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A-05  SPEED STAR

 耳に響くエンジン音は懐かしいと感じるもの。
 息をひそめ、チームクルーと共に目の前のモニターを見つめる。そろそろ出るな、といった予感は、誰の胸中にもあったはずだ。
 だから、数字が表示された時、どこからともなく落胆とも感嘆ともとれる声がもれたのは、ダンにとって心外だった。
 こんなの、当然の結果じゃないか……!
 言葉にはせず叫ぶと、一気にアドレナリンが放出される。その勢いのまま、飛び出すように場を離れる。
 ガレージを出れば遠ざかっていたエンジン音が再び明瞭に聞こえ始める。テスト日のため閑散としたピットロードを横切り、フェンスに体を押しつけ耳をすませる。
 近寄るマシンの鼓動が頬に触れる。轟くエキゾーストノースが空気を震わせる。頃合いを見計らって、ダンはフェンスの隙間から顔を出した。
 前方から迫ってくる白いマシン。アクセルは全開。一瞬で前を通り過ぎれば、急ブレーキ。小刻みに揺れるテールを操って第一コーナーに突っ込んでいく様は、まさに暴れ馬が駆け抜けたかのようだ。
 姿の消えた方角を見やったまま、ダンは総毛立つ感覚を得た。同時に、自分の顔が徐々ににやけていくのも感じる。高揚した気分に自分が充たされていくのが、嫌というほどにわかる。
「やっぱりストレートは遅いな」
 背後からの声はメカニック・チーフのものだ。自分と同じように実際に車を見に来たのだろう。
 ダンは、彼に表情を悟られないようにさっと踵を返す。
「そりゃそうだ。相手は二年落ちだぜ?」
 いい置いてガレージに戻る。中ではチームクルーたちが、羅列されたデータを睨み付けていた。
 ダンも改めてモニターの数字に目を向けた。三週目ラップタイム1.765。走っているマシンは、シャシーもエンジンも二年前のモデルだ。二年も時間があればレースマシンは飛躍的に進化を遂げるのだから、時代と照らし合わせてみればその数字は遅いとしかいいようがない。
 なのにクルーがそろって真剣にデータと向き合っているのは、たたき出されたタイムが、二年前のレースデータと充分に戦えているから。そしてなにより、パイロットがエイジ・ディラックだから。
「……信じられないコーナーワークだ」
「話には聞いていたけれど、あれほどセッティングの決まらない車をこんなに制御するなんて」
「今年はまだマシンの開発が追いつかないだろうけど、こりゃ来年は充分に優勝も狙えそうだな」
「今頃帰って来なくたっていいのになぁ。絶対あのまま引退すると踏んでいたんだけどなぁ」
「兄弟チームのパイロットがあのエイジだなんて、本当にこれからはうかうかしていられないよ」
「オーナーも一体何を考えているんだか……なあ? ダンもやりにくいだろ?」
 ぼそぼそと言葉を交わしていたクルーたちに突然話を振られ、ダンは咄嗟に真顔を作る。大げさに肩をすくめてみせる。
「どちらにしろ、セカンドチームはあっちだよ。俺とエイジさんのキャリアは確かに違うけど、メカニックのレベルはうちの方がはるかに上だ。あと、そう。若さと体力でもエイジさんには勝てるな」
 最後にニヤリと笑顔を向ければ、それもそうだとクルーたちはいっせいに笑った。今日、サーキットに入ってからというもの、ずっと妙な緊張感に包まれていたチームの雰囲気がようやくにしてほぐれた。
 ダンにしても、もちろん緊張していなかったわけではない。何といっても相手はあのエイジだ。伝説とまで呼ばれたパイロットだ。
 クルーたちがぼやく気持ちもわからなくはない。ダンとチームは共に二年前にデビューした。それから確実に実力を付けてきた。全15戦を戦って総合チャンピョンを決めるシリーズで、昨年度、ダンとチームは5位の成績を収めた。今年はその上を狙っている。頂点に立つこともあり得ると考えている。
 なのに今年、エイジが帰ってきた。
 5年前の総合優勝者。人気、実力ともに頂点に立ち、確実に一時代を築いたスターレーサー。
 しかし、誰もが彼の時代はもう終ったものだと思っていた。


 4年前。アルスターサーキット。
 得意としていたはずのコースで単独クラッシュ。
 マシンは大破。
 エイジも再起不能とまでいわれた怪我を負う。
 事故の原因は不明だった。パイロットの安全性が最優先課題とされている中での大事故はレース界に波紋を呼び、当時のチームは解散。一年以上の期間をおいて再びオーナーがチームを立ち上げた時、パイロットとして迎え入れられたのがダンだった。
 ダンは同じオーナーの元、下位カテゴリのレースに出ていた。ために、エイジとも面識があった。弟のようにかわいがってもらい、自分もエイジを慕って頑張ってきた。たった一つの星として必死に追いかけてきた。
 そのエイジが、サーキットに帰ってきた――。


「ダン、次出るぞ」
 エイジのマシンが隣のガレージに入っていき、エンジンが止まる。
 ダンは監督の声に簡単に返事をして足を進めた。ヘルメットはガレージの隅に置きっぱなしにしてある。上半身だけ脱いでいたレーシングスーツに腕を通しながらゆっくりと寄っていく。
 首元のボタンを締めたところで、背後の空気が変わったことに気づいた。微かなざわめきが生まれたので、ダンはふり返る。
「ダン! ダニエル・イングラム!」
 名を呼ばれ、目を大きく見開いた。
 ガレージの中は蛍光灯が灯っているだけで、影の色が濃い。かわって、昼の陽射しを存分に受けている外界は眩いばかりだ。
 その強烈な光を受けて、彼はそこに立っていた。
 エイジ・ディラックは。
「悪いな、ダン。まだまだ俺はお前と対等に戦えそうだよ」
 ガレージの影の淵に立って、彼は笑った。額にはうっすらと汗が見える。実は気を抜けば、肩で息をするのではないかとも思う。
 それでも、エイジは立ってダンを見ていた。以前と変わらない笑顔を向けて。
「気の強さはさすがですよね」
 息を吐きながらダンは返した。エイジが軽く瞠目したのを認めて、淡泊に続ける。
「でも、全盛期のように体がついてきていないのは丸わかりですよ。いくらマシンのセッティングが全然決まっていないとはいえ、たった五周で汗だくになるなんて」
 エイジは手を上げて、指の腹で額を擦った。汗を確認したのだろう、首を軽く横に振る。反論はない。
 ダンは足を進めた。手を伸ばせばエイジに届く距離まで詰めていく。エイジの青い目をじっと見る。
「正直、困るんです。あなたが復活して、ちゃんと王者に返り咲いてくれないと。俺が、困るんです」
 優しげな眼差しは自分を哀れむものじゃない。自分を慈しむものだ。子どもの時から向けられてきたものだ。
 気を抜けば以前のようにエイジにすがりつきたくなってしまう。ダンは振り切るように、わざと強く見返す。
「だってわかるでしょう? 王の交代劇は衝撃的に行われなきゃいけない。そうでないと、観客は納得しない。いつまでも全盛期のエイジさんを求めてしまう。俺の時代が、やってこなくなる」
 星を落とすのは、この自分――。
 ずっと心に決めていた。子どもの頃からエイジを追い抜かすことが目標だった。そのために走り続けてきた。
 だから、エイジがいなくなったあとにパイロットになれても心の底から喜ぶことはできなかった。
 だから、エイジが復帰すると聞いた時、飛び上がるぐらいに嬉しかった。
 だから今、天才的なコーナリングを見せつけられて、ダンは吠えたくなるほど興奮している。
 ――エイジ・ディラックを越えていくのはこの俺だ。エイジ・ディラックの時代を終らせるのはこの俺だ。
 エイジ・ディラックというたった一つの星を落とすのは、この俺だ――。
「お前、さ」
 エイジは笑ったのだろうか。
 途端、ダンの頭に、置かれるように拳が降ってくる。軽い衝撃を脳に受けながら、ダンはエイジを見つめる。彼の表情が、徐々に変化していく。唇の片端が、にゅうっと、つり上がる。
「そういう生意気な口きくのはまだ早いんじゃないの? マリクとかジャンとか、先に抜かさなきゃいけない奴はいっぱいいるだろ?」
 ダンは頬をぴくりと震わせた。エイジが名をあげた二人は、前シリーズで優勝を争った二人だ。エイジが去ってからの四年、レース界を事実上牽引してきた二人だ。
 確かに世間は二人の方がダンよりも速いと思っているだろう。ダンはまだ二人には勝てないと思っているだろう。
 が、当然ダンはそのようなことを考えてはいない。勝てると思っている。次のシリーズは勝てる。絶対に勝てる。勝ってやる。
「俺を甘く見てるでしょう、エイジさん――」
 表情を強張らせながら口を開けば、頭に乗っていた手が落ちてきて、頬をつねあげる。突然のことに痛みを訴えるよりも驚く方が先だった。
 続けようとしていた言葉を失って、両目をただ大きく開いて、ダンは追い続けた彼を見る。
 青い目が、楽しむかのように細められる。
「お前は、今お前の上にいる奴らを追い抜かしてから俺に挑んでこい。――その頃には、俺はまた、頂点にいてやるから」
 全身を駆け抜ける衝撃が強すぎて、息ができない。
「もう一度、必ず、俺は頂点をとる」
 ダン、行くぞ、と、遠くから誰かが呼んだ。
 その声に現実に引き戻されて、ダンは呼吸を取り戻す。頬をつかむ手を力一杯に払って、一歩さがり距離をとると、彼を睨んで、叫ぶのだ。
「子ども扱いするんじゃねえよ! 次の時代は俺のものだ! エイジさんを叩き伏せて、俺が頂点に立ってやる!」
 エイジは、笑った。
 片方の口端だけが上がった不敵な笑みは変化した。
 破顔した。
 楽しそうに、無邪気に、彼は笑った。
「おう! 楽しみにしているからな!」
 軽く手を振って、爪先を返して戻っていくエイジ。
 遠ざかっていく背中は見慣れたものだ。子どもの頃からずっと追い続けてきたものだ。憧れて、目指してきたものだ。
「――エイジさん!」
 ダンは走った。手を伸ばせば背に届く。だから、軽く殴った。
 エイジがふり返る。驚いた彼に、ダンは笑いかける。不敵な笑みだ。上手に自分はできているだろう。
「楽しみにしてるのはこっちだ! 絶対に這い登ってくれよ!」
 優しげな眼差しと共に、エイジは親指を立てて応えてくれた。
 ダンは急いで自分のガレージに戻ると、キャップを被り、ヘルメットをつかんでマシンへと寄っていく。
 準備は万端。皆、ダンが走り出すのを待っている。
「あんなに煽らなくてもいいのに。ライバルは少ない方が楽だぞ?」
 メカニックの一人が声をかけてきた。チームメイトの本心だろう。ダンだとて、楽に勝てるならそれに越したことはないと思っている。理解できなくはない。
 けれど、違うのだ。エイジ・ディラックだけは、違うのだ。
「大丈夫。絶対に勝つのは俺だから」
 ヘルメットの中で笑顔を作って、親指を立ててみせる。
 マシンに乗り込み、ベルトをしてステアリングを握る。
 エンジンがかかる。体に響く躍動が、自分の鼓動と同調(シンクロ)する。徐々に徐々に沸き上がっていく感情が、全身を完膚なまでに支配する。
「行ってくる」
 低く告げて、アクセルを開く。
 ガレージから出た外界は明るい。眩しいぐらいに輝いている。これはエイジが背負っていた光だ。目指してきた光だ。
 絶対に絶対に、俺はこの光を手に入れる。次の星は、この俺だ――。
 熱い決意を胸に、ダンはコースへと走り出る。


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