C-06 ボクらの、冒険前夜。

 母さんは僕たちを産んで死んだ。
 死んだ、と聞いている。

 見上げた空は、綿毛のような雲の白さを際立たせる色だった。雲はすべるように、つぎつぎに現れては流れていく。
 村に吹く風の中でも、森の上を通ってきた風は特にいい匂いがして、ひやりと冷たかった。ほてった体にはたまらなく心地よかったのに、その風が午後から急に生ぬるいものに変わってしまった。
 この風がやがて嵐を運んでくるのだと、今朝たまごを貰いに行ったときにバートじいさんが教えてくれた。当たると評判のじいさんの天気予報だから、きっと今夜には嵐がやってくるのだろう。
 僕と双子の兄のサイは、昼食をとってから、嵐に備えるために外に飛び出した。
 外に放りっぱなしだった農具をかきあつめて納屋に放り込み、羊とヤギの餌入れに干した草をたっぷりと補給してから、入り口の扉に横板を打ち付けて補強した。羊の囲いも同じように補強し、畑のわきの水没しやすい場所に土嚢を積み上げた。
 ここまで終え一息つくと、あんなに真っ白だった雲が鈍色に変わっているのに気づき、驚いた。日没も近いのだろう、あたりは秒刻みで暗くなっていくようだった。
 こうしている間にも、みるみる空色があやしくなっていく。嵐は、すぐそこまで来ているらしい。そろそろ切り上げて戻らないと、雨に降られてしまう。
 ロンドウおばさんに言いつけられていたことは、おおかた片付けたことだし、もうこれでいいだろう。
 帰ろうとサイに声をかけようとして、初めてサイの姿が近くにないことに気づいた僕は、辺りをぐるりと見わたした。
 居た。
 サイは小高くもりあがった丘の上でしゃがみこみ、嵐の前の空を見上げていた。まただ。あいつ、また、空を見てる。

 サイは最近、頻繁に空を見上げるようになった。
 サイがそうなったのは、いつからだったろうか。最初は気にならない程度だったが、日をおうごとに空を見る回数は増え、時間も延び、最近では、何か、ちょっと、おかしいのではないか……、と思うほどになっていた。サイの異変に気づいている人は、今はまだ僕だけのようだが。
 このままサイが空を見続けていたら、異変はいずれ誰の目にも明らかになってしまうことだろう。
 そうなったら、サイのみならず、僕やロンドウおばさんまでもが、村中から変な目で見られることになる。ただでさえ親無しの双子なんて、噂話のかっこうの餌食だというのに。
 僕は丘の上のサイに駆け寄ると、頭をこづいた。
「空ばっか見てんじゃねえ、アホ!」
 振りかえったサイの驚いたような顔を見て、苛立ちがこみ上げてきた。サイは小さくごめんと謝ってきたが、そんなサイの態度が心に小さなシミをつけてくる。こびりついたシミは日に日に蓄積されて、夕暮れどきや、夜なかなか寝付けないときなどに、存在をあらわし、僕をたまらなく不安にさせるのだ。
 ひどく心細く、まぎらわしようもなく、胸が締め付けられるようなその感じが嫌で、だから余計に空を見上げるサイに対して苛々としてしまう。
「仕事、僕は全部終わったぞ。おまえもさっさと終わらせろよな」
 サイからの返答はなかった。サイはのそのそと立ち上がり、傍らに置いてあったスコップを拾いあげた。動作の一つ一つが、寝起きのようにのろい。尻を蹴飛ばしたい衝動にかられたが、僕はサイに背を向け、大股で丘をくだった。そのまま家に直行するつもりだったが、くだりきったところで思い直し、僕はサイを振り返った。
「ぼやぼやしてると嵐が来ちまうぞ!」
 大声で念を押した。

 誰もいない家の中は、いつも以上に暗く冷たく感じた。
 僕たち兄弟には、互いのほかに血の繋がった家族はなく、僕たちを引き取ってくれたロンドウおばさんの元で、五歳のときからずうっと暮らしている。
 暖炉に火を入れようとして灰をかき混ぜると、小さな熾が残っていた。それを火種に火をおこしていると、ロンドウおばさんが馬に乗って帰ってきた。遠くの農場に行っていたらしい。おばさんは馬を馬屋に入れ、家の裏手から居間に入ってきた。
「だいぶ風が強くなってきたよ。おや、火を入れておいてくれたのかい?」
 手をさすりながら炉辺に近寄ったおばさんは、頭に被ったショールを脱いだ。僕はおばさんからカゴを受け取った。中を覗き込むと、パセリとチーズが入っていた。
「もらったの?」
「帰り際、キャリーにばったり遇ってね。今夜はシチューにチーズを入れてあげるよ」
 それは僕の大好物だった。シチューの中でとろりととろけたチーズの塊を、口の中に放り込むところを想像して、僕の顔はゆるんだ。
「そういえば、サイの姿が見えないようだけど、どうかしたのかい?」
 おばさんがそう訊くのは当然のことだった。僕も覚悟はしていたのに、チーズで油断してしまい、不意打ちをくらってしまった。
「あいつ、最近、サボってばっかなんだ。ぜんぜん自分の仕事を終わらせてなかったから、おいて帰ってきた」
 そっけない僕の言いように、ロンドウおばさんは振り返り、不思議そうに眉をあげた。
「おやおや、以前はサイのほうがよく働く子だったんだけどね」
「僕だって、ちゃんと働いていただろう。決められた仕事を怠けた覚えはないよ」
「そうだね、テドは決められた仕事はきちんとする子だ」
 ロンドウおばさんの言葉には、小さな棘があった。
「じゅうぶんだろ、それで」
 いささかむっとして、僕は言い返した。
「ああ、もちろん、それでじゅうぶんだよ」
 口ではそう言いながら、ロンドウおばさんは目の奥で僕を責めていた。
 サイは自分の仕事が済んでも、他にやることがないか自主的に探してくるようなやつだった。人の分の仕事も、嫌な顔一つせずに、すすんで手伝っていた。それは僕も知っている。
 普段ならまだしも、嵐が近づいている今日は、サイの仕事を手伝ってあげるべきだったのだろう。けれども、僕にだって言い分はある。
 おばさんが少しでも僕をいさめる様なことを言い出したら、断固として言い返そうと僕は心に決めていた。が、おばさんは何も言わず、あかあかと燃え出した暖炉の火を、食い入るように見つめるだけだった。
「それで、いつごろからなんだい?」
 唐突に質問が変わり、僕は、え? と聞き返した。
「サイがそんな風に――怠け者になったのは? いつごろかわかるかい?」
 ロンドウおばさんは、なぜか言葉を選んでいるようだった。そんなおばさんにどことなく違和感を抱いたが、それほど気にすることもなく、僕は覚えてないと答えた。
「ほかにサイに変わったところはないかい? もし気になるようなことがあったら、些細なことでもあたしに報告するんだよ」
 サイが空ばかりを見るようになったことを、僕は言い出せなかった。ロンドウおばさんが気にかけているのは正にそのことで、もしそれを報告してしまったら何かが変わってしまうと思い、怖かったのだ。
 風が煙突の中に吹き込んでうなりをあげ始めたころ、ようやくサイが戻ってきた。ついに雨が降り出してきたのだろう、サイの肩がかなり濡れていたが、僕は見て見ぬふりをした。代わりにロンドウおばさんがぶっきらぼうだがやさしい言葉をかけて、暖炉のそばで体を温めるようにサイを促していた。 

 その夜は早めに寝ることにした。
 ベッドに入ると、昼間の疲れもあって僕は割りと直ぐに眠りに落ちたのだが、それまでの刹那に、僕は昔のことを思い返していた。僕たちが生まれたと同時に死んでしまった母さんを覚えていないのは仕方のないこと。でも、父さんの記憶はぼんやりとだが、あった。
 幼い僕たちの面倒を見てくれていたのは、アシ姉さんだ。その姉さんもいなくなり、僕たちはロンドウおばさんに預けられた。当時僕たちはまだ五歳で、自分たちの身に何が起きたかなど、理解できるはずも無かった。
 ただただ、とてつもなく悲しかったことを覚えている。僕たちにとってアシ姉さんは、母親そのものだったから。僕とサイが何日も泣き止まず、あの時は気が狂いそうだったと、今では冗談交じりでロンドウおばさんが話してくれる。
 今になって思うと、僕らを預かってくれたのがなぜロンドウおばさんだったのか、疑問に思わないと言えば嘘になる。僕たちとロンドウおばさんの間には、血のつながりなど無いというのに。
「おまえらの家族は、空にとられちまったんだよ」
 いつだったか、めずらしくお酒を飲んで酔ったおばさんが口走った言葉が、急に僕の中で息を吹き返し始めた。
「母親も、父親も、アシも、みぃんな空にとられちまったんだよ」
 あれは、どういう意味で言ったことだったのか。
 誰かが死ぬことを「空にとられた」と表現するのは、よくあることだ。けれども、ロンドウおばさんは、言葉どおりの意味でそれを言ったのだとしたら……?
 もしかして空は、今度はサイを奪うつもりなのではないだろうか。母さんや父さんやアシ姉さんは、どこかで――。
 空で生きていたりするのか? 

 嵐が来たのは、真夜中過ぎだったようだ。
 鎧戸を激しく叩きつける雨音や隙間風のピューーーという音は、時折夢の中にまで侵入してきていた。夢とうつつがまざりあう中に僕は長い間身をおいていたが、ふいに意識がうつつに傾き、僕は目を覚ました。部屋は真っ暗で、目を開けても何も見えなかった。再び眠ろうにも目が冴えてしまい、僕は仕方なく嵐の音に耳をかたむけた。
 風が体当たりしてくるたびに、家がゆれていた。裏のモミの木の枝が激しくしなる様が目に浮かぶ。ごうごう、ごうごうと、嵐は暴れ続けた。
 いつのまにか寝入ってしまっていたことを、再び目覚めたときに知った。あれから、それなりの時間が流れたらしい。嵐に変化があった。風はあいかわらず吹いていたが、雨音がぴたりと聞こえなくなっていたのだ。
 ベッドの下段で寝ているサイが寝返りを打つ気配がした。サイはしばらくもぞもぞとやっていたが、そのうちむっくりと起きだし、部屋を出て行ってしまった。ただ用を足しに行っただけだろう。いつもの僕ならそうしか思わなかったはずだ。だが、そのときは妙な胸騒ぎを覚え、僕はベッドを這い出し、サイの後をおった。
 果たして僕の勘は的中した。家の外に出たサイの姿が、すでに丘の中腹あたりにあったのだ。
 空は低く、鈍色の流れ雲に覆われていたが、それでも東のほうがうっすらと明るくなっていた。嵐の名残の風だけが吹きあれる夜明けとなりそうだった。
 僕はサイを追いかけた。どこまでいっても歩く速度をゆるめないサイの様子に焦りを覚え、僕はサイの名を呼んだ。一度、二度、三度。ダメだ、振り向かない。風が声を吹き飛ばしてしまうのだろうか。
 僕は全速力で丘をかけあがった。追いつくなり、サイの肩を後ろからつかまえた。
「サイ! 一体どうしたってんだよ!」
 サイはうつろな目で、はるか遠くを見つめ、僕を見ようとしなかった。
「僕、行かないと」
「行くってどこへ?」
 力ずくで僕はサイを振り返らせたが、サイの目の焦点がまるで合っていなかった。僕はゾッとしながら、サイの頬を打った。とっさのことで加減なんかできず、派手な音が鳴った。
 サイがはっとして今度こそ僕を見返し、よろけるように一歩後ずさった。 
「テド……」
「どこへ行くつもりだったんだよ」
「どこって、ソ――」
 サイは言いかけて口をつぐんだ。空へ。そう言いたかったんだろう。僕は悔しくて唇をかみ締めた。
「おまえ、いい加減にしろよな。空に行くって、なんだよ。本気でそんなこと思ってんのか? そもそも、おまえが行かなきゃならない理由はなんだ?」
 出来るだけ普通の声で話そうとしたが、無駄だった。これまでの苛立ちや怒りが、どうしてもにじみ出てしまった。
「空が僕を呼んでるんだ」
 けれどもサイは間髪いれずにそう答えた。僕の心には絶望感が広がった。きっぱりと言いやがって、……決定的じゃないか。
 複雑な思いで僕はサイを見返した。その中で、突如サイが僕の手を握りしめてきた。
「そうだ、テドも一緒に行かないか?」
 まるで名案とでも言うように、サイは目をきらきらさせた。
「テドがいた方のが僕も心強いし、この先何があるかわからないだろう? 正直、不安でもあったんだ」
「だったら行かなければいいだろう」
 僕は言い捨てた。
「行く理由も、目的も、僕にはさっぱりわからないもの」
「それは行ってからわかるものだと思うんだ」
 僕はサイの手を振り払った。
「バッカじゃねえの!」
 なんなのだろう、この空しさは。まるで別の次元で会話しているような気分だった。あきらかにサイの言動は普通じゃないというのに、それを悟らせる言葉がとっさに出てこない。もどかしかった。
「そんなに行きたければ、一人で行けばいいじゃないか。僕は行かないぞ。もしおまえの言うとおりだったとしても、空に呼ばれているのはおまえだけだってことだろ」
 そう言って僕が突き放すと、はじめてサイの顔に不安げな色が浮かんだ。
「行かないのか?」
「行かないよ。呼ばれてないもの」
「……一緒に行こうよ」
「いやだ。一人で行け」 
「テドも頑張れば聞こえるよ。耳をすまして聞いてみて。聞こえるだろ? 今も呼んでる、ほら、こんなにもはっきりと僕を呼んでる」
 サイは両手を広げて空を振り仰いだ。
 目をとじて耳を澄ますサイの周りを風がうずまいた。髪がなびき、服がばたばたとはためくその様子は、何か神がかったようにも見え、とたんにサイの存在が遠くなった。
 サイが嘘を言っているようには到底思えなかった。だからこそ、僕には聞こえない何かをサイは聞いているんだと思うと、怖くて仕方がなかった。
 ちょっと前までのサイは、とにかく明るいやつだった。一日中走り回っても疲れ知らずで、くだらないものを見つけては馬鹿みたいに笑って、ささいなことで僕につっかかってきたりもして、僕にとっては一番身近な存在だった。なのに今はどうだろう。まるで別人じゃないか。
 母さん、父さん、アシ姉さん、サイ……、なぜみんな、僕から離れていってしまうんだ?
 僕は一つため息をつき、サイの言うとおりにしてやった。けれども、聞こえるのはあいかわらず風の音だけだった。僕はサイに思い知らせるために、はっきりと首を横に振った。
「何も聞こえないよ」
 サイの顔が一瞬固まり、みるみる残念そうに翳っていくのを見て、僕はなんともいえない気持ちになった。と同時に、なぜ自分がこんな惨めな思いをしなくてはならないのか、理不尽さを感じ、無性に腹が立った。沈黙が流れ、僕とサイの間を吹きぬけていく風が、二人の間の見えない溝を深めていくようだった。その中で、サイが遠慮がちに口を開いた。
「あのさ、テド、それならさ――、僕たち双子だろ?」 
「……ああ」
「双子なら、僕の言うこと、信じることできるよな? こんなこと、おまえ以外の誰にも言えない」
「なんだよ」
「ここ最近、おまえが僕のこと変な目で見ていたことは知ってる。未だに気がふれてると思っているんだろうが、空が僕のことを呼んでいるのはたしかなんだ。僕はその声をたよりに行こうと思う。行ってみたいんだ」
 だから信じてついてきてほしいとサイは言う。
「いつだったか、酔っておばさんが言ってたことあったろ。僕たちの両親と姉さんは空にとられたって。あの時は、ただ単に、小さかった僕たちに合わせて言っただけのことだと思ってた。でも、違ったんだよ。きっとロンドウおばさんは、何かを知っているんだと思う。知っていて、僕たちに隠していたんだ」
 ロンドウおばさんの名前を出されて、僕は少なからず動揺した。おばさんについては、僕も不審に思っていたところがあったから。
「――空が、僕たちの家族を連れ去ったなんて、おまえ、本気で考えてるのか?」
 サイは力強くうなずいた。

 差し出されたサイの手は、まるで僕の心をためすかのようのびていた。僕のノドがごくりと鳴った。
 正直、気乗りはしなかった。ただ、このままサイの手を拒んでしまったら、あいつが本当の意味でどこか遠くに行ってしまうのではないかと、それが怖かった。
 きっと――。
 何も起こりはしないだろう。でも、それならそれでいいじゃないかと吹っ切れた。むしろ何も起こらないほうのが好都合なのだ。空から呼ばれているという、どうしようもない妄想からサイが目醒めても、それでも僕がサイを信じたという事実は消えない。
 サイはどこまでもまっすぐな心で僕のことを求めてきたというのに、僕はそうやってずるいことを考えているんだ。
 サイに後ろめたさを感じながらも、僕は、僕にとって唯一の血縁との絆を守るために、答えた。
「わかった、行こう」
 と。
 半信半疑でサイの手をとった僕だったが、次の瞬間、僕の平凡な日常は過去のものとなり、予想もしなかった冒険が――――はじまったのだ。

inserted by FC2 system