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A-02  星々の中夜

 昼間空を覆っていた雲は、夜までにかき消えた。


 日々続く残業。途方もない時間上司からねちねちと詰められ、精も根も尽き果てていつものガード下。ここをくぐり終わって一服するのが、ここ最近の俺の習慣だ。そしてそれは決まって午前零時十一分だった。
 もともと時間に小うるさい性質じゃないうえ三日坊主のきらいもある俺が、よくここまで習慣づくようになったもんだと思う。夜寝る時間や朝起きる時間さえまちまちだというのに。きっと体内時計は、生まれたときから狂ってるんだ。間違いない。
 そんな俺。ここで決まったように一服するのには、当然、理由があった。

 女に会うためだ。

 恋人とかそんなときめく相手じゃない。俺自身もなんでコイツに会うためにここで一服するのか、未だによくわからない。
 しかも相手が美人かどうかすらわからないんだ。十人並みなのか、性格はどうなのか、年齢はいくつなのか、結婚はしてるのか。……いや、好きでもない相手のプライバシーを探るつもりは毛頭ないけどな。
 一本目を吸い終わって、二本目を口にくわえたとき、いつも、その女は俺の真横で口を開く。
「おまいさん、占いは好きかネ」
 頭のテッペンからつま先までをすっぽりと黒のベールで覆い隠して、くぐもった声。これだよ。このせいでこの女の正体がまったくわかんねえんだ、聞いても答えちゃくれねえし。
「占い? 昔彼女が好きだったなあ……」
 こう答えるのも、いつものことだ。実はもう今週に入って四回め。俺はタバコに火をつけた。
「占ってみやせんかネ。百円でいいから」
「金取るならいいよ占わなくても」
 これで今週は三百円取られてるんだ。先週は二百円でその前は五百円。戻ってくるのはそのつど違う見返りだ。下手なギャンブルよりも性質が悪い。
「いいからよこしな」
「ちょ……!」
 いつ俺の財布の位置なんか知ったんだこの女! 俺の持っていたカバンはいともたやすく奪われ、素早く中から小銭入れが抜き取られる。その中には……百円玉が……ジャラジャラジャラジャラジャラジャラ…………女の、形のいい爪に彫られているつるんとした蛇に、俺の虎の子の百円は食われた。
「――仕方ねえな。今日の占いは、まともなんだろうな?」
「まあ、椅子にでもかけたまい」
 この女の年齢がどうも不詳な原因の一端は、しゃべり口調にもあると俺は思う。が、そう思うのもいつものことなので、今更気にしても始まらない。この女の話し方が気に障らなくなって、もうずいぶん時間が経った気がする。
 ともあれかけたまいと言われても、俺はいつものように、立ったまま占いを聞くことにした。ここの椅子はどうもすわりが悪くって苦手だ、がたがたと。長く客のいつかない理由は、きっとそのせいなんだろう。この椅子に誰かが座っているのを、そういえば俺は見たことがない。
 ある意味、あんまり気味が悪かったので、あんたは俺専用にここにいるのかと聞いたこともある。そのときは低く笑って、相手にされなかった。
「さて」
 女は水晶玉をいとおしそうに撫でた。つるりと音の聞こえるようなその曲面を、俺も見つめて、自分の瞳が玉に映りこむ。
 どろんとした瞳だ。疲れた瞳だった。
 光彩のかけらもない黒い瞳孔の中に、俺は一瞬、ちかりと光るものを見つけた。それは玉の中にあるものではなく、はっきりと、俺の瞳の中で光ったもの。ちいさく、よほど注意しなければ見えないほどに――まるで星のようなそれは、じっと見つめていると瞳孔の中に吸い込まれるようにして消えた。
 こし、と、すこしだけ目をこする。いつのぞきこんでも、この光と、そのあとに襲う感覚には慣れない。眼の奥がほんのすこし熱くなって、身体と心のどこかがたぎる。こんな夜中に。
 そして俺は占いを聞く。占いかどうか、ひどく怪しいものではあるけれど、この女が占いと言い張ってはばからないんだ。ああわかったそういうことにしといてやろうと、半年前やっとそう思った。
 女は水晶玉を撫でるのをやめ、蛇の彫られた爪を俺の眼前に突きつける。
「おまいさん、星座は?」
「――みずがめ座――」
 自分の星座くらい言えるようになっときなさいよ、と、ずいぶん前に別れた彼女が言っていた。男が星座にかぶれるようになるとなんかいかがわしいイメージしか浮かばねえと俺は思っていたから、意識はしてなかったんだが……やっぱり、覚えてるもんなんだなと、おかしくなる。
「みずがめ、か」
 女は水晶玉をしまってカードを出した。
「玉の意味は! 何のためにそんな大仰な玉出したんだよ!」
「何度それを聞けば気が済む?」
 俺はこれ以上突っ込んでモノを聞くのをやめた。ああ、そりゃそうだ、答えの聞けないとわかっている質問ほど馬鹿馬鹿しいものはない。
 女がべらりとカードをめくる。俺の目の前に出されたカードは、旅人が崖から落ちそうな絵のもの。なんだっけかこのカードは……
「愚か者」
 次にめくられたカードには逆さまに吊るされた男の絵。
「首くくり」
 次にめくられたカードには王様かなんかの絵。
「権力者」
 最後のカードは、女性がカメから水を流しているのと、それから、天秤を持った女神のと、二枚。
「星々に護られた裁定者」
 女は最後の二枚のカードを、王様のカードへたたきつけた。
「今晩中にでも問題はかたづくと出ている。だれにも知られぬよう、誰にもそれと気づかれぬようひっそりと」
「方角は?」
 今度はざらざらとハシのようなものを出す。占い方に一貫性がないのにも程がある。だが、このことに関しても、突っ込んでも仕方がなく――当然明瞭な回答など得られないので――俺は何も言わなかった。
 ハシがしばらくかき回されて、女は口を開いた。
「北西が吉と出ておるネ。かに座の人間が助けになると思われる」
「いちいち会った人間に「アンタ何座ですか」なんて聞くかよ」
「なら、呼びゃあよかろうよ。【その名】で」
 一律の会話は、いつもこうして終わる。言われた方角を目指して歩き出すのは俺。女はまた水晶玉だかハシだかカードだかとにかくいろいろごっちゃになったものをざらざらとそろえたりしながら、俺に小さく手を振る。
「おまいさんの幸運を祈るよ」
 そこでいつもなら俺はタバコをくわえて軽く手を上げる。が、最後の一本をさっき吸い終わったばかりだ。ということは当然ケースは空、ないものをくわえるわけにはいかない。念のためポケットをあさってみたが、やはり一本のタバコもそこにはなかった。
 参ったな。俺は占いには頼らないがゲンはかつぐんだ。
 こと、この女とこんなふうに会話を交わした夜は、せめて信じていない神にでも祈っておきたい、そんな気分になる。
「……ゲンが切れちまうってのは致命的だ。買うかネ?」
「あんのか……」
 いつもと違う様子の上に、少し焦ってぱたぱたとポケットをたたく俺を見かねたのかどうか、女はつぶやいてローブの下から小さな籠を出した。
「ひとつ五百円」
「高ェよ! どんだけぼったくる気だ!」
「一本ならサービスでタダさ。どうするネ」
「ネ、じゃねえだろ……」
 言ってはみたが、ともかくゲンをかつぐという意味でいくなら一本はないといけない。その、助けになるかに座の人間というのがどういうヤツかはわからないが、少なくとも一服しなきゃいけないほどじゃないだろうと思う。
「わーったよ、一本だけよこせ」
 その、しわのあるのかそれとも弾力に満ちているのかさえわからない手のひらに乗せられた一本のタバコを、俺はつまみあげた。あたりをともす爪の先ほどの灯では、銘柄なんてわからない。わからなくていいんだ。そんなところにまでこだわるつもりはない。
 いつものように歯で噛むようにタバコをくわえて、いつものように俺は軽く手を上げた。それでいいんだ。
「ゲンは元に戻ったかネ」
「ああ……たぶんな」
「じゃああらためて。おまいさんの幸運を祈るよ」
 歩き出した俺には、その言葉がうんと遠くのものに思えた。女に聞こえていないことは承知で、俺はつぶやいた。これも、いつものことだった。
「ありがとな、蛇遣い」


 この町に住んでもう三年以上になるというのに、まだまだ俺の知らないところは多い。北西の方向に素直に歩くと、見知らぬビルや店が立ち並んでいる。それはもしかすると、深更というカーテンの見せる一瞬の幻なのかもしれない、と俺はよく思うようになった。
 普通の人間の歩くところじゃない。こんな時間帯、こんなところは。
 灯の消えたビルが、俺を覆いくるむように見下ろす。わかってるよ、そう長居をするつもりはないんだ。

 明日もきっと上司に怒られるだろうから。
 リストラには、なりたくないしな。

 ビルを見上げると、零れ落ちそうなたくさんの星々が降るように俺をさすのがわかった。今夜は新月。なはずなのに、あかるさは、異様なほどだった。
 この辺りか? つと、足を止めると、闇の中で、エナメルがコンクリートを踏み蹴る音がした。
 紅い紅いエナメルのその色は、一瞬だけ俺の視線を奪った。せいぜいの格好をつけて一服しようとしたのに、思い出す。なかったじゃないか、と。そうだいらないことを考えて結局タダタバコを一本だけだった、あの女からもらったのは。ぼったくり価格だったが買っときゃあよかったな、そうすればこんな無駄に動揺することもなかったろうが……今日はほとほと運に見放されている。いや、いつもか?
 いっそ、タバコはやめてみるか? 今夜が、明けたら。
「坊やがこんなところをこんな時間に歩くものではないわ」
 思考が瞬間断ち切られる。坊や? 失礼な、と思って、俺は声の主を横目で見た。真っ赤なチャイナドレスが、そのスレンダーな肢体にどこまでも映える。昼間にこの街を歩けば、さぞかしいい注目の的だろう。惜しむらくはこの闇のせいで、その美しいドレスの刺繍がイマイチ観察できないくらいだ。
 背だって俺より頭ひとつ分くらい高い。俺は精一杯の威勢をつけたつもりで、正面から、そいつを、見た。
「あんたが【キャンサー】か」
「そうよ。――ああ……あなたが?」
「悪かったな、歳相応のイケメンじゃなくって」
「仕事ができる男なら、そんなの構いやしないわ。アル=オピュクスに聞いたのね? 名乗ってもらいましょうか、坊や」
「――【アクエリウス】――」

 そうして俺は星空の闇夜を蹴る。それは決まって――午前一時、十一分。


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