B-06 未だ凍てつく春の中

 山間の里を発って一日、冬枯れに閉ざされた銀の奥深く、ふいに色が飛び込んだ。行路こうろはつと白く息を吐く。蝶である。本来は冬を蛹のまま越さねばならぬというのに、惑って羽化してしまったらしい。すっかり白に慣れた目に黄色と青の色彩が懐かしく、思わず見上げれば、立ち枯れに咲く樹氷の合間、灯るようなナナカマドの実が揺れた。
 ひらと舞いながら、雪などものともせずに蝶が高く飛んでいく。冬の蝶にしてはておらず、些か元気すぎると目を凝らせばその先、緑があふれた。
 霏霏ひひと降る牡丹雪の重ね、遠く空音か、高く。
 ――春告鳥の声が、した。

 春が湧いたのだ、とその娘は言った。山奥の小さな庵の主である。
 庵の外では、凛と立つ桜が紅を振りまいていた。帰花かえりばなには咲き過ぎる。おまけに庵を包み込むように若葉が芽吹き、雪は萌える緑に負けて溶けゆくとあっては、疑いようもなくこの庵は春だった。
 白と緑の境界が手に触れられそうなほどたしかに引かれている。
薬師くすしだといったな」是と答えると息が白く濁った。
「京より話を聞いて参りました。奇妙な病を患った者がある、と」
 年は十四、名は巴、元は大家たいかの娘と聞いている。行路の言葉に娘は肯き、息だけで笑った。「京まで話を持っていってくれるほど、情があるとは思わなんだ」
 こごる体を縮める行路とは対照的に、ひとつだけの炭櫃を行路に差し出して、巴は薄衣の重ねひとつで平然としている。だから、それはすぐにわかった。娘のなめらかな肌は蝋のように透き通り、その下に美しい緑の紋様が透けている。それはまるで羽化を待つ蛹の様相だった。
 行路の目が紋様を捕らえたのを知って、巴は言った。
「感染るやもしれぬぞ」「いえ、少なくとも今は」
「抱えの薬師も匙を投げたというのにわかるのか」
「キシュですから」キシュ、と鸚鵡返しに問う声に目を上げる。
「稀かな種、あるいは寄る種と書きます。時にあてなるとも」
「初めて聞くな。病の種類か」
 否と首を振る。「植物のたねです」
 音がしそうなほどはっきりと、巴は瞬きした。種、と問うのを肯いて答える。
「植物でありながら心を持つかのように動き、留まり、その生の範疇を出てあたかも貴きもののごとく在る。そういった種です」
 まったく納得できていない顔の巴に、行路は付け足した。
「寄ったのはウツギの種でしょう。春になると白い花を咲かせる雪見草、あの種のひとつに、花をつけぬものがあります。それを空貴ウツギという」宙に指先で文字を描く。
「……地中深くにありて種を飛ばし、生に宿りて肌を殻とし、春を振りまく」
 歌うように行路が続けた言葉に、巴は目を瞠った。その目と合わせて行路は肯く。「それが、空貴です」
 巴は己の白く透き通った腕を撫でた。
 炭櫃にかざしていた手をつと揃えて、行路は礼をした。
「治せるかどうかはわかりません。しかしその寄種、私に預けてはくれませんか」
 巴は目を眇めた。しばしの沈黙、後、吐息で笑った。「捨てられた命だ。どうとでもすればいい」

 預けてくれと言いはしたものの、行路は顎をさすった。寄種の研究は京でもあまり進んでいない。殆どが継がれてきた薬師の手控てびかえで、古くは口伝によるものとされている。宿主である巴の手前、口にすることはなかったが空貴については気がかりがあった。蝉のごとく、と記されていることがあるのである。先ほど見た巴の肌、あの緑紋はたしかに蝉の羽を思わせた。しかしそれ以上に、
『地中深くにありて種を飛ばし、生に宿りて肌を殻とし、春を振りまく。――夏の戸叩きうつせみ残して去りぬ』期限は夏まで。長いのか、短いのか、行路にはわからなかった。

 天涯より垂れる藍が映える。庵から離れればただひたすらに雪原は続いていた。春が湧いたのだと巴が語った通り、いずる湧水のごとく花が咲き萌える。庵の小さな垣根を越えると、音もなく雪が止んだ。
 縁側に腰掛け、緑紋の浮く細い足を遊ばせていた巴が顔を上げた。「おかえり。髪が真っ白だ、行路」指摘に雪を払うと、何が面白いのかよく笑う。初めて庵を訪れた時こそ言葉少なだったが、巴はやはり十四の娘で、よく喋りよく笑った。行路が十七と年近いこともあり、滞在が三日過ぎた頃には行路、行路と呼び捨てに、返事をせずとも話しかける。
「整った造作をしているのにもったいないな。からかっても眉を少し顰めるだけだ」
 行路は鼻の上に皺を寄せた。するとすぐに「ほら、嫌そうな顔ばかりする。少しは笑ってみせたらどうだ」と巴が笑う。埒もない、と行路は首を振り、それより、と切り返した。「また獣を庵に入れたでしょう」
 責める口調に巴は唇を尖らせる。「私の庵だ。私の勝手だろう」
「そういう話ではなく。野生に戻れなくなるからやめなさい」
「春になれば寄らなくなるさ」巴は立ち上がり、足下の緑を払った。「山の冬は長い。食物もなしに、命を落とすよりはよかろう。それとも、獣は餓えて死んでもいいというのか。行路だって、この春のものを食べているというのに」行路は眉を跳ねた。
「大家のわりに、よく冬を語る」
 凝る寒さも知らぬくせにと見下ろせば、巴は鼻を鳴らした。
「同じ病で母が追い出されてから、ずっとこの庵暮らしだ」
 たんと笑い、行路を見上げる。
「……心配せずとも、私のまわりは偽の春、真の季節には敵わぬ」
 かたちはまだ女らしくもなく、所作は童そのものだというのに、妙に大人びた笑いを浮かべる時がある。行路は居心地の悪さを感じ、ひとつ首を振るに留めた。

 冷える。春告鳥は器用に啼き、花笑うというのに、花冷えなのか、それともこれが本来の寒さなのか。つい竦めてしまうから凝る肩を押さえつつ筆を置く。
 先日、巴の母も同じ病だったと聞いた。だとしたら芽生えの時に感染――寄ったのだろう。その時、彼女はどういう様子だったのだろうか。うつせみ残して去りぬと古く薬師が語ったように、抜け殻のように死んでいったのか。巴に聞こうかとは思いながら、躊躇いもある。さてどうしたものかと思案し、炭櫃に新しい炭を足していると、縮こまる背が重くなった。
 掛けられた綿布団を下ろしながら振り返る。「行路は寒がりだからな。京の生まれか?」相変わらずの薄衣で巴が笑った。
「生まれは北です」そうなのかと問う声にそうだと肯く。「寒い処か」肯く。「どんな処だ」
「どんなと言われましても。……冷たい川のあるところです」巴が吹き出した。「どこにだって冷たい川はある」ひとしきり笑い転げて、目の端に滲んだ涙を拭いながら「でも寒がりだ」と笑う。
「あなたほど暑がりでないだけです。ほら、ちゃんと障子を閉めて」憮然として言う行路だが、巴は聞きもせずに障子を開け放った。どうと吹き込んできた風が凍てつきながらも、甘い緑の匂いがした。「見ろ、桜も葉が出てきた」
 満開だった淡紅は見る影もなく、黒樹にはたしかに青々とした葉が瑞々しく顔を出している。行路は目を瞠った。季節が巡ろうとしている。薬師の語った夏は、予想よりもはるかに早い。
「尋ねたいことがあります」縁側の廊下で障子にもたれながら、巴は行路を振り返った。
「母君のことです。同じ病だったと」是と応えて肯く巴に、行路は言葉を迷って視線を落とす。けれど適する問が見つからず、詰まりながらも口にした。「その末期のことです」
 巴は猫のように目を眇めて行路を眺めると、つと離して桜を見上げた。声は低く、言葉は短い。「殺された」
 予想しなかった答えに行路は目を見開いた。
「母は屋敷でこの緑が浮き出てきた。奇病といって追い払われ、倉に閉じこめられ、ここぞとばかりに責められた。父に一番愛されていたからな」淡々と語りながらも、次第に頭が垂れて膝の間に埋まっていく。「一番愛していると言ったのに、火をつけたのは父だ」
 京を遠く離れた、郷の風習としては大いに考え得るものだった。流行病に罹った者を、火にくべる。食い扶持を減らすために子を川に流すことさえ、時にあるのだ。珍しくもない。くんと巴の鼻が鳴った。炭櫃の中で真新しい炭が爆ぜる。その音に震えた巴には、まだその火の匂いがするのかもしれなかった。
「私はまだこれが出ていなかったが、母の近くにいたから郷にはいられなかった」せめてもの情けと与えられたのがこの庵だという。「人は冷たいな、行路。生きるためならどこまでも残酷になれる」
 小さな体をさらに丸めるように膝を抱える巴を、行路はどうすることも出来ずに見つめた。そういうものだけではないと慰めればいいのだとわかってはいたが、出来なかった。
 凍てついた川の冷たさは、沈んだものにしかわからない。流されもがく無力も、何処までも澄んで青く見上げた空もだ。共に流れてきた椿の赤さに血潮は凍り付いた。行路には、眼前で燃えたその熱を慮ることはできても感じることは出来ない。
 言葉もなくただ巴を見つめていると、顔を上げた。頬が濡れている。行路を見上げて、なぜか巴の方がずっと困った顔をする。
「怒っているのか」否といらう。怒りなどなかった。そういった衝動じみた熱は失われている。ただどうしていいかわからないだけで。首を横に振ると、そうか、と巴が目を伏せた。

 撥と凝る手に息を吐く。白く濁る。暖かいのか、寒いのか、緑と白が混じり合う。境界は庵の垣根で、そこから滴る玉水が垂氷たるひとなるのに、縁側にある行路の足下にはもう露草が蕾を綻ばせていた。通常の巡りより早く、一足飛びに過ぎようとしている。行路が庵に来てから一月が経とうとしていた。
 相も変わらず野生の獣を庵に招き入れては、庭先の草を啄ませる巴を叱りながら、いつまで続けられるのかと思う。寄種に有効とされる様々な薬は試した。治療法もいくつか試みた。けれど一向に巴の緑紋は消えず逆に濃くなるばかりで、ついには首にまで現れ、頬にも伸びようとしている。巴を中心に湧く季節はあふれ、もはや春とは呼べない。初夏だ、もう夏になる。
 夏の戸叩き、うつせみ残して去りぬ。
 時間が、ない。

 寝苦しいような気がした。綿布団を蹴りながら目を覚ますと、深《しん》と暗い。まだ夜明けの声も聞かぬ。再び目を閉じようとすると障子の向こうで音がした。縁側に出てみると、巴が桜の下に座り込んでいる。その肌に濃く緑が浮かび上がるのを見て、ざっと血の気が引いた。「巴?」
 巴は振り向くと、手で行路を呼んだ。少し緑紋の浮いた頬に、笑みが浮いている。それに安堵しながら、行路は庭に下りた。「こんな夜中に何をしているんです」
 巴のかがみ込む先を見ると、淡翠を帯びた白い蝉がじっと桜の根本に止まっていた。空蝉の上に乗り、羽根を震わせている。「夕方見つけてな。さっき、羽化したところなんだ。きっと朝には、飛んでいく」
「私の春は生物に優しいのかと思ったが、そうでもない。この蝉は庵を出たら子を残せない。七年も我慢したのに、すまないな」蝉を見つめながら、独り言のように連ねて淡と滲むように笑う。行路はなぜだか見ていられずに、目をそらした。
「それにしても、こんな夜中に。眠れないんですか」いやと否定しながら、巴は言葉を濁した。再度尋ねると、苦笑した。「夏の夜なら短いというのに、ここは夏なのに夜が長くて、持てあましてしまう」
 いくら巴を中心に季節がずれているとはいえど、世はまだ冬の最中で、だから日が短く夜が長いのは当然だった。巴は白く蝋のように透き通る腕をさすり、そして胸を押さえた。「音がするんだ」行路を見上げる。
「聞こえないか。この身の奥、深くが鳴る。営みがある。私の心臓の音とは、別に」
 行路は息を呑んだ。それは、寄種が別離しようとしているのではないのか。「気持ち悪く、ないですか」言葉が繕う前に滑り出た。巴は幽かに目を見開いて、それから微笑った。艶冶えんやな貌だった。
「慣れれば、この上なく愛おしい」
 冴々さえざえとある青暗がりを、照らす行燈とは別にゆらと立ち上る灯があった。巴があっとはしゃいだ声を上げる。「見ろ、行路。蛍だ」
「こんなに寒いのに」呆然と行路が言うのを、巴がいつになく笑わずに見つめた。「そんなにそこは寒いのか」
 尋ねられた一瞬、行路の中で熱が抜けた。咄嗟にわからなくなる。寒い、寒かったのだろうか。何が、何処が、何時が。今、ここは寒いのか、暑いのか、冬なのか、夏なのか、そもそもここは何処なのか。水の中か、雪の中か。指がわなないた。「寒い」
 捕らえられたのは手で、頭で、寄せられたのは胸だった。小さな頬が額に触れて掌が腕を撫でた。思わず縋りついたのは行路の中にある何かで、捕まってから戸惑ってしまった。爪先までとめどなく熱が染みわたる。撥と吸い込む息が絡んだ。衝動はあったが、それを表す術がわからなかった。出来るものならば、慟哭したかった。寒かった。確かなもののない寄る辺ないことがたまらないのだ。「――寒い」
 行路、行路と幾度も名を呼ぶ。辿る肌に翠の螺旋。張りのある堅い肌は殻のようにも思えた。種を抱く殻、あるいは蛹。強く押せば何かが溢れ出しそうで、触れると粟立つ肌に、凍えているのかと問えば否と言う。違う、ほら、温かいだろう。わからないか。
 これが温かいのか。なぜわからないのだろうと行路は目を堅く瞑った。分厚い殻を纏っているのは、巴ではなく自分自身なのか。その瞼を緑の指先が辿り「泣きたいのか」と問うた。わからない。そういった熱を伴う衝動は行路の中になかった。縋りつく頭を抱いて、巴は仰け反った。「泣いてしまえばいい」切れ切れに囁く巴の方が、泣いている。「泣けばきっと溶ける」
 どう泣けばいい。どうしようもない問いと答えが繰り返されて撥と息だけが上がっていく。行路、と声にならず呼ばれる響きが、恐ろしかった。何かが崩れて、溢れ出しそうだ。弾けて、飛んでいってしまいそうだ、枷も殻もなく。
 その瞬間、抱き留められた未だ堅い胸に、行路は溺れた。温かい。あたたかい――

 微睡みから覚めるその時に、水面から浮かび上がる心地がした。目覚めて始めに思ったのは寒い、ということで、肌を刺すような冷たさに布団の中に潜り込もうとした。そこに温かいものがあるはずだったので。傍らにあるその温もりを引き寄せようと手を伸ばして、行路は目を開いた。
「巴?」
 褥に白く横たわる巴は、堅かった。蝋のように堅く、その下に浮かぶ緑がこれ以上なく鮮やかに見えた。緑のない肌など、もうどこにもなかった。頬も、瞼も、額も、血管を辿るように緑が走っている。恐る恐る触れた指先に、どくと音がした。人の心拍ではなかった。抱き寄せ、胸に耳を当てて澄ますがその奇妙な音しかしない。巴の瞼は閉ざされたままで、口元に手をやってもそよとも感じない。「巴」もう一度呼んだ。二度、三度。返事はない。
 温かいのに。巴、と再び呼ぶと、腕の中でふっと重さがなくなった。
 それは羽化であり、孵化であり、あるいは芽吹きだった。巴の体から、光が染み出でるように。「巴!」何かが、抜けていく気配がする。何かもわからないまま手を伸ばした。行くなと叫んだ。藻掻くのは無力ではなく、何かを捉えようとして。その手に、綿毛のように触れる。掴んだ。腕の中に、巴がしんと沈み込んだ。巴の肌から緑が消えていく。けれど目を覚ます気配はない。
 うつせみ残して去りぬと、語った薬師がいた。抜け殻を残して世を去りぬと。
 捕まり、捕まえたというのに抜けていってしまった。
「行路?」
 ふいに、声がある。巴が目を開けている。にわかには信じられずに目を見開いたままの行路を、いつも通りの顔で巴が笑った。本当に、と囁いた声が掠れていて、巴の方が困った顔になった。
「どうした、何か怖い夢でも見たのか」起きあがろうとして、巴は自らの腕から緑が消えたことに気づいた。「……去ったのか」思わずといった調子で呟いて、巴が笑った。
「すごいな。生きている――行路のお陰だ」
「否、私は何も」していないのだという行路の頬を、巴が撫でた。柔らかい。
「行路が来たからだ」捨てられた命を行路が拾ったのだと、笑った。

 巴から空貴が去ってすぐに、庵は再び厳しい冬に閉ざされた。
 春が湧いていたからと、特に蓄えもしていなかった庵では三日と暮らせず、早々に行路は発つことを決めた。冬山にひとり置いていくわけにもいかず、巴も共にである。
「うつせみ残して去りぬ、か。そんな伝えがあったのだな」すっかり寒がりになってしまった巴は、鼻の頭を赤くしながら行路の後を文句も言わずに着いてくる。旅慣れぬ上、寄られて間もない巴に合わせて歩調を緩めながら、行路は雪を踏み固める。
「おそらく、現世の身には影を残さず去るという意味だったのでしょう」
「なら貴種は常世へ渡ったのか」否、ここにと行路が緑の種を出すのを、あまり興味なさそうに巴は眺めた。「常世は常に春だというな」息を白く吐きながら、行路の手を借りて新雪を飛び越えた。寒い、とすぐに口にする巴に、行路は思わず顔を緩ませる。「もうすぐ、真の春ですよ」
 未だうまく春を告げられず、不器用に鳴く声が渡る。
 繋いだ手は、温かだった。

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