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A-07  『ゆめいろこんぺいとう』

 誰よりも、高く跳べると思っていた。
 柚月(ゆづき)は病室の白い天井をぼんやりと眺めた。
 ――リハビリを頑張れば、自力で歩けるくらいにはなるかもしれません。けれど、高跳びは……。ましてや、全国でトップを争う選手となると……。
 そう言って軽く視線をそらせた眼鏡の医師の顔が、あぶくのように浮かんで消えた。
 もう、二度と高跳びをすることはできない、しびれた頭でそう考えた一方で、一晩眠って目覚めれば、脚が元通り治っているに違いないと心のどこかで思っていた。きっと、きっと、本気で願えばこの脚を砕いたあの事故の前に戻ることができるに違いないとも。
 だって、インターハイはもう一月後なのだ。調整は順調だった。優勝も射程圏内だった。目を閉じれば、地面を蹴る足の感覚が、空中で身体をひねる感覚が、そして身体がバーを越えて行く手応えが、まざまざとよみがえってくる。
 柚月は目を閉じたまま、何度も、何度も跳んだ。その身体は高く、高く舞い上がる。いつしか、電線を越え、学校の校舎を越え、街を見下ろし、雲さえ突き抜けて、半ば夢見心地な浮揚感は、それでもさらにさらに大きくなって、薄れ行く意識の中で、柚月は糸の切れた風船のように、どこまでもどこまでも上って行った。

 ふと気づくと、いつしか柚月は奇妙な空間に立っていた。
 学校の教室くらいの大きさの、暗い円形の部屋の真ん中に、螺旋状の棚が置かれ、そこには上から下までほの光る小瓶が所狭しと並べられている。
 そして闇へと溶け行く部屋の周囲は、はっきりとした壁があるわけではなく、うっすらと光り、そこにも無数の小瓶が並べられているようにも思えた。暑くもなく、寒くもなく、まるで水の中にいるかのように、少し身体を動かせば、波紋が広がって行くように空気が揺れる。
 まるで空間の狭間に迷い込んでしまったような、絶対的な孤独感と同時に、小瓶の放つ不思議な光のせいか、何かに守られているような安心感がわき上がってくる。母親の胎内にいる感じというのは、このような感覚かもしれない。
「何、これ……」
 思わず呟いた声は、静かに辺りに吸い込まれた。
 柚月は、傍らの小瓶を覗き込む。中には、様々な色をしたこんぺいとうのようなものが入っており、それがあるいはまばゆく、あるいは幽かに、そしてあるいはほのぼんやりと光っていた。
 それは、えも言われぬ神秘的な光景で、柚月は言葉もなく見入った。
「ようこそ、夢の墓場へ」
 不意に降ってきた涼やかな声に、柚月は驚いて振り向いた。どこから現れたのだろう、先ほどまでは確かに誰1人いなかったはずの部屋に、長いまっすぐの黒髪を流した女性が立っていた。年若い少女のようにも、年齢を重ねた熟女のようにも見える彼女は、ただただ静かな微笑みを浮かべて、柚月を見つめていた。
「夢の……墓場?」
 思わず問い返した柚月に、女性はゆったりと頷く。
「ええ、私は夢守(ゆめもり)です」
「……」
 どう応じて良いかわからず、柚月はただ目を瞬かせた。
「人は、何からできているか知っていますか?」
 おもむろに夢守が口を開く。
「何って……、水分、アミノ酸、それから微量の金属……」
 とっさに口から出た答えは、明らかにアスリートとしてのもので。柚月は心中微苦笑した。
「ええ、その通りです。けれど、それだけでは人として生きてはいけないでしょう? 人はまた、こうありたいという夢、希望、願望などでできているのです」
 夢守は、穏やかな笑みを浮かべたまま、柚月の顔を見つめた。
「人が死ぬのは一度きり。ですが、こうした夢は、人が生きて行く上でいくつも、あるいは何度も死んでいきます。人が死んだら星になるように、こういった夢が死ぬと、このような形で、ここに眠るのです」
「……」
 あまりに突拍子のないことを、さも当然のように言う夢守に、柚月は一瞬面食らった。が、なぜか彼女の言葉には、それが真実であると信じるに足る重さがあるように思えた。
 柚月は、ふと中央の棚に目をやった。そこに無数に並んでいる小瓶は、相変わらずそれぞれ様々な光を放っている。が、先ほど見ていたものとは、どことなく微妙に違う気がする。
 そう気付けば、不意に軽いめまいのような感覚に襲われた。床と思っていたところが微妙に揺らぎ、そうして部屋の周囲と思われていた辺りがめまぐるしく動いているのだ。棚の小瓶もまた、瞬くように入れ替わっていた。
 静止している部屋に立っていたと思っていたのは錯覚で、どうやら果てない宇宙空間を、円盤のようなものに乗って漂っているという感覚の方が現実に沿うているような気がする。
「この白いのが」
 ゆらり、と夢守が棚へと歩み寄り、小瓶の1つを指差した。と、その瓶だけが移動を免れ、そこに留まる。夢守の細い指先は、小瓶の底の方にたまっている白い小さなこんぺいとうを指していた。それは、乾いた弱い光を静かに放っていた。
「忘れ去られた夢です。あるいは、それと意識しないうちに諦めていた夢。例えば、幼い頃に抱いていた、将来の夢。いずれ、乾いて崩れ去り、砂となっていくことでしょう」
 言われてみれば、どの瓶の底にも、細かい白い砂が敷き詰められていた。その上にある、いまだ形を残したこんぺいとうの放つ光は、いずれ自分が崩れ去るをことを知りながら、その運命を受け入れて微笑んでいるような、どこか哀しげな優しさを感じさせた。
「そして、この青いのは、いまだ痛みを伴う夢です」
 静かに崩れ行く、過去の夢の無言の生き証人を眺めていた柚月に構うことなく、夢守は次の小瓶をさした。その中には、夢守の言う通り、わずかに積もった白い砂の上に、青い大きめのこんぺいとうがただ1つ乗っていた。
 それは、澄んで美しい、けれど直接胸に刺さってくるような哀しげな鋭い光を四方に放っている。知らず、息苦しくなって、柚月は肩を上下させながら、大きく息を吸い込んだ。
「もう決してかなわないけれど、諦めきれない夢。あまりに大切だった夢は、それを失うとき、大きな痛みを伴います。この方は……、その痛みを恐れて、次の夢を持つことができないでいるのでしょうね。たった1つ、かなわない夢だけを抱えて」
 抑揚を感じさせない口調で、夢守は続けた。が、その言葉はひとつひとつ、氷の刺のように柚月の胸に突き刺さった。その度に、呼吸が苦しくなって、柚月は浅い呼吸を何度となく繰り返した。
「そして、こちらは」
 そんな柚月の心中を知ってか知らずか、夢守の語りは変わらず続いた。その指先に留まった小瓶は、溢れんばかりの光を放っていた。それは、とうてい、星形の砂糖菓子にたとえられるものではなかった。まぎれもなく、小さいながらも自ら輝きを発し、その喜びを享受する本物の星だった。
「今まさに夢を叶えようとしているところです。選ぶということは捨てるということ。1つの夢を追うということは、他の夢を捨てるということ。そうして、選ばれた1つの夢が叶えられる今、その夢を負う為に捨てられた夢が、ここで輝いているのです」
 柚月は、半ば呆然とそれを眺めた。思わず溜息が出てしまう程にあまりに神秘的で、あまりに輝かしいそれは、手を伸ばせばすぐに届きそうにも、どんなに追い求めても決して手が届かないようにも思えた。
 不意に、辺りが暗くなった。今、棚の上に並んでいる小瓶は全て、ほとんど光っていなかった。闇の中、よく目を凝らせば、黒いこんぺいとうがただ1つきり、瓶の中に転がっている。それは、深い深い虚無を固めたような、吸い込まれそうな不気味さを感じさせた。
「ここにあるものは……、夢見ることを禁じられた人のもの……」
 夢守が、目を伏せて、無念そうにそう呟いた。
「夢見ることを禁じられた……?」
 初めて露わになった夢守の表情に戸惑いつつも、柚月は思わず彼女の言葉を繰り返した。
「ええ。この世には、常に争いに身を置いている人たちがいるのです。夢を見ることも、希望を持つことも許されず、ただ憎み合い、殺し合う生を送る……」
 その夢守の言葉を受けたかのように、1つの瓶が高い音を立てて砕けた。一瞬宙に舞った破片は、溶けるように跡形もなく消えて行く。
「……」
 夢守は、心底哀しそうな顔で目を伏せた。
「この人たちの瓶に入っている黒い星は……『夢を見る』という夢、『希望を持ちたい』という希望。それが、生きることができずに、ここに……、墓場にいる……」
 まるで、独り言のように、夢守は呟く。
 と、今度は不意に、1つの瓶から黒い星が消えた。代わりに、ぽつりと小さな小さな星が生まれる。それは、ごくごく弱いながら、静かな光を放ち始めた。
「……」
 それを夢守は、愛おしそうに見つめ、唇をほんの少しだけ綻ばす。
 この瓶の持ち主たちが住んでいる世界では、柚月には想像もつかないような生が繰り広げられているのだろう。その凄まじさは、とうてい柚月の想像できるものではなかったが、夢守の顔を見ていると、ただその重さと哀しさと、そして、その中でも力強さを失わない人という存在のたのもしさだけが伝わってくる。
 そうこうしているうちに、また小瓶は別のものと入れ替わり、それぞれに光を放ち始めた。見ていてほっとするような、桃色がかった柔らかな光、少し影を帯びた苦しげな光、青みを帯びた冷たい哀しげな光、他の色に染まったことがないかのような、白い純粋な光。まるで、その持ち主の心をそのまま移したかのように、瞬き、移ろいながらそれぞれが静かに光っている。
「あの、この瓶って、それぞれ持ち主がいるんですよね……」
 柚月は、おずおずと尋ねた。
「ええ」
 夢守はおっとりと頷いた。
「私のは……、私のもここにあるんですか?」
 折から高鳴り始めた胸を抑え、柚月はそう聞いていた。自分の心を見せつけられるのは、この上なく恐ろしくもあったが、どうしても見たいという気持ちは抑えられなかった。
 まるで、柚月がそう尋ねるのを知っていたかのように、夢守はゆっくりと頷いた。そして、音も立てずにその手をすうっと伸ばす。
 その指先には、1つの瓶が浮いていた。その中に、たくさんの小さな白いこんぺいとうと、1つ、大きな青いこんぺいとうを抱いて。
 青いこんぺいとうは、透けるほどに幽かな、幽かな光を放ちながらゆらゆらとゆらめいていた。あたかも、その角を伸ばし、転がりながら形を作ろうとしているかのように。
「あなたは、ここへ、大きな夢を預けにこられたのですね」
 夢守が静かに言う。
「ああ……」
 柚月は声にならない溜息を漏らした。そのこんぺいとうが何の夢の残滓であるか、すぐに柚月にはわかった。本当に、本当に、もう跳べないのだと、その時初めて実感としてわき上がってきた。
 あんなに練習したのに。習い事も辞めて、休日に友達と街に出歩いたりもしないで、体重管理のためにおいしいと評判のクレープも我慢して、それでも何一つ不満に思うことないくらい、没頭していたのに。
 瓶にたまった白いこんぺいとうを見れば、どれほど自分が高跳びに入れ込んでいたかがわかって、それなのに、大舞台の直前で、それを諦めなければならないだなんて、と思えば、胸が張り裂けそうになった。
「どうして……」
 熱い塊が、胸から喉へとせりあがってくる。こらえきれずに吐き出せば、それは奔流となって止まらなくなった。
「どうして私だけが、こんな目に……。どうして、あの道を通ったんだろう! せめてあと5分早くか遅くに通っていれば、ううん、もっとよく見て渡っていれば……。ああ、あそこで寄り道なんかしなきゃよかったの? ううん、忘れ物に気づいてたんだから取りに戻っていれば!」
 もう、様々な思いが毛糸玉のように絡まり合って、口から溢れ出してくる。柚月は自分が何を言っているかもわからないまま、ただただ叫んでいた。
 瓶の中の白いこんぺいとうが、にわかに青く色づき、明滅を始めた。柚月が叫ぶ度に、大きなこんぺいとうと共に震え、揺らぎ、青い光を放つ。
「まだ跳びたかった! もうすぐ大会だったのに! 絶対自己新出すって友達とも約束して、どうしてもう少し待ってくれなかったの? 嫌、嫌、嫌、どうして、どうして、どうして……!」
 ただとめどなく涙があふれ、もはや形を失った言葉があふれる。
「それで良いのですよ。好きなだけ泣いて、好きなだけ叫んで良いんです」
 夢守の言葉だけが、泣き崩れた柚月の耳に、なぜだかやけにはっきりと届いた。

 目を開ければ、白い天井が見えた。
 ああ、夢だったのかと柚月は軽く息をついた。けれど、事故に遭ったのは、そして二度と跳べなくなったのは夢ではない。それだけははっきりと胸に刻み込まれていた。
 そう思えば、一筋、二筋、新たな涙が頬を伝う。けれど、もう吐き出すものは何一つないかのように、自分でも驚くほどに胸は静かだった。柚月はもう一度目を閉じた。また一筋、二筋、静かな涙が流れる。温かな雫は頬を伝う間に冷えて、枕へとしみ込んでいった。


 玄関から間の抜けたチャイムの音が聞こえた。
「はーい」
「はぁい」
 元気よく答えた2人の幼い娘が、足音も高く玄関へと向かって行く。
「お母さん、来たよ、お母さんの本!」
 ボール紙に包まれた本を嬉しそうに抱え、はしゃぎながら子どもたちが戻ってきた。
「開けて良い?」
「ええ、どうぞ」
 柚月は笑いながら頷いた。
「これはねぇ、お母さんが高校生の時に見た夢をもとにして書いたのよ」
 愛らしくデザインされた「ゆめいろこんぺいとう」のタイトルが見えると、ふと柚月の胸に、あの時感じた哀しみと痛みが、懐かしさを伴ってよみがえってきた。もう10年以上も昔のことだというのに。
「ねえ、読んで」
 とねだる2人の娘を膝に乗せ、柚月は絵本の表紙を開いた。
「『知っていますか? 夜空のお星のまだ遠く、遠い遠いお空の向こうに、こんぺいとうたちが静かに眠っているんです。これは、そんなこんぺいとうたちのお話です』」
 適度に調子をつけて読みながら、柚月は心中にわき上がってくる感慨を静かに抑えた。
 高跳びだけではない、あれから諦めなければならないことはたくさんあった。その度に胸が引き裂かれるような思いをしてきたけれど、諦めた夢がどこかでそっと光っている、そう思えば救われた気になることも少なくはなかった。
 1人密かに支えにしてきた思いを、いつか娘たちにも伝えたくて、形にしようと考えたのは1年程前。今は幼いこの子たちも、いずれ必ず、夢を手放す痛みを知るのだから。いつか、その時に心の片隅ででも思い出して欲しい。
「『……そうして、誰も知らないところで、こんぺいとうたちはほのかに光りながら、みんなを見守っているのです。いつか、みんなが夢を叶えることを祈りながら』」
 読み終えて、柚月はゆっくりと本を閉じた。そして、2人の娘の頭をそっと撫でてやった。娘たちは、はしゃぎながら再び絵本をめくっていた。
 その笑顔を見ながら、柚月は思う。きっと、あの墓場にある自分の小瓶は今頃、まばゆいとはいわずとも、静かに満ち足りた光を放っていることだろう、と。


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