B-11 青空の涙

 神殿に閉じ込めた小さな神様に、空を見せたいと神官は思った。
 空色のハンカチを神様に渡すと、神様はわずかに首を傾げる。やがて神官の意図を読み取ると、嬉しそうにほころんだ。


 車から降りると、空は高く真っ青に晴れていた。止め方のわからないエアコンのせいで、車の中は湿った冷気がこもってしまって透の感度を鈍らせていた。
 外に出た途端、アスファルトから照り返す太陽光に、透は急激に覚醒するような感覚を味わう。空気中の水蒸気をさらに蒸発させたかのような、カラッと乾いた空気だった。風もない駐車場で、透は大きく翻して白衣を羽織り、一足先に心身を仕事に切り替える。
 今日はいい日だ。透の研究にとって、これほど条件の良い日は少ない。感覚は冴え渡り、念動力は狙いよりもさらに遠くまで届いてしまう。
 鋭敏な感覚のアンテナを周囲に構築していくうちに、しかしそんな透の気持ちの昂ぶりが、不意に胸騒ぎに取って代わった。
 空が、おかしい。透とは比較にならない圧倒的な力が、澄み切った青い空を満たしている。彼女も、はるかも天邪鬼なのだ。醜いものには優しい気持ちになる一方、綺麗なものには残酷な衝動が顔を出す。
 青い空を見上げると、透は赤い色が見たくなった。同じ空を見上げれば、はるかは必ず、透と同じものを連想する。
 透は凄惨な想像を無理やり振り払った。はるかは、まるで巨大な音叉のように透の感情と共振する。透が青空を思うとする。空気に音も伝わぬような透の心の小さな振動を受け取って、はるかは地震を起こしてしまう。逆に闇夜のような雷雨を思えば、はるかは高く澄んだ音色をくれるだろう。
 天邪鬼はもともと透の性質で、その心の動きをわかっていても、それが他人の心となると、扱いはなんとも難しい。ましてやはるかは、透よりも知能が高い。
「我慢してくれよ……」
 独りごち、神殿のごとき巨大な白亜の研究所に、急ぎ足で透は向かった。


 透専用のIDチップの埋め込まれたセキュリティカードを機械に通すと、認証の高い音が鳴り、シャッター式の扉が上がる。外と所内の空間が繋がったその瞬間に、背中から突風が建物の中に流れ込んだ。透は膝をつき、反射的に吹き飛ばされないように身を硬くした。
 まるで掃除機の吸引口だ。この現象は、何が起こっているのだろう。透は必死に頭を巡らす。研究所は熱い外気をある程度腹を満たすまで吸い込んで、突風はやがてそよ風に変わった。
 気を取り直して所内に足を踏み入れて、透は徐々に事態を類推する。息が、若干苦しい。目が霞む。所内の気圧が、異常に低くなっているらしい。
 こんな不条理なことができるのは、はるかしかいない。
「ドクター……」
 静かな廊下から小さな声で呼ばれ、透はふらついた意識を慌てて戻した。殺風景な白い壁に背をもたせ、若い女性所員が倒れていた。
 先だって、所内で異常な気温上昇を記録したことがある。
 外部の気候には全く変化はなく、所内だけが摂氏百二十度を記録した。技術の粋を尽くしたセキュリティシステムが一斉に稼動しなくなり、研究所に閉じ込められる形になった所員が数名命を落とした。
 ウェーブがかったブロンドを無造作に纏め、化粧っけのない童顔にさらす新米女性所員――確か名前を、増渕エリス。白人の血が混じっているのは外見で知れるが、素性は聞いていない――、彼女はその際の欠員補充でこの研究所に配属された。
 透に対して無邪気な好意を示してくるエリスに、所内に子供が増えたようで、やや辟易していたものだった。それが今、エリスはもともと白い顔をさらに蝋人形のように蒼白にしている。青みがかった灰色の瞳を虚ろに泳がせ、口を大きく開けて、苦しそうに胸を上下させて喘いでいる。
「何があった?」
「急に、眩暈がして、息苦しくて。ロックも開かなくて」
 透は壁に寄り掛かって倒れているエリスの肩を支えてやって、蚊の鳴くようなか細い声を、注意深く拾っていく。まるで同じような良く似た言葉を、先だっても聞いたことを思い出す。
 その時は、男の声だった。透と同期で組織の研究に携わった、当時はかけがえのない存在だった。いなくなってしまうと、日々、その存在が薄れていく。相棒を失い、そうせざるを得ない状況に陥れば、透一人でもこれまでなんとかはるかの相手ができてきた。
 そういえばあの時も、外は見上げれば真っ青で、残酷なものを想起させられる空だった。
 意識が混濁した様子のエリスを見下ろし、透は迷った。前回同様、今回も事件の跡形の残らぬよう、全て揉み消さなければならない。はるかを公にするわけにはいかないのだ。はるかのためではない。世界のために、はるかに不用意な刺激を与えてはならない。大げさではなく、はるかはそれだけの力を持っている。
 エリスの白い喉に目がいってしまうのは、透のそういった計算づくの判断なのか、それともただの衝動だろうか。危ない、青空に機嫌を損ねたはるかに、どうやら透も引きずられているらしい。
 エリスの細い首もとに、透は力を込めずに手を当てた。力を込めれば、折ることさえもできそうだ。大丈夫だ、もう衝動に流されたりなどしない。
 気絶したエリスをそっと寝かせて立ち上がり、透は奥の隔壁に向かった。
 強烈な爆発音が上階から響き、研究所が悲鳴を上げるように戦慄いた。
 振動は、尋常ではなかった。透の動揺に感応してしまったのだろうか。はるかを宥めなければならない。透自身、安定した精神状態ではないというのに、難作業だと思った。

 研究員の権限ごとに、立ち入れる場所には制限がある。研究所の中心にはるかがいて、研究に携わる度合いによって、所員ははるかに近づく距離を決められる。はるかに接触できる権限を持つのは、今は透一人だった。科学技術庁の長官さえ、はるかを直に目にする権利は与えられていない。
 故にエリスのようなまだ何の役目もない新人にとって、研究所というのは酷く狭い造りになっている。一階の、それも外周部分しか立ち入れない。エリスはこの施設の本質も教えられてはいないのだし、はるかの存在さえも知らないのだ。
 上階部へ続くエレベーターのあるフロアを隔てる隔壁の、開閉システムにカードを通す。無機質な高い認証音が鳴って、隔壁は開いた。研究所の入り口と同じように、背中から突風に襲われた。
 ここも、気圧が下がっている。しかも入り口から離れている分、流れてくる風は弱く、気圧の中和が遅れてしまう。この奥に人がいたら、エリスのようには助からないかもしれない。
 エレベーターを下ろし、認証機械にカードを通すと扉が開いた。
 ここからが難関だ。エレベーターで一階と上階が断絶されている。このままでは、上階に空気が行かない。
 透は、感覚を研ぎ澄ませる類の力の使い方のほうが得手だった。念動力は、あまり力が入らない。その上この場にしても空気が薄く、意識の集中は困難だ。
 しかしやるしかないだろう。時間が経てば経つほど事態は悪化するだろうし、はるかも機嫌を損ねるだろうことを思い、透は目を薄め、精神を統一した。
 意識を縒り合わせて鋭いピアノ線のように変えて、エレベーターの継ぎ目に滑り込ませる。そのピアノ線を、エレベーターの吊りロープに巻きつけ、切断した。既に降りていたかご室がさらに落ち、軋みをあげる。底部のスプリングに支えられ、予想したほどの衝撃はない。つり合いの錘が上階から落下し、一息置いてこちらは盛大な音を立ててかご室の屋根にぶつかった。
 ロープを外し動くことができなくなったエレベーターの、ねじを回し、ボルトを外し、継ぎ目を切断し、何本もの自分の精神を縒り合わせたピアノ線を同時に操り、透は解体を試みる。透が作業を進める端から、緩めたねじは硬く締めなおされ、外したボルトはいつの間にか回帰して、切断した継ぎ目は切れ目も綺麗に消されて接着される。
 はるかだ。邪魔されるたび、くすくすと妖精のような笑い声が頭の中で共鳴した。
 壊すより多く、修復されていく。割の合わない妨害に合おうとも、透は無心に作業を続けた。足掻く姿を哀れに思って、はるかは慈悲をくれるかもしれない。
――いや、はるかに限ってそれはないだろう。
 苦しんでいる者には追い討ちを掛けたくなる、それは透自身の性だった。同じ遺伝子を持つ、透の妹ともいうべきはるかが、同じ感情を抱かぬはずがない。しかも透が理性と常識で鎧うような感情を、はるかはリミッターなく発露させてしまうのだ。
 はるかを刺激しないよう、対策を考えなければならない。時間を稼ごうと、無駄とわかっても作業を続けた。
 壊そうとすればするほどに、エレベーターは修復されていく。薄い空気の中、いよいよ息が荒くなる。縒り合わせた意識に合わせ、糸のように細めた視界がぶれてきた。思考に回すエネルギーなど、まるでない。
 頭の中が一瞬、空白に支配されたようにショートして、解体作業に当たらせていたピアノ線が一斉に解けた。酸素をいっぱい深呼吸する。
「はるか……」
 心の白旗をはためかせ、透は上階に呼びかけた。
 次の瞬間、エレベーターがみしりと鳴った。すぐに耳の痛くなるような、鉄板の箱が折り壊される断末魔の軋みに変わり、やがてぐしゃりと潰れるようにエレベーターが崩れた。
 透が丹念に丹念に解体を試み、ついに壊すことができなかったエレベーター。はるかの力を持ってすれば、まるでマッチ箱でも踏みつけるかのように潰してしまう。そしてこの行為に対して、声がなにも聞こえないところから想像するに、はるかの機嫌はかなり悪いらしい。
 上階まで続く空間から、風が吹き込んでくる。止まる様子もない、大風だ。地下鉄駅から吹き出す風を思い出す、あの何倍もの暴風だ。
 なぜだろう。上階も真空に近い状態なら、エレベーターという栓が取り除かれて通り道のできた今、風は少しでも空気のある下階から上へと吹き上がるはずだ。
 一度崩れたエレベーターの瓦礫が、がたがた揺れて、再び形を成そうと重なり始めた。構造を覚えていないのか、はるかは手間取っているらしい。脈絡なく、瓦礫は立ったりくっついたりを繰り返す。
 思考を中断し、透は風の吹き抜けるトンネルに慌てて飛び込む。徐々に復元を始めるエレベーター室の瓦礫を踏みつけ、上を見上げた。
 暗闇のはるか先に、青い小さな正方形の空が見えた。


 この研究所に、屋上はなかったはずだ。
 前後左右一面の、抜けるように青い空。エレベーターのトンネルは、四角い古井戸のようだった。千切りとられたような入り口を、無粋に青空にさらしている。
 吹き降ろす逆風に、苦心してバランスを取りながらエレベーターのトンネルを浮遊してきた透が辿り着いたのは、この空に囲まれた屋上だった。はるかを閉じ込めた最上階部ワンフロアが、空に舐め取られでもしたかのように、綺麗さっぱり消えていた。
 空の青さを反射して、白い床が眩く輝いている。はるかの居室があった場所の入り口に、扉だけが残されていた。真っ青な空を背景に、重い鉄の扉が、カードを差し込む認証システムの機械だけを脇に従え、何もない宙に背筋を伸ばして佇んでいた。
 透は、人間という種の中の突然変異だった。不思議な力――超能力をはっきりと自覚したのは、成人してからだった。稀に生まれる突然変異の中でも、透は一際潜在的な才能を持っていたが、訓練を始めるのが遅すぎた。社会生活は、意識に幾重もの枷を課す。無意識の戒めを破るのに、またぞろ余計な力が必要になる。今更どれだけ矯正を加えても、結局透には不安定で制限された能力しか発揮することができなかった。自らが事象であることを諦めて、透は観察者に成り下がった。
 透のクローンであるはるかは、能力者として純粋培養された存在だ。透の遺伝子に、より改良を加えた、いわば人工的な人間という種の進化体。透の失敗を教訓に、社会性を教えることも教養を与えることもなく、実験室に閉じ込めて、ただ国家予算を使っての能力の開発のみを行った。
 研究者としての透の立場から言わせてもらうと、はるかは望んだとおりの、むしろはるかに凌駕する結果を出した。人間よりも上位の存在になったはるかを、透も含め、もはや誰も計測できない。
 誰も手をつけられない、はるかはこの研究所の気まぐれな支配者――神様だった。

 鉄扉の脇の認証システムにカードを通すと、耳障りに濁るエラー音が鳴った。もう一度試す。機械の反応は同様だった。
 透のカードは、研究所で唯一オールフリーになっている。侵入制限があるはずはない。
 しかしそもそも、配線が引きちぎられても稼動しているシステム自体がどうかしている。頭を巡らせても、仕方がない。
「はるか、開けてくれないか?」
 鉄扉の向こうに呼びかけた。くすくすと幼い笑い声が聞こえた。
 青空の屋上にあるのはこの大きな鉄の扉だけで、壁があるわけではない。横をすり抜けて行くのは可能だが、実行すれば透は殺されるだろう。それははるかの用意した舞台を無視することになる。無視をされたら、無垢な子供は機嫌を損ねる。
 透は扉を背に、座り込んだ。前を見据えても空だったから、どうせならばと上を見上げる。雲一つむら一つない、作り物のようなまっさらな青空。
「はるか、なんでこんなことをしたんだ。これじゃあ直すのも、揉み消すのも大変だよ。いたずらするにしても、はるかならもっと賢く出来ただろう」
「空を見なくちゃ実験の検証が出来ないから。それにそんなくだらないことを考えるのは、透の仕事よ」
 扉の向こうから、高い声が返ってきた。
 幼い声音が紡ぐのは、利発で理知的な返答だ。その主体の気性が、気まぐれで享楽的ときている。なによりも手に負えない、凶悪な組み合わせである。
「新しい能力ができたのか」
「うん、透にもらったハンカチを見ていたらね、閃くものがあって。試してみることにしたの」
 だから研究所の空気を抜いてみたの。あたしの実験、誰にも見せたくなかったから。
 透ははるかの口にしなかった言葉を頭の中で補足した。はるかは透と同じで、天邪鬼なのだ。成果が大きければ大きいほど、無力な研究者たちに、ひけらかす気が失せてしまう。
 しかし同じ動機を原理に行動しても、透とはるかでは結果を異とする。
 透ならば自分がどこかに隠れて、こっそり能力を試してみる。はるかは研究所を皆殺しにして、屋根と壁を吹き飛ばして試してみる。
「ひどいわ、あたしは実験室に閉じ込められているから、隠れる場所なんてないんだから。それに誰にも見せたくないというのも、少し違う。あたしはね、透だけに見せたかったから、研究所を、皆を殺したの」
 鉄扉の向こうから、はるかは透の思考に反論した。神様は全知全能で、人の考えることなど容易く見通す。
 なら私に、新しい力を見せておくれ。
「いいわよ。例えばこの青いハンカチを、強く指でなぞるとする」
 思考の中ではるかに願うと、鉄扉の向こうから応えが返り、青空には白い筋状の雲がたなびいた。
 はるかは、天空を操っている。感嘆と困惑を覚えて、透の意識は青い空に吸い込まれる。まさに、神の領域だ。
 どうしてはるかは、ずっとここにいてくれるのだろう。自由になることなど、いまや簡単にできるのに。はるかはずっと、実験室から出ようとはしなかった。今日の今日まで、ただの一度も空を見ず、また見ようともしなかった。
「例えば青いハンカチに、あたしの赤い血を一滴、落とすとする」
 心の中で呟いた透の疑問を、はるかは無視した。青空には、鮮やかな真っ赤な月が浮かび上がった。
「あたしも透に聞きたいわ。エリスを殺さなかったのはなぜ? エリスは鈍いけれど愚かじゃないわ。生き残れば、必ずこの事態を異常に思う」
「私の判断は、間違っていたかな」
 感情をよぎったエリスへの殺意は、青空を見たただの衝動だと思い、透は行為を思いとどまった。しかし、それが研究を阻害する因子になりうるならば、透にはそれを排除する義務がある。
「自分にまで、言い訳するのね。例えばあそこに倒れていたのが、他の誰かか、それともあたしだったとして、透はエリスの時みたいに思いとどまることができたかしら」
 言葉もなく、透は黙った。神様といえども、嫉妬なんてするのだろうか。
「透は絶対あたしを殺すよ。空が青いっていうだけで、親友だって殺したもんね。そのためにあたしが、研究所を炎熱の棺桶にしてあげたのよね」

――そういえば、はるかの実験室の吹き飛ぶ爆発音が聞こえたのは、私がエリスを殺さなかった直後だったね。

 あの時エリスを殺しておけば、はるかは機嫌を損ねることもなく、こんな事態にはならなかったのかもしれない。
 透は空を見上げていた。不意に空から冷たいものが落ちてきて、透の頬を伝った。
「へえ」透は思わず、声を漏らした。
 鉄扉の向こうではるかは、少し泣いてしまったのかもしれない。青いハンカチで、拭いたのだろうか。
 指でなぞった一条の雲と、血を滴らせた赤い月。青い空が青いまま、まばらな涙をこぼしてみせた。

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