A-12 そらうみそら

 空は、青、銀、黒。ときどき金で、そして赤。
 ゆらめき。波線がいくつも現れては消える。わたしたちの息をむこうがわに溶かしていく。
 ゆらめく空のむこうがわには、何もないんだって。
 いちばん物知りのシーがそう言って、わたしは勢い込んだ拍子にぷかっと息を吐いた。
「じゃあ、じゃあ、地面はないの? 空のむこうには生き物はいないの?」
「いいや、パル。地面はあるし生き物もいる。けれど私らと同じ世界を思い描いてはいけないよ。ずっとかけ離れているから」
 話し込んでいるわたしたちを気にも留めないみんなのむこうを見る。まったく想像がつかない。今も波線を描いて光を投げかけてくる空のむこうには、住めるような場所があることや生き物がいること。そしてかけ離れているという世界があるということなんて。
「山を思い描くといいよ。見上げても頂上がまったく見えない、私らが一生をかけても登り切れない山だ。麓に私らがいて山の中程にあの揺らめく空があるとする。中程から上は空の向こう側で、上の山には生き物が住んでいるんだ」
 シーは本当に空のむこうがわに行ってきたひとで、元々ずっと遠いところから、冷たい『流れ』に乗ってやってきたのだという。シーはここは温かくて気持ちがいいと笑う。シーがいたというそこはわたしが感じる『流れ』とはちがって、冷たいらしい。そして空のむこうがわはそれよりもずっと凍えるようなのだと。
「包んでくれる水がなくて私は凍えてしまいそうだったよ。粉々になってしまうかと思った」
 シーはそう言って過去のことと笑うけれど、わたしはいつもどきどきした。だってシーはわたしなんかよりもずっと小さな、無邪気でかわいらしい姿をしていて、すぐに壊れてしまいそうだった。わたしの知り合いには欠けた姿を誇るひともいるけれど、シーのきれいな薄明るい身体に渦を巻く模様は、絶対損なわれてほしくなかった。
「シーはどうやって空のむこうがわに行ったの?」
「空の向こうにはね、かみさまがいて、時々気まぐれに私らを掬い上げなさるんだよ」
「空のむこうの生き物のこと? 本当にかみさまがいるの!?」
 シーはくすくすと笑う。細かい息が小さな無数の泡になる。
「実は私にも分からないんだ」
「なあに。からかったの?」
 むくれてべーっと舌を出すと、シーはそんなことなんでもないとにこにこしていた。
「でもね、行かないに越したことはないよ。いくらかみさまに掬い上げられても、あんな冷たい場所はごめんさ」
「かみさまに選ばれたのに?」
 シーは「かみさまがいる所と私たちの住む所は違うからね」と静かに言った。
「ここで十分だよ。世界のすべてに包まれているここでね」
 それはわたしに言い聞かせているようで、わたしは長く息を吐いて、空のむこうに溶けていこうとする泡を眺めるふりをしていた。
 流れを感じたのはしばらくしてからだった。
 ふいに地面に影が差して、わたしは大きなだれかが迷い込んできたのかと空を見上げた。空のゆらめきは大きくなって、長く太った影が、空のただ中に静止していた。だれだろうと思ったけれど、わたしは流れを感じていやな予感に襲われた。それは不吉なほど動かない。急に水が沈んだ。同時に長細い影が現れて、まっすぐこちらに向かい始めた。
 地面に濃く影が現れたことによって、魚たちは消えて、いそぎんちゃくたちは引っ込んでしまった。無口な珊瑚たちはいっそう堅くなり、海草や微生物たちは元々なすがままで漂っているから関係ないとしても、だれもがただならぬ小さな世界の異変を注意深く感じようとしていた。
 わたしは『流れ』に乗ろうと力を抜いたけれど、わたしはシーのように小さくもなければ、魚のように身軽でもない。ただ影が目前まで迫ってくるのを見て、立ち竦んでいた。
「パル!」
 シーの悲鳴がどこからか聞こえたとき、わたしは地から引き離されて重たい影の中に包まれていた。
 そのままぐんと引っ張り上げられていく感覚があって、ようやくシーの話を思い出した。
 かみさまだ。かみさまがわたしをすくいあげたんだ。
 迫ってくる、空。ゆらめきが近い。銀の波線が、いくつも。
 光が迫って何も見えなくなった。
 自分から、世界の名残が落ちていくのが分かる。ひとつひとつわたしを包んでくれていた水が離れていくのを感じた。それから冷たい『流れ』。シーの話のように本当にかすかなのにすっと身体が冷たくなるのだけれど、どちらかというとかみさまがわたしを包んでいる温かさの方が気になった。
 大きくて明瞭だけれどわたしには分からない音で、多分かみさまが何かを言っていた。その相手はもう一人のかみさまで驚く。かみさまはおかしな形をしている。四角の上に海草のようなものが生えていて、下の四つの方向に枝を伸ばしたやわらかい珊瑚と繋がっているように見えた。
 そのときわたしは無造作に空のむこうがわに投げ出された。くるりと回って、わたしの世界から続いているという大地に身体をぶつけ、思わず痛いと叫んで震える。けれど次の瞬間にはあっと息をのんだ。
 わたしの視界いっぱいには、空が広がっていた。
 空のむこうがわ!
 青い空にはゆらめきがひとつもなくて、ただ何もない場所だった。わたしの震える息はかたちに残らずすぐに消えていく。目がくらむほどの鮮やかな青色。ゆらめきの代わりに白いかたまりがあって、それに目を奪われた。
 なんてきれいな白なんだろう。今までの世界では見たことがない。空の色にすら染まっていない真白。まるで私の核のよう。でもとても大きくて自由なかたち。
 かみさまが手を伸ばしてくる。わたしは最期を知って、それでも微笑み続けた。
 わたしは空にたどりついた。

   ・

「おお、美しい真珠だ」
 大振りな純白の宝珠を見て、王は感嘆の息を洩らした。
「これならばきっと喜ばれるであろう。さあ、ミナキ、これを」
 私は真珠を受け取った。何の装飾もされていない掌に乗るだけの小さな粒を、台座ごと。そうしなければいけない。
「かみさまにお渡しして参ります」
「頼んだぞ。お前はこの国で唯一かみさまに近付ける巫女なのだからな。そうだ、かみさまにまた戦について尋ねておくのだぞ。お前の占だけでは心許ない。今度こそ西の国を」
 ぐっと胸が重みを増して足取りを鈍らせる。それでも凶暴な笑みを浮かべる王に深々と礼をして、台座を戴いたままゆっくりと下がった。
 向かうのは本宮から更に奥だ。そこには未来を視てこの国を守るかみさまがいる。そこへ至る道はとても長く、巫女や呪師によるまじないがかけてあって、そのまじないをねじ伏せられる者以外は辿り着けぬようになっている。
 私はもちろん簡単にいくことが出来るのだけれど、とても面倒だった。衣装はずるずると裾を引きずるし、玉砂利の場所や土が剥き出しの所を行かねばならない。空を飛んで行けたらどんなに楽だろうと思いながら、実際は自室で誰かの恋占いをしているのが一番楽しい。例え苦労して奥宮に行っても、いらっしゃるのはまったくろくな方じゃないのだ。
 まじないを通り抜けて私はようやく奥宮に入る。いくつかの部屋を横手に見て行った先の部屋には一番強力なまじないがかけられてある。鏡のように映る上等な木材が香るだだっ広い一室の中央に、面会すべき人の姿はなかった。私は眉をひそめた。書き置きがある。
『裏にいる』
 会いに来るのは私しかいないわけで。つまりこれは私に宛てられたもので。
 また面倒な場所にとため息をついた。裏と言ってもまた長い道のりがあった。廊下を行った奥宮の裏という意味ではなく、裏で建物を囲むまじないを抜けて庭木をくぐった先の崖なのだ。一人になるには絶好の場所。
 こうなったら台座なんか捧げ持っていられないと思いっきり投げ捨て、真珠を掴んでずんずんと部屋を出て裏手に回った。また巫女装束を汚してと嫌味を言われるのを、あの御方は分かっているのだろうか。
 まじないを今度は外側に抜ける。自由になっている庭木を払い除け、髪に引っかからないように気をつけて行く。潮の香りと波音が辺りに満ちているのをどんどん濃い方へと進む。夾竹桃が両側から生えているのを無理矢理通り抜けた。
 ばっと風が舞い上がって思わず閉じた目をゆるゆると開ける。太陽は金色で雲の濃淡が強い空。海は光を反射して金にも銀にも見える。尖った崖の向こうは空と海だけの世界の先端のような場所に、かみさまは座っていた。
 がさがさと音がしていたはずだから、気付いていないはずがなかった。振り返ったかみさまは、やっぱりと、受けた光を淡くこぼすように笑った。
「やあ、元気だね?」
「……元気だねじゃないわよ! またこんな所にいて。そんなに海が好きなら飛び込んじゃえば! 生まれ変わるなら海の生き物なんでしょ」
 何故か一瞬ぐっと詰まったけれど、気を取り直して腹の底から怒鳴る。
 海の底には何があるだろう、海の底の生活はどんなだろう、彼らに空はあるのだろうかと、息をする代わりに考えているろくでもない人だ。
 少々髪を乱し衣服を乱した私に、かみさまはおかしいなと首を傾げた。
「うん、確かに貝になりたいなあと思うけれど。でも君、奥宮は堅苦しいと言ったじゃないか」
「毎回毎回こんな険しい場所に来られちゃ不機嫌にもなるわ!」
 ここは先端がいつ崩れるか分からない場所で、下は波が激しく打ち寄せて絶えず鳴り響く海。落ちればあっという間に海に消えるのは確実だ。髪ももう整えるのが馬鹿らしくなるほど風にばさばさと煽られる。
 ふんと鼻を鳴らし適当に髪をまとめて、かみさまの隣に許可も取らずに座る。
「どうぞ! 今回の貢ぎ物!」
 突き出した掌の真珠を、かみさまは困惑の目で見つめた。
「いらないのに。君が持ってた方がいいよ」
「儀式なの。規則なの。あなたが持たなきゃいけないの」
 しぶしぶ受け取るかみさまは、その少女のような手の上でそっと宝珠を転がす。じっと食い入るように見つめているから、一瞬呑み込んでしまうんじゃないかとひやっとした。そうすればこの人は望む貝になるんじゃないか、なんて。
「僕が持ってるよりふさわしい人がいるだろうにね。海のものは海に返そうか」
 そう言うなり立ち上がると大きく振りかぶった。
 あっと声を上げる間もなく、白い宝珠は空と海の狭間に吸い込まれていく。もう誰にも見つけられはしないだろう。
「ああ……もったいない……」
「あれ? 欲しかったの?」
 まさか! と思わず返してしまうと、それならいいよと笑顔。
「こうしておけば、いつかふさわしい人が見つけるからね。……そういえば、知ってる? 金と白と赤と青と黒、すべての色を持つ雲を、真珠雲と言うんだって。夕暮れや朝焼けの時に見えるそうだよ」
「……ふうん」
 確かに今は段々と日が暮れてきたけれど、今この時を雲をそうだと言ったわけではなかった。そしてその他含むところがあってそんな返事をしてしまう。
「興味なさそうだけど、本当にね、綺麗なんだよ。僕は一度しか見たことがない」
「もし私がその雲を見ても、私一人じゃ分からないじゃない。一緒に見なきゃ」
 かみさまはぱあっと、何が嬉しいのかと思うくらいに顔を輝かせた。
「そうか、そうだね! じゃあ一緒に……」
 だが不意に口を噤んだ。急に厳しく眉を寄せ、耐えるようにじっと唇を噛み締める。
 未来が見えたのだとすぐに分かった。
 生まれ変わるなら貝になりたいと言ったこの人の言葉が思い出された。未来を知って告げることによって、人の死を左右してきたこの人は、物言わぬ存在になりたいと願っていた。貝になりたいというのは、きっとそういうことなのだと。
 胸に黒い影が差す。遮られた喜びの言葉はなんだか不吉だった。
「王が西の国へまた戦争を仕掛けるみたいだったけれど……」
「うん……」
 ぼんやりと答えが返ってくるけれど、返事をしているという意識はないだろう。めまぐるしいものを見るかのように瞳がぐるぐる動き続け、しまいにかっと見開かれた。綺麗な黒から、涙が溢れ。
「ど、どうしたの!?」
 思わず掴みかかった私に、かみさまは呆然と視線を合わせる。
「……ミナキ……」
 過ぎ去ったのは希望。消えていく希望。
 こぼれ落ちた。
「逃げて」
 かみさま自身何を言っているか分かっていないように思われた。それほど唐突で、思いがけない言葉だった。
 次の瞬間、かみさまは口から血を吐いた。
「!?」
 思わず抱き留めにかかると、あっという間に巫女装束が血に染まる。
「かみさま……!」
 叫んだ瞬間はっとして、後ろへ下がった。
 武装した男たちが前を塞いでいた。かみさまを貫いた剣は血を払う為に振られる。持った盾の紋章は、西の国の。
 ごめん、と謝る声。
「……装束……血……汚れ……」
「馬鹿言ってんじゃないの! こいつら、いつの間に……」
 よく見ると庭木の向こうの空には黒煙がたなびいている。多分本宮だ。火を点けられた。
 西の国にかみさまがいるという話は本当だったのだ。だから王は西の国を滅ぼそうとして、けれどあちらの方が早かった。そうして彼らはまじないをねじ伏せられる人間を連れて攻め込んできたのだ。未来を視てわたしたちのいる場所を突き止めて、ここまで。
 後ろは断崖絶壁。逃げ場所がない。あったとしても、かみさまを抱いて走れない。彼らは確実にかみさまを殺せと命令されているはずだ。そうして次のかみさまになる可能性のある私を。
「……真珠雲……」
 かみさまがうわごとを呟く。
 追い詰められたその空はあまりにも美しかった。
 深い色の中に淡い色が重なって光沢を持って見えた。柔らかい一瞬を切り取ったような輝き。真珠貝の色。真珠に投げかけられた光の輪の色。
 逃げられる場所。放り投げられた真珠。『海のものは海に返そうか』『こうしておけば、いつかふさわしい人が見つけるからね』
 いくつかの光景が過ぎ去って、ひとつを私に示した。
 じりじりと荒い息で迫る兵士たちに、私は笑った。かみさまを抱き締め、恐れもなく後ろへと下がりながら。どこへも行けはしないと嘲笑う彼らに、私は嘲笑で返した。
 私は海に返すだけ。
 そうして私は崖の上から海の向こうへと身を投げ出した。
 海面に叩き付けられた痛み。鋭い岩に傷つけられて血が流れていく。水が口の中に流れ込んでくる苦しみと黒く塗り潰されていく意識に、私はやがて海の底で眠ることを知った。
 世界が変わる。大地は海の底に。空はやがてゆらめく海面に。
 いつまでもかみさまを抱きしめ、ゆらめく空を見つめ続けた。これまでと同じように、あの蒼穹のように、このゆらめきは紅や藍に染まるのだろうか。
 今は明るく白に近い金色。光の筋が幾本も射して、私たちの行く所を示している。なんて綺麗な色なんだろう。今までの世界では見たことがない、絶えず変化し続ける光を投げかけてくる空。海の世界の空。
 私も一緒に、あの真珠雲のような美しい輝きを持つ貝になれるだろうかと考えた。腕の中のかみさまはただ海に返るだけだけれど、私はどうなるだろうか。
 かみさまは海の底には何があるだろうと言ったっけ……。
 空は青、銀、黒、ときどき金で、そして赤。
 光り輝く真珠雲はもう見えない。
 それでもゆらめく空の向こう側で、雲は輝き続けるのだろう。

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