C-01 毒

 しくじった、と思ったときにはもう遅かった。
 火のはぜるような軽い破裂音がした。貼ったばかりのビラが裂けて壁の破片が散り、一瞬遅れて激痛が二の腕に走る。
「逃すな、捕らえろ! 回り込め! 追い詰めろ!」
 保安隊の声に追われて、ヒオドは曲がりくねった路地裏を走った。保安隊に捕らわれた反政府活動家の末路は悲惨だ。すでに仲間が何人も犠牲になっている。
 呼子の笛が闇を裂く。
 夜間外出禁止令のために、古い街は息を潜めている。
 ヒオドは狭い路地裏に入り込んで足を止めると、出血している二の腕を布で縛った。痛みと疲労のために呼吸が乱れていた。
(じいさま、これは本当に意味のあることなんですか)
 首にかけた細い鎖を無意識にたぐった。金属製の小さな楕円が付いている。古代寺院の護符だ。三ヶ月前までは、ある老人の物だった。
(皆が無関心なのに、俺たちだけ這い回って血を流している。俺はただ、じいさまの仇が取りたかっただけなのに)
 どこかから香の薫りが漂っていた。
 この街は古い。巡礼が盛んだったころの古代寺院も残っている。誰かが夜通し香を焚き、夜間外出禁止令に密かに抵抗しているのだろう。この護符の持ち主だった老人も、香を焚くために家を出て、路上で保安隊に撃たれて死んだのだった。
 ヒオドが再び走り出そうとしたとき、汚れた壁の一部が開いて、さっと黄色い光が漏れた。そこに扉があることにヒオドは気付いていなかった。とっさに光から顔をそむけて逃げようとした。
「待って」
 女の声だった。同時に腕が伸びてヒオドの上着をつかむ。
「大丈夫。こっちへ」
 振り払うべきかどうかヒオドは迷い、女に騒がれることを怖れて従った。上着を引かれるままに家の中に入る。代わりに女が蓋付きバケツを外へ置き、扉を閉めて素早く振り向いた。
 大きな藍色の目をした女だった。ヒオドよりも少し若い。黒髪をひとつに束ねて、シャツの袖を肘までまくっている。男と大差ない衣服を着ているのは、よく動く仕事をしているからだろう。胸から膝までを覆う青色のエプロンが目に付いた。
「床下の貯蔵室へ、早く」
 どうやらそこは調理場のようだった。女は、床の窪みに手を掛けて引き開けた。床下に空間があり、ハシゴで下りるようになっていた。
「待ってください、俺は」
「いいから黙って入って。でも、つまみ食いはしないで」
 どうやら匿ってくれるつもりらしいと、ヒオドは推測した。会話にならないまま貯蔵室へ飛び降りたが、頭上で蓋が閉じられるとひやりとした。罠だとしたら逃げられない。
 不安は間もなく確信に変わった。保安隊が扉を叩く音がして、女が扉を開く音がした。そして女がこう言うのが聞こえたのだ。
「どうしたの、兄さん。仕事中に店に寄るなんて珍しい」
 ヒオドは床下で耳に神経を集中させた。男の声が低く答えているが、はっきりとは聞こえない。ヒオドは手探りで武器になりそうなものを探し、低い天井に掛かっていた棍棒を手に取った。だが、女の声はさらに言った。
「まさか。誰もいないよ。お客さん以外の人を店に入れるわけがない……え? 血? それは鶏の血だよ。そのバケツを開けてみればいい──」
 うわっと声が上がった。
 女が笑った。ヒオドが困惑するほど明るい、澄んだ笑い声だった。
「ああもう、そんな勢いよく開けて、羽根だらけ! 可愛い妹を疑ったりするからだよ。……いいから、私が片付ける。そこどいて」
 棍棒を握る手のひらが、緊張と汗で滑った。切れ切れに聞こえる言葉から必死に状況を読みながら、ヒオドは上げ蓋を睨んで立ち続けた。頭上に足音が聞こえたときには、震える腕で棍棒を低く構えた。
 上げ蓋が開く。光が押し寄せる。
 目を凝らすと、見下ろしているのは女ひとりだった。奇妙な顔をしていた。もしかしたら笑いを堪えていたのかもしれない。
「だから、つまみ食いするなって言ったのに」
「……つまみ食い、って」
 ヒオドは女の視線を追って、自分が構えている棍棒を見た。
 豚の腿肉の燻製だった。


「そうだよ、兄さんは保安隊の隊員」
 女は調理場の扉を指さした。そこには黄ばんだ写真が貼ってあり、彼女に良く似た鋭い輪郭の男が不機嫌な表情で佇んでいた。写真を撮られたのも不本意なら、調理場の扉などに貼られているのも不本意だという顔だった。
 きっと生真面目で不器用な男だろうと、ヒオドは勝手に想像した。ついさっきまで自分を殺そうとしていた誰かのことをそんなふうに考えるのは、奇妙な気分だった。
「国とか政治とか、そういうことはよく解らない」
 女は、チタと名乗った。チタはヒオドの傷の手当てをし、当然のように食事を与えた。
「でも、あんたはお腹が空いて空いてどうしようもない、明日までもちそうにない、って顔をしてた。無視できるわけがないよ。ここは食堂なんだから」
「それは空腹のせいじゃなく、怪我のせいだったと思いますが」
「違うよ、お腹が空いてたんだ」
 きっぱり言い切られると、そうだったような気もしてくる。実際、目の前に置かれた料理の皿を見た途端、ヒオドは自分の空腹を自覚した。豆と鶏肉を香辛料のスープで煮込んだ一皿は、眩暈がするほど魅惑的だった。
 ヒオドを椅子に座らせて、チタも椅子をひとつ引き寄せた。ヒオドの横顔を眺める位置に腰を下ろし、食卓に片腕で頬杖をついた。
「何ですか?」
「好きなんだ」
 真顔で言ってから、チタはいたずらっぽく笑う。
「私の料理を食べている人を、見ているのが好きなんだ」
 自分が料理を作って誰かが食べる。昨日食べたものがその人の今日になる。今日食べたものがその人の明日になる。そう思うと嬉しいのだとチタは言った。
「その一皿は、あんたの明日の命になる」
 木匙で煮込みをゆるりと混ぜる。ほぐれた鶏肉と煮溶ける寸前の柔らかい豆が、弱く抵抗しながら匙にまとわりつく。ヒオドの胸の奥でも、ぐずりと何かが柔らかく崩れたような気がした。
「でも、食べるものだけでは、人は生きられません」
 言葉は勝手にヒオドの口を突いて出た。チタは眉根を寄せた。
「食べるものがあればいいんじゃないの?」
「あなたのお兄さんも、あなたの料理を食べている」
 チタが答えるのも待たずにヒオドは続けた。自分の言葉が自分で止められないようだった。
「俺も今ここでこの料理を食べる。今はそうして生き延びます。でもこの後、俺はあなたのお兄さんに見つかって殺されるかもしれない。逃げるために俺の方が彼を殺すかもしれない。あなたの料理が生かしたはずの人々が、互いに殺し合う」
「……」
「政治のことは解らないなんて言っている場合じゃないんです。この国は今、大変なことになっている。なのに、みんな目の前に一杯のスープがあれば満足してしまう。自分や、自分の親しい人が酷い目に遭うまで、見て見ぬ振りをし続ける。でも、酷い目に遭ってからでは遅いんです! 気付いたときにはもうスープなんか煮ていられない。正義も道義も失われた国で、自分だけが善く生きられるはずがないんだ!」
 言いながらヒオドは、首に掛けていた護符を握り締めていた。硬い金属の感触が手のひらに食い込んだ。深く呼吸して、ヒオドは目を閉じた。迸った言葉の激しさが、胸の内側でまだ渦巻いている。
「……すみません、こんなことを言うつもりじゃなかった」
「座って」
 ヒオドはいつの間にか自分が立ち上がっていたことに気付いた。
「食べて」
 言われるままに、黙ってヒオドは木匙を口に運んだ。豆と鶏肉の煮込み料理は、思ったよりも優しい味だった。食べ続けるうちに腹から全身が温まっていった。
 チタは食卓に頬杖を突いたままヒオドの横顔を眺めていた。怒っているのか呆れているのかは判らなかった。
 やがて皿が空になり、ヒオドが未練がましく木匙で縞模様を描きかけたとき、
「そこに持っているのは何?」
 襟元を指してチタが訊いた。
 ヒオドは首から鎖を外してチタの前に差し出す。
「古代寺院の護符です。知人の形見です」
「触ってもいい? ……これ、何も描いてないんだね」
「古代寺院の祭壇を見たことがありますか。あそこには何も置かれていないんです。人は、その空白に向かって祈る。だから護符にも何も描かれない」
 ずっと不思議だった。壁や天井は華やかなのに、一番重要な場所には何もない。老人に尋ねたときも、彼は笑うだけで答えなかった。
「それ、解るような気がするな」
 あっさりとチタがそう言ったので、ヒオドは思わず彼女を凝視した。少しばかり疑う視線だったかもしれない。だが、チタは深い色の瞳で小さく笑った。
「私は料理しか出来ないから料理のことでしか考えられないけど、それはつまり、皿なんじゃないかな。空の皿があって、空腹の人がいる。私はその空っぽのことを考える。私に何が出来るだろう、私は何がしたいんだろう、その空っぽは私にとって何なんだろうって」
 丁寧な手付きで、チタは護符をヒオドの前に置いた。
「あんたは、人の心の空っぽのことを考えているんだね」
 ヒオドは答えようとして、何を言うべきかわからずに沈黙した。護符を見つめ、さらにチタを見つめ、やがて俯いて手のひらで顔を覆った。
(ああ、そのとおりだ)
 さっき口を突いて出た言葉は、ヒオドの気付いていなかったヒオドの本心だった。
(意味があるか無いかは問題じゃない。……じいさま。俺はあなたが殺されたことと同じくらい、皆がそれに無関心な振りをするのが嫌だったんです。嫌で、腹が立って、とても怖かった。だから何かせずにはいられなかった)
 テーブルの上の皿が、チタの手で下げられる。
「鍋、温め直してくるよ。もう少し食べるだろう?」
 チタはヒオドを気遣って調理場へ去った。泣いていると思われたのかも知れない。だが、ヒオドが堪えていたのは嗚咽ではなかった。
 この国の夜は長く暗いだろう。非道が闊歩し、異議を唱えれば暴力で封じられる。人々は心を閉ざし目をそらす。そして、ヒオドは泥にまみれて這い回り、時に傷付いて血を流しながらこの道を進むのだ──これからも。
 チタは丁寧に料理を温め直している。穏やかな鍋の音と、ほのかに甘い豆の香り。どこか懐かしささえ感じるほど安らかな時間だった。そのまま、まどろんでしまいたくなるほどに。
 しかし、ヒオドは音を立てずに席を立った。
 調理場に向かって深く頭を下げると、扉を開けて夜の中へ走り出した。


 ヒオドが命の恩人と再会したのは、それから三年後のことだ。
 チタは少し痩せたようだった。だが、ヒオドのために扉を開けると、以前と変わらない口調で言った。
「痩せたね」
「俺もですか」
「うん。精悍に見える」
 見える、というところを強調されてヒオドは苦笑する。
 食堂は三年前に比べてだいぶ寂れていた。政情は安定してきたとはいえ、食堂で食事をしようとする人は少ないのだろう。
「座って待ってて。豆くらいしか出せないけど」
 調理場の扉には、まだチタの兄の写真が貼られていた。相変わらず不機嫌そうな表情だ。今となっては、写真を撮られたことより、調理場の扉に貼られたことより、それが遺影となってしまったことが彼には不本意だろう。
「要領の悪い人だったから」
 チタはただ、短くそう言った。
 煮込んだ豆は懐かしい味がした。薄い塩味だけなのに、食べる内に腹から全身が温まる。チタは、やはり隣の椅子に腰掛けてヒオドが食べ終わるまで眺めていた。まるで何もかもがあの日と同じようだったが、窓から見える空は晴れていた。
 明るく、高く、冬にしては珍しいほどの快晴だった。
「今日は大事な日なんじゃないの。こんな所にいていいの?」
「いいんです。俺は裏方ですから」
「英雄だと思ってたけど」
「……俺が?」
 思わずまじまじとチタを見つめると、彼女は真剣そのものの目をして頷いた。
「革命が成功したのはあんたのおかげだって。新首相をずっと前から影で支えていたって。放送局からラジオで呼びかけたのもあんたで、保安隊と衝突したときの指揮官もあんたで、国王陛下を助けて退位するように説得したのもあんたで、あちこちの国が革命に賛同してくれたのもあんたの働きかけのおかげで、軍を動かしたのも実はあんたの秘密工作だったって」
「何人分の俺の話ですか、それは」
 いつの間にそんな話になっていたのかと、ヒオドは弱り切って顔をしかめた。身に覚えのある事柄も無いわけではなかったが、事実と噂は程遠い。
 チタは澄んだ声で笑った。テーブルに片肘を置いてヒオドの横顔を覗き込む。
「英雄の命の恩人ってことになるのかな、私は。みんなが言ってるよ。あんたのおかげで平和になったって。これからは安心して暮らせる、自分が殺されたり、家族が殺されることを心配しなくてもいい、幸せになれる、って。だから──」
 ぽつりと、チタは呟いた。
「毒を入れた。あんたの食べたその豆料理に」
 ヒオドはチタと皿を交互に見た。皿はすっかり空だった。チタの瞳は、硬いガラス玉のように無表情にヒオドを見返していた。
 視線をそらさず、ヒオドはゆっくりと首を振った。
「あなたは、自分の料理が人を生かすのが嬉しいと言っていたはずです。だから料理を食べている人を見ているのが楽しいと。あなたには、料理に毒を入れるなんて出来るはずがない」
「よく覚えてるね」
 チタは泣き笑いのように顔を歪める。
「でも、入れたんだ。すぐには効かない毒を。人が生きるためには食べるものじゃない何かも必要だと、あんたは言った。そのために戦って、それを手に入れたんだろう? だったら、どうかそれを絶対に失くさないで。みんなが美味しいもののことだけ考えていてもいいように。私の料理を食べた人が、明日も明後日もずっと生きていられるように。そうしてくれなければ……あんたが食べた私の料理が毒になってあんたを殺す」
 窓辺から長く差し込む光が、チタの青いエプロンの裾に触れている。
 外からは子供達のはしゃぐ声が聞こえていた。足早に人々が通り過ぎていく。広場で行われる新首相の演説を聴きに行くらしい。熱心な話し声が遠くから風に乗ってくる。そして小鳥の声。大気は明るいざわめきに満ちていた。
 ヒオドは静かに答えた。
「本望です。そのときは、俺を殺してください」
 チタの瞳が揺れた。
「馬鹿、ただの冗談なのに……」
 崩れるように笑ったかと思うと、チタは背を丸めてエプロンに顔を伏せた。小さな子供のように両手を額に押し当てる。ヒオドは黙って手を伸ばして彼女の拳に重ねた。空白を握り締めて震える、痩せた拳に。

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