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A-10  三つ星

 それは、とある夜の再会。
「久しぶりだね。」
不意に声をかけられた彼女は、思わずくすりと微笑んだ。
「いつも忘れた頃に来るのだもの、久し過ぎると思うけど。」
 下草の上に直に正座し、きりとした居住まいで夜空を見上げていた彼女は声の主をちらと見やった。
「お久しぶり。顔色も良いようで安心したわ。」
「そうでもないさ、積もり積もるものも多くてね。ちょっと一息ついでに。」
 大げさなほど大業な溜息をついて、やはり彼も微笑んだ。伸ばせば腰まであるであろう白髪を結わえ身一つ、青年の出で立ちは初めて出会った時から変わらない。もう少し身なりに気を遣うべきと忠告してやんわり流されたのは、さていつの事だったろうかと彼女は視線を戻した。
「本当、久方ぶりになってしまったな。」
 そう独りごちて、彼もまた静かに腰を下ろす。下草を揺らせても生き物の動く気配すらない。無言でそれを見やり彼は、目の前の泉に視線を移した。
 水面に朧月が浮かぶ小さな泉は、北に聳える山々と南に点在する村々の丁度間に広がる森の中にあった。山から湧き出した流れが集まるそれは、また方々へ水脈を巡らし近隣の村の井戸を潤す。泉の側には朱塗りの祠が建てられ、しかし今では酷く剥げ落ち、苔生す柱が高く伸びた雑草の間から覗いていた。
「……相変わらずなのかい、此処は。」
 泉の縁で相変わらず空を見上げ続ける妙齢の女は、彼の問いに振り返ることなく答える。
「仕方ないわ、冷害続きで皆食い扶持を得ることに精一杯なのだもの。祠に参る余裕もないくらい。貴方は? 今度は何処を巡ってきたの?」
「ずっとずっと、南へ。非道いものだね、あちこちで小さな戦が起きてる。」
 血臭が水や風にまで染み付いていたと、端正な顔を歪ませた。血臭だけならまだ良い。地中に住まう生き物に喰われ大地が取り込んでしまうより早く次の死体が横たわる地では、腐臭の含まないものは存在しなかった。
「……水が、清らかであった時代は終わったんだろうね。」
 悲しげに愛おしげに、彼は小袖が濡れるのも構わず泉の水を掬い上げた。ぱたり、ぱたりと水音だけが辺りに響く。月影が波紋に揺れて光を散らし彼女の横顔を淡く照らした。
「この泉の水は綺麗だ。この辺りの村人は幸せだね、飲み水に苦労しない。」
「けど陽がない。此処は空も地上も灰だらけで作物が育たないの。」
 水音を聞きながら、彼女は合わせた手をギリと握り締めた。ここ最近、次々と村が閉じてゆく。戦に駆り出されたか、あるいは見切りをつけてしまったのか。何処か、此処よりはまだましな土地へと。けれど、
「もう清浄な自然は残ってないんじゃはないかしら。」
「さぁねぇ……この辺りは確かにもう駄目だろうさ。けれど水脈の在る処、私は何処へでも辿ってゆける。いつか未だ清浄な地も見つかるだろう。」
 まだ何年かかるか判らないけどねと苦笑を漏らし、彼はふいに瞳を閉じた。指の間から水がこぼれ落ちてゆく。
 夜の森で瞳を開いていようが閉じていようが、並の視力ならそう変わらないだろう。けれど青年が以前此処を訪れたとき、泉は夜も光で溢れていた。水を求めに来る動物たちの瞳、子孫を残すため宙を飛び交う虫たちの光、そして泉一面に瞬く星々。幾つもの小さな光がかつてはあった水面に、今は月の光しか映らない。しかも今宵は朧月。
 全ては血臭と黒煙と火山灰で覆われてしまった。
「……君は、まだ此処にいるのかい。」
「同じ事を聞かれても私の答えは同じ。私は此処を動けないし動くつもりもない。」
「動けないということはないのだろう? 現に東の泉の者達は」
「私は、動くつもりはない。」
 相変わらず実直だねぇと、彼は笑った。幾年月が経とうと変わらない存在が嬉しい、愚かなところも愛しく思える。けれど後幾度尋ねれば彼女は応えてくれるのだろうかと内心思案する。毒はすぐ其所まで来ているというのに、この期に及んでも動かない。人も神も生あるものの多くが清らかな地を求め、自らの土地を捨てているというのに。
「天は呆れて御出だろうね。皆が、……司と呼ばれる私でさえ己の事のみを考えている。自らが生きてゆければと他者を顧みず、また余裕も無し。畢竟それが自らの死を招くのにね。しかしまぁ今更この生き方を変えるつもりはないからねぇ、お叱りを受けるだろうか?」
 くつくつと冗談めかして笑いながら、両の青眼はあらぬ方を映す。今更変えるつもりなど毛頭無いと。常に笑みを絶やさない様は、かつて永きに亘って多くの者に崇め慕われ続けていた。住み処も拠り所もその一切を失くしてなお今、彼は彼女に笑みを向ける。
「尊きものの考えなんてわからないわ。けれど、……貴方は知ってる?」
 ずっと空を仰いでいた彼女は、この日初めて真っ直ぐに彼の顔を見つめ返した。
 かつてふくよかであった頬は痩け、流れ落ちる滝のようにつややかであった鋼色の髪は錆付いたように赤銅色に染まっている。けれど彼女のその漆黒の光を宿した瞳は、二百年前初めて出会ったときからまるで色褪せてはいなかった。閉じさせるには忍びない、ただそれだけの理由で老いた体に鞭打ち旅を続けているなど、打ち明けても彼女は呆れるばかりだろうか。
 そうしばらく呆けていた思考は次の言葉で引き戻された。
「一夜に三つ星を見付けると、翌日は灰が晴れるそうよ。立ち寄った近村の老夫婦が話してたわ。」
 らしくもない、たわいもない戯れ言をと言いかけて彼は、彼女の様と自分を見つめ返す瞳に真実と知る。
「地に見つけられない希望を、天はまだ空に残してくれてる。」
「……たかだか一日の晴天で作物は育たないよ。」
「それでも私は離れない。祠を参ってくれていた人達が信じて此所で暮らす限り、私は彼らの飲み水は守らねばならないの。」
 愚かな、と思った。義理が何処にあろうか、祠の屋根は砕かれて内側に石飛礫が転がっている。幾ら強い山風が吹こうと、御神体が祠の外まで転げ落ちて割れる事などないというのに。
 真、愚かな。
 何故人は、自らの首を絞めていることに気付かないのだろう。何故そんな者達に彼女が付き合わなくてはならないのだろう。けれど今日ようやく彼は悟った。胸の焦燥をごまかして幾度も繰り返した誘いは、きっとこの先も彼女へ届くことはない。ならば、
「わかった。もう此処へは戻らない。」
 名残惜しげに水面を一瞥し立ち上がった彼は、彼女と同じように天を見上げた。守るべき者も戻るべき場所も、捜すべき理由もなくなるのならこの永い齢も必要ない。何より、彼女が消えて後まで無為に流離い続ける気も更々ない。
「さようなら、星宿る泉の守(かみ)。」
 破顔一笑、別離の言葉と共に人型を崩し暗闇に浮かぶは白き燐光を纏う青眼の龍。そのまま空へと駆け上り、逆巻く風は辺り一帯に降り積もった灰を吹き飛ばす。薄雲のように拡がっていた灰は霧消し、空は久方ぶりに闇色に戻った。
 やがて再び静まりかえった森の中、溜息と共に視線を下ろし水面に残った波紋をそっと撫でて泉の守人は呟いた。
「さようなら、天(あま)駆ける水の司。」
 波紋の向こうに浮かぶ月は冴え冴えしく光を散らす。その隣、並ぶ三つ星。守人は微笑み、その光ごと泉の水を掬い上げる。それを自ら傾いた社に捧げて後、無造作に転がる御神体にすぅと吸い込まれた。
 風が一条、水面を揺らせて立ち去った。

 その日より三年、泉より径十里の村々は水と大気に恵まれ餓死者を生むことは無かった。しかし度重なる戦と凶作、いつしか空は白く濁り、数十年後最後の村人が去ると共に小さな泉は森に没した。


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