおじいさんが入ってくる。お付の者、と言っても少女が料理を運ぶわけではなく、おじいさんが何度も出入りをして持ってきてくれた。綺麗な彩り、盛り付けされた料理に見惚れる私におじいさんが小さくお辞儀した。
「よい、一夜を」 
 おじいさんが出て行くや否や、私の脳内は目の前の料理でいっぱいになり。じっと横で見つめている少女の視線を気にすることなく、私は次々と料理に手をつけた。香ばしい唐揚げに鼻から抜けるような香りの山菜。味噌の香る熱い汁。魚、肉、野菜、それぞれの食材が生かされ、新鮮で上品に味付けされている。酒は上等なもので、体中が痺れるようないい香りがした。
 食事を平らげ、一息ついた私はやっと横に座っていた少女の視線に気付いた。今までじっと見つめられていたのかとなんだか気恥ずかしくなる。どこかこの少女は娘とは違う。当たり前のことなのだが、それだけではなくこの年代の少女には似つかわしくない雰囲気を持っている。
 その、気まずいという表情が出てしまっていたのか、少女は溜息ついた。
「いいよ、私のことは気にしないで」
「だが」
「いい食べっぷりだったわ、誠二さん」
 思わず体が揺れ、膝頭が机に当たった。名前を呼ばれただけなのにみっともないなと思う反面、私は動揺を隠しきれない。一瞬、妻に呼ばれた気がしたのだ。
 そんな私の様子を見て、少女はしてやったりの笑みを浮かべた。
「さ、もう食事はいい?」
 居住まいを正す少女に、私は崩していた足を正座する。
 そういえば、この少女の言っていた『お付』とは具体的に何をするのか。疑問はまだある。この店が何なのか、ただの食事屋ではないことはなんとなく分かる。不思議な店だ、ここは。
 少女の黒い瞳がじっと見ている。やたらと人のことを見る子だなと思いつつ、自分の脳内を見透かされているようで、少しの恐怖を覚える。でも目が逸らせない。少女は紅の塗られた唇で、まず私に尋ねてきた。
「誠二さん、私がなんの仕事をしているか分かる?」
「お付の者、とかいうやつだろ?」
「そう、私は誠二さん専用の『お付の者』。じゃあ私の仕事はなんだか分かる?」
「仕事? 君は未成年だろう。しかもまだ幼い。小学生ぐらいか?」
 からかわれているのだろうかと眉間に皺を寄せる私に、少女は違うわと軽くあしらう。
「私は学校なんて行ってないわよ。ちゃんとここで働いているの。私の仕事はそうね、簡単に言えば遊女なの」
「あそびめ?」
 君が? と失礼ながらも指を指すと、少女がそうよと頷いた。
「ここがただの食事屋とでも思った? ただの食事屋じゃない。体を売って商売する女がいるところ。私は、まだ体を売ったりはしないけど」
 それ目当てのお客さんもたまーにいるわ、と少女があまりにも当たり前のように言うので、私は驚きながらも尋ねていた。
「君はいくつだ?」
「十一。ここでは年齢なんて関係ないわ。確かに私が一番年少だけど」
「他にも、その……遊女が、いるのか」
『遊女』と言う言葉を発するのに躊躇いを見せた私を、少女は面白そうに笑う。
「誠二さんはやっぱりそういう人だと思った」
「そういう人?」
「体とか女目当てじゃない。もっともっと、身近なもの。だから私が呼ばれたの……私の本当の役目はね、寂しさを満たすこと」
「寂しさを満たす?」
 少女が頷く。そうして少女の次に発した言葉に思わず私は絶句してしまうのだ。
「誠二さん、私を娘さんに重ねたでしょう?」
 一番初めにそう思ったあなたは、今とても孤独なのよね、と。
 そして私は、体の芯から突き上げるような孤独に覆われた。全てを知っているのだと、この少女は分かっているのだと思った。なぜだかは分からない。
 うまい飯と酒を飲み、この不思議な雰囲気に酔っていたのか、私はすっかり少女の作り出す空気の中にいた。
 一人で過ごす夜が怖い。やっぱり人がいる家がいい――我侭なのだと思う。今更なのだとも。いなくなってから気付くなど。
「後悔しても仕方がない。けど、寂しい? 誠二さんは匂いを嗅ぎつけてきたって言ったけど、誠二さんは孤独を癒す匂いに惹かれてきたのよ。空腹なのはお腹じゃない」
 そうでしょう、と首を傾げられたが私は何も言えなかった。
「満たしてくれる者がいないのに、一人。一人は、怖いのよ」
 諭すような少女の言葉に、応える代わりに涙が頬を伝って落ちスーツを濡らした。少女の小さな手がふらりと私の頬を触れ、涙を拭う。
「一人が寂しいのは、当たり前のこと。恥ずかしいことじゃない。でも、死んでしまいたいなんて思わないで」
 つきんと胸が痛んだ。あまりにも少女が悲痛な表情を見せるから。
 そうして歓楽街を彷徨っていた時に私は死んでもいい、と思っていたのだと思い出した。酒に溺れて結局狂えなかったら死んでしまえばいいと。妻と娘に捨てられ、私は一人なのだと思った。
「仕事を頑張っていたのは、家族のため。もう……いなくなっちゃったけど、誠二さんは頑張っていたよ」
 少女の言葉が一つずつ私の心を引き戻すようだった。バラバラに崩れ去った私が形になって戻ってくるようだった。一人になれば解れてしまう私の心を、強く繋ぎとめるように。
 そうやって私は涙を止めることさえ忘れて、少女に縋り付いて泣いた。少女はそんな私を蔑むことなく、優しく背を撫でて受け止めてくれた。
 幼子に戻って、母に縋り付くみたいに。


「誠二さん、って呼ぶのやめてくれるか」
 時間にしたら十分ほどだったと思われるが、私にはとても長い間少女に縋り付いていたように思える。情けなく大の男が醜態を晒したのに、少女の表情はけろっとしていた。だから私も普通に喋ることが出来た。
 おしぼりで涙をふき取りつつそう言うと、少女は案外あっさりと承諾した。
「じゃあ『おじさん』でいいわね」
 にっこりと微笑まれたが、もう少女の姿を娘に重ねることはない。
 誠二さん、とは妻が私を呼ぶ時の呼び方だった。少女に誠二さんと呼ばれると妻の残像が見えるのだ。優しく呼ばれると不意に泣きたくなる。こんな声で、こんな優しい声で呼ばれていた時もあったのだと思い出す。
 まだ過去のことを引き出されるのは苦しくて、逃げているのかもしれないが少女は甘えさせてくれた。すっと襖が開き、小柄なおじいさんが現れる。
「お食事、下げさせてもらいます」
 空になった皿を重ね、次々と机の上が綺麗になっていく。
 片づけが済み、私は適当に放り投げていた鞄を開けた。大事な書類は無事だった。折り目もない。ほっと息をつき、鞄を持つと襖が開いて片づけを手伝っていた少女が戻ってきた。
「もういいの?」
「ああ、大丈夫……あの、会計は」
「いらないわ。野暮なこと聞かないでよ」
 言ったでしょう、ここは普通の店じゃないって。生意気な口調に思わず笑みを零す。


 部屋を出て玄関に着くまで、私たちは誰一人ともすれ違わなかった。他に客はいるのかと尋ねると少女が頷く。
「いるわ。体目当ての人もいるけど、みんな『匂い』に惹かれてここに辿り着いた人たちばかり。ここは静か過ぎるでしょう? だから不安になる。でもその剥き出しの不安を私たちが癒すの」
 不安から抜け出せない人もいる。だからあなたはラッキーね、と少女が笑った。
 玄関で靴を履いていると、おじいさんが出てきた。
「いい顔をしてますね」
 よかったですね、とそのあまりの優しい声音に思わず涙腺が緩む。いつの間に私は優しくされることに慣れていなかったのだろうか。小さくお辞儀するとおじいさんと少女もお辞儀を返した。
「孤独で腹を空かせたら、またおいでになってください」
 からり、と開き戸を開けると夜が明け始めていた。夜の深い青に星がうっすらと輝き、遠くの空は白みを帯び始めている。
 ちらりと振り返ると、少女は顔を上げて泣きそうに私を見ていた。
――孤独を癒す者が、寂しくなってどうするんだ。
 声なく口を動かし礼を言うと、少女の顔にようやく笑みが見えた。
 最後まで名前は呼ばなかった。私は開き戸を閉め、店を出た。


「お父さんさ、変わったよね」
 ずず、と茶を啜った愛娘の言葉に、女は「そう?」と首を傾げた。内心は娘の言葉に驚いたが僅かな動揺を悟られないために、女は読んでいた雑誌を捲る。
 母と子二人の生活。離れて暮らしている元・旦那に離婚届を差し出すとあっさりと判を押してくれた。どこかすっきりとした表情を見せ、真摯に謝った姿を思い出す。
 離婚届を書き終わり、娘に会いたいと言われた時は意外な言葉に驚いた。まったく家庭を顧みず、娘との会話を楽しむなどあの人にはなかったのに。娘も驚いていたが承諾し、一ヶ月に一回電話で予定を決めてどこかで会っている。離婚して一年経つが、それは今でも続いていた。
 娘の中ではお父さんであるその人に会ってきた、ある日の夜。食後のゆったりとした時間に呟かれた言葉だった。変わったよ、と娘が繰り返す。
「私、お父さんって苦手で嫌いだったけど。私を見る目がお父さんっぽいの」
「そりゃ、あんたのお父さんだからね。一応」
 茶化してみるが、娘はそうじゃないと頬を膨らませた。「今までそんなことなかったもの」と。お父さん変わったよと呟く娘の表情がどこか柔らかくて、女は驚いた。そして思わず尋ねてしまったのだ。
「……お父さん、好き?」
 声が緊張で硬くなり、頬が強張った。そんな女の表情を伺い、娘は照れの混じる声で言う。
「たぶん……今度会うときに、お父さんって呼んであげたいぐらいは、好き」
 今度会ったときに、変わったよねって言ってみよう。心の中だけで秘めて、娘は微笑んだ。

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