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B-01  満月の牙

 かすかな祈りが響く夜の教会に、ヒラヒラと小さな影が舞い込んだ。石の床に転がった音を立てて着地したのは、羽を広げたままのコウモリだ。
 コウモリはぶら下がるための両足を使って、よたよたと立ち上がった。深呼吸をするかのように胸を突き出して顔を上向けると、グンと背丈を増していく。
 薄い膜のような羽が白く細い腕になり、胸のあたりから丈長のドレスが湧き出るように現れて、細身の身体を包み隠す。頭頂のふわふわした短い獣毛は、長いアッシュブロンドに変化した。
 鼻が潰れたような顔は、いつの間にか金色の瞳だけをそのままに、肌が白い20歳前後の女性のものに形を変えている。
「アルフレート」
 血の赤をたたえた唇から、声が紡ぎ出される。その名前に祈りを中断し、背を向けたままで神父が立ち上がった。
「村から少し離れた小屋の地下に、3人の男が村長の娘を連れ込んでたわ。1人は私と同じ。これから村長と身代金の相談ですって」
 それを聞き、神父アルフレートは視線だけで女を振り返る。肩より少し短めに切った薄茶色の髪が揺れ、同色の瞳が安堵から漏れた微笑みを浮かべた。
「行くの?」
 歩を進めてくる女に、アルフレートは無言でうなずき返す。すぐ側に立った女が、背中からアルフレートの全てを捕まえるように抱きしめた。
「ルーナ?」
「……欲しいの」
 ルーナと呼ばれた女の小さなつぶやきに、アルフレートはフッと息で笑ってうなずいた。ルーナに身体を向けると、首にかけていた十字架を背中に回し、足が浮くほど強く両腕で抱きしめる。
 ルーナはアルフレートの肩口に頬を寄せると、牙をむき出して首もとに噛みついた。血液を嚥下するかすかな音が、アルフレートの耳に心地よく響く。邪魔にならないように頭を少し傾けたまま、アルフレートはルーナを抱いていた。
 傷が広がらないようにか、ルーナはゆっくり牙を抜き取ると、ふぅ、とため息をついてアルフレートを見つめた。確か28だと言ったその顔は、ルーナの瞳に暗く沈んで映る。
「生命力が強いって素敵」
「死んでいるのと同じだ」
 表情を変えないアルフレートに、ルーナは首を振ってみせた。
「でも、血は熱いわ」
 ルーナは目を細めると、アルフレートの唇にキスをした。
 外に人が近づく気配を感じ取ったのか、ルーナは扉を振り返るとアルフレートから離れ、石でできた柱の影に溶けるように姿を消した。同時にガタッと大きな音を立てて扉が開かれる。
「村長?」
「娘がさらわれたんだ。もう私にできることは、神に祈ることくらいしか……」
 村長はふらつく足で祭壇の前まで進み、組んだ両手を高く上げる。
「神よ。どうか娘を無事に……!」
 ただ祈り続ける村長を残し、アルフレートは静かに講堂を後にした。
「神、か」
 そうつぶやいた口の端には、かすかな自嘲が浮かんでいた。


 1人は私と同じ。そう言ったルーナの言葉を思い出す。アルフレートは上下とも黒く動きやすい服装に着替えると、聖水をかけた木の杭を手にした。
 村長の娘をさらった犯人3人のうちの1人は、吸血鬼なのだろう。もしかしたら願いが叶うかもしれないとアルフレートは思った。
 外は日が落ちたにもかかわらず騒然としていた。表通りを避け、ルーナに教えられた小屋を目指す。
 明日には満ちる月の存在感が大きい。アルフレートは嫌悪感から、その月を直視することができなかった。目をそらした先では数々の星が美しく瞬いている。月の明るさに左右されないだけの輝きを持つ星が、アルフレートには羨ましく思えた。
 村外れにポツンと立つ小屋は窓に明かりもなく、何事も起こっていないかのようにひっそりとしている。見張りがいるかもしれないと思ったが、アルフレートは気にせず扉に手をかけた。
 音を立てて開きかけた扉が、わずかに動いただけで止まる。小さな金属音がしたのは、簡単な金具を鍵の代わりにしているからなのだろう。
 アルフレートは一歩だけ離れると、その扉に向けて蹴りを放った。盛大な音がして扉が開き、反対側の壁にぶつかってもう一度音を立てる。2つの蝶つがいは、かろうじて壁と扉を繋いでいた。
 人の姿は見えない。でも今の音で間違いなくアルフレートの存在は知れたはずだ。ここにも探しに来たのだと、地下で息を潜めているのだろう。
 だが、金具を小屋の内側から止めてあったのは、中に人がいるからだ。そこに気付かない犯人の間抜けさを笑うと、アルフレートは部屋を見回した。窓から入ってくる月明かりのせいで、地下への入り口が嫌でも目に付く。
 アルフレートは小屋の扉を閉じた。音を立てないように月光が差し込む窓の隣、一番暗く見える部分に立つ。
 少しして、地下への入り口が細く開いた。中から光が漏れてくる。そこから1人顔を出して周りを見回すと、目をこらしてアルフレートの方向を凝視した。当然のように目が合う。
「誰だ?!」
 その男は慌てて出てきた。手にしたナイフを振り回しながら、駆け寄ってくる。ナイフを持った手を左腕で払い、右の拳をみぞおちにたたき込む。ぐぁ、と絞り出すような声を上げて、男は床に伸びた。
 開いたままの入り口から、もう1人が姿を現し、アルフレートに拳銃を向け引き金を引く。パンと乾いた音の後、身体に衝撃が走る。アルフレートは壁に背を預けたまま、ズルズルと座り込んだ。左の肩口に焼けるような痛みがある。
 地下から女の悲鳴が響いた。村長の娘だろう、誰を撃ったのかと騒ぐ声と、当たったと喜ぶ声が聞こえてきた。
 壁に寄りかかって身体の力を抜く。撃たれたのは肩で心臓ではない。死ねなかったことに安堵する気持ちを意外に思う。
 傷は、大きく息を繰り返すうちに、耐えられる痛みに変化してきた。それでも弾のある場所が熱いのは、銀の弾丸だからか。
「少し静かにしてろ!」
 中から人が出てきた。いや、気位の高そうな口をきくからには、その男が吸血鬼だろう。
 アルフレートはじっと動かないまま、胸の十字架に視線を感じていた。吸血鬼がフッと鼻で笑う。
「やはりこいつか。餌が無くなれば、ルーナも戻るかもしれんな。それが嫌なら村人を襲うか」
「有り得ない」
 アルフレートの声に、吸血鬼は身体を硬直させた。
「ルーナが村人を襲うなど」
「しくじったのか!」
 吸血鬼が腰の剣を抜く間に、アルフレートは杭を手に立ち上がる。残る1人が慌てて出てきた。その手には今しがたアルフレートを撃った銃がある。
 薙いでくる剣を下がって避ける。唯一吸血鬼に勝てる武器を失うわけにはいかないので、杭で剣を受けられない。
 振り下ろされる切っ先を見ながら飛びすさり、何か手はないかと視線を走らせる。その視界に銃を構えた男が入ってきた。床を思い切り横に蹴る。引き金が引かれた直後、アルフレートの首を擦過した弾丸が、背後の窓ガラスに飛び込んだ。
「心臓だ、馬鹿!」
 吸血鬼は男にそう叫びながら再び剣を薙いでくる。アルフレートは一瞬早く扉を開け、その陰にかがみ込んだ。扉が真ん中辺りで砕け、上半分が剣の力に持って行かれる。
 身を隠した扉の残り半分を壁から引きはがし、アルフレートは吸血鬼に向けて振り回した。思わぬ反撃に体勢を崩し、壁にぶつかった吸血鬼の心臓をめがけ、握りしめた杭を突き出す。
 吸血鬼を貫いた杭が壁に食い込む音のあと、アルフレートの脇腹にナイフが深々と突き刺さった。銃を捨てた男がいつの間にか、気を失っている男のナイフを手にしていたのだ。
 アルフレートは男の肩口をつかむと、顔を突き合わせる。
「なぜ撃たない」
「た、弾が、もう……」
 恐怖に顔を引きつらせた男を、思い切り壁に向かって投げつける。男は顔面から激突し、気を失ってひっくり返った。
 ククッとのどの奥で立てた苦しげな声が耳に届く。
「ルーナがお前にここを教えたのは、お前が死ぬのを期待していたのかもな」
 その声にアルフレートが振り向くと、吸血鬼は嘲笑を浮かべていた。
「そして彼女も、死にたかったのかもしれん……」
 ルーナが戻らないだろうことを、吸血鬼も認識していたのだ。ビクビクと身体をけいれんさせると、吸血鬼は動きを止め、足先、指先から砂となって崩れだす。アルフレートは全てが床に落ちるまで、ただその様を見つめていた。
 全てに動きが無くなり一息つくと、アルフレートは脇腹のナイフを抜き取り、傷口を手で押さえた。後ろから息を呑む音が聞こえる。
「神父さ、ま……?」
 娘が視界に入るギリギリまで首を回すと、娘はその場に気を失ってくずおれた。どうしたのかと手を差しのべようとして、ナイフを持った手と傷を押さえた手が、血に染まっているのが目に入る。
「汚い」
「美味しそうよ」
 扉のあった場所に、いつの間にかルーナが立っていた。
「どうして……」
 アルフレートが思わずそうつぶやくと、ルーナはチロッと舌を出す。
「心配だったのよ、私の食べ物がなくなっちゃう」
 ルーナはすぐ側まで来てアルフレートが手にしているナイフを取り、弾丸が残っている肩口めがけて突き立てた。痛みに顔が歪んだが、声を立てずに耐える。
「でも、これはいただけないわね」
 そう言ってルーナがナイフを慎重に抜き取ると、銀でできた潰れた弾丸が、刃先に付いてきた。ルーナの手から離れたナイフが、床で冷たい音を立てる。アルフレートは知らず知らずのうちに、その弾丸を凝視していた。
「もう使えないわよ」
 どこか寂しげな笑みを浮かべ、ルーナはアルフレートの肩から溢れ出る血を舐め取った。


 気を失っている娘を教会に運んだ。
 アルフレートは身体を洗い、すっかり神父の格好に戻った。講堂に入ったドアの音で、娘が気を取り戻す。アルフレートは、今初めて娘を見つけたような顔をして、上体をゆっくり起こした娘の側に立った。
「あなたは。どうしてここに? 大丈夫ですか?」
 娘はしっかりとうなずく。
「神父様、生きていらっしゃったんですね。よかった」
「なんのことです?」
 アルフレートは訳が分からないといったように取り繕いながら、もしも娘がしっかり覚えていたら、どうしようもないのだと覚悟を決める。
「だって、撃たれたり刺されたりで、血だらけだったから……」
「私がですか?」
 娘は立ち上がると、アルフレートの首をのぞき込む。
「確かここにもひどい傷が……、無いわ?」
「あなたは今、私が留守の間にここに運ばれていたのですよ? きっと夢を見たのでしょう」
「そうかもしれません」
 娘がそう思い込んでくれそうで、アルフレートの気持ちが落ち着いてくる。
「でしたら、あれはどなただったのでしょう。神父様にとても似ていらしたのは……、神様だったからかも」
 村長の娘は期待をいっぱいにした目で、アルフレートを見つめた。アルフレートは苦笑を返す。
「そんなことより、早くご家族の所へ。みなさん心配なさってますよ」
「はい。ありがとうございました」
 娘は丁寧にお辞儀をすると、講堂を出て行った。アルフレートは心からホッとして後ろ姿を見送る。
「よかったわね」
 奥のドアから入ってきたルーナが、冷たい声を立てた。
「でも、死ねなかった」
 ルーナも死にたいのかもしれないと言った吸血鬼の声を思い出し、アルフレートはそう口にした。今は、死ねなかったことよりも、ルーナがどんな反応を返してくるかが重要だった。見つめたアルフレートの目に、眉を寄せたルーナが映る。
「あなたが無事だったから、あの子が助かったのよ? 嬉しかったんでしょう? 今幸せだと思わないで、いつ思うの?」
 想像もしていなかった言葉に、何を言い出したのかと、アルフレートはルーナをぼうぜんと見つめた。
「昔のことでしか幸せを感じられないなんて、もったいないと思わない? あの時は幸せだった。それで今はどこが幸せ?」
 ルーナは今を幸せと思えというのだ。それはむしろ、神父としてアルフレート自身が説かなければならないことかもしれなかった。
「そうか。そうだな」
 ルーナはアルフレートに前向きな感情を持って欲しいのだと想像がつく。それは死を考えていないという証拠のようなものだ。苦笑したアルフレートに、ルーナはさらに不機嫌な顔をした。
「だけど、そんなのが幸せだなんて、ちょっと癪だわ」
 ツンと顔を背けると、ルーナは柱の陰に入って姿を消した。


 翌日。日の入り際に目がうつろな男が講堂へとやってきた。アルフレートを見つけると、駆け寄り、すがるように腕をつかむ。
「覚悟をしてきました。どうか神の裁きを」
 鍵をかけるのを忘れていたのだ。時間がかかるとまずいと思い、アルフレートは眉を寄せた。
「わしは狼人なのです」
 狼人と聞き、そんなことかとアルフレートは力の抜けた笑みを浮かべる。男が狼人でないのは一目瞭然なのだ。
「ライ麦パンはお食べになりますか?」
「食事時には、毎度食べておりますが」
「腹痛があるでしょう」
 言い当てられて驚いたのか、男は丸い目をし、下腹をさすった。
「はい。この辺りがどうにも痛くてたまらんのです」
「それは麦角菌で起こる中毒症状です。ただの幻覚ですから大丈夫、あなたは人間ですよ。一度薬師の所へ行かれたらいい」
 アルフレートの言葉に男の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうごぜぇます」
 男は何度も頭を下げ、扉に向かう。日が落ちた反対側の空に満月が顔を出したのだろう、身体に青白い光を感じる。アルフレートは笑顔のままで、男を追い出すように扉を閉めて鍵をかけた。
 間に合った安心感から窓の満月を見やると同時に、手の甲に毛が生え始め、震えと共に大きく膨れあがっていく。だが2度目の満月である今日は、1度目で受けた衝撃から、すでに信じられないほど心境が変化していた。
 この身体になって最初に満月を見た時から、嫌悪感に囚われ、自身の存在すら厭わしくなった。神父である自分と狼人である自分が一つの意識に共存できるはずがない、そう思ってからは、消えてしまいたいとだけ考えていた。
 だが。もつれて抜け道の無かった気持ちは、ルーナとのやりとりを通して少しずつほどけていたのだ。そして、人間でいた頃と同じように幸せを感じろと言われたことで、変わらずに神父のままの自分でいていいのだと許された気がした。
 どこからか現れたルーナが、アルフレートを後ろから掻き抱いた。
「地下へ行きましょう。お願い。私のために生きて。生きていて」
 そのままの体制で、ドアから講堂の裏側に転がり込む。それでもうっすらと漏れてくる月の光に狼人化が少しずつ進んでくる。
「ルーナ」
 アルフレートは肩まで使って背中を押しているルーナを振り返った。どうしても今、これだけは伝えておきたい。
「ねぇ、早く」
「君がいてくれて、幸せだと思ってる」
 驚きに見開かれた目に、アルフレートは微笑んだ。ルーナは嬉しそうに緩みかけた顔を伏せると、再び背中を押し始める。
「何言ってるの。早く地下に、行かないと。行か、なきゃ……」
 その言葉の最後の方は、涙声になっていた。
 ルーナは食糧の確保ができたから嬉しかっただけかも知れない。もしそうだとしても、ルーナに必要とされている間は存在していていいのだと、アルフレートは素直に思えた。


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