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B-03  星の河をわたる風

 風乗りは自分の家族を持たない。いつ命を落とすか知れない風乗りは、家族を持つと決断すれば男も女も風乗りを引退して、地を這う人に戻るのが普通だ。50年ほど前に亡くなった人類最初の風乗り「偉大なるミオ」はまた、最初に地を這う人に戻った風乗りでもある。
 ここに偉大なるミオと同じ名を持つ風乗りの娘がいる。偉大なるミオと区別するため、彼女は風乗り仲間から「エンジのミオ」と呼ばれていた。彼女が乗る滑空艇の色や、飛行中にかぶる髪どめの帽子の色が、エンジ色だからだ。
 名前が同じだからというわけでもないが、エンジのミオも多くの風乗りたちと同じく、偉大なるミオの考えを受け継いでいた。それは風乗りになる前からだし、風乗りになって恋人と結婚の約束を交わした今でも、何の疑問も持たなかった。半年前まではそれが絶対だと思っていた。
 瞬間は、前触れもなく訪れた。

 その日の朝一番、ミオに大口の荷運びの注文が入った。新しい織り方で仕上げた布を、品評会に出すために運ぶ仕事だ。軽い布は燃料がかからず運びやすいため、割のよい仕事とされる。しかも、この仕事の報酬は3分の1が事前に手渡された。
 ミオはすぐに風乗りたちが集まる酒場「吹き溜まり」に向かい、店に入るやいなや明るい声を響かせた。
「ヨモギ茶を、ここにいるみんなに」
 店にいた風乗りたちは一斉にミオを見る。昼食の仕込みをしていたらしい「吹き溜まり」の女主人が、あわてて顔を上げて言った。
「ミオ、さては良い風をつかんだわね」
 笑いかける女主人にミオも笑顔で答える。
「それと霜葡萄酒を1本、私が帰るまで取り置きをお願いね。みんなにも良い風が吹くように」
 風乗りたちは歓声を上げ、特に仲の良い何人かの風乗りがミオに拍手を贈った。
 それは「風招き」と呼ばれる風乗りたちの縁起担ぎだった。風媒花であるヨモギの茶は、良い風が吹くようにと風乗りたちが仕事前に好んで飲む茶である。それを仲間におごり、馴染みの酒場に葡萄酒の保管を頼む。仕事を終えて戻って来た時にこの葡萄酒の栓を抜き、無事を祝うのだ。
 割の良い仕事が入った時、風乗りたちはこうして仲間と喜びを分け合ってきた。
「霜葡萄酒の注文が入るなんて1年ぶりよ」
 女主人の声がいつになくはずむ。数ある葡萄酒の中でも霜葡萄酒は特に高価なものだ。女主人は地下の蔵から注意深く持ち出した霜葡萄酒の瓶にエンジ色の紐を丁寧に巻きつけた。紐はこの霜葡萄酒がエンジのミオのものであることを示す印である。
 仲間たちが口々にミオが仕事を終えて戻ってくる予定を訊ねてくる。霜葡萄酒の振る舞いにあずかろうという魂胆なのだろう。ミオは仲間たちに快く応じた。
「今日の夕方に発って明日の昼過ぎには向こうに着くようにしようかと思ってる」
「じゃあ、夜間飛行だな」
「そう、この様子だと夜は晴れるだろうから、きっと星がきれいに見えるはず」
 その場にいた風乗りの誰もが、自分の夜間飛行の記憶を脳裏から引き出して思い浮かべていた。
 頭上にはちりばめられた星が輝き、暗い大地では街の灯りが星々に負けない輝きを放つ。大空と大地の両方の星を従え、滑空艇は優雅に夜の中を飛んでいく。その時、風乗りの心は窮屈な体から解き放たれ、自由になる。その解放感を味わうため、風乗りたちは命を危険にさらしながらも風に乗ることをやめられない。
 想像の世界から我に返ったミオは違和感を覚えていた。いつもならこういう時に真っ先に話しかけてきそうな仲間のひとりがこの中にいない。
 見回すと、彼は人目を避けるように入り口近くのほの暗い席に身を沈めていた。深刻な考え事でもしているのだろうか。背を丸め、両手を固く握っている。
「シロウ」
 呼びかけに応じて彼は目を上げた。
 ミオは息を呑んだ。いつもならミオをからかって悪戯っぽく輝くシロウの目は、空になった水瓶を覗いたように虚ろでどんな感情も表していない。つむじ風が起こる前触れに似た胸のざわつきをミオは感じた。シロウらしくもない、何があったのだろう。
 さらに話しかけようとするよりも早く、ミオは馴染みの風乗り仲間に声をかけられる。
「結婚式まであと半年、エンジのミオの風招きもこれで最後になるかもな」
「相手は水瓶広場の滑空艇工房の息子だって?」
「とうとうミオも結婚か」
 仲間たちの祝いの言葉は、最初に頼んだヨモギ茶がぬるくなってしまうまで続いた。ミオが次に気がついた時には、シロウは店からいなくなっていた。

 依頼を受けたその日のうちに出発する予定が、遅れて翌日の未明になった。布の出来上がりが遅れたのだ。
 運ぶ荷が手元になければどんなに腕の良い風乗りでも出発できない――偉大なるミオ以来、風乗りと依頼主の間で繰り返されてきただろう言葉をミオも口にし、依頼主は決断を下した。
 期限は1日延長、が、最初の予定通り今日中に届けられたら1割増の特別報酬を払うという。荷を預かったミオはすぐに準備が整ったエンジ色の自分の滑空艇に飛び乗った。
 荷の届け先は、翠河という河の河口近くの大きな街だった。この地域の政治、経済、文化の中心となる街であり、また観光の街でもあった。特に街の中心を流れる翠河の船下りは街を訪れた者は必ず体験すると言っていいほど人々の心を惹きつけていた。
 滑空艇を飛ばしに飛ばしたことと、幸いに目的の街への順風をつかまえたミオは、日が傾き始めた頃には無事に荷を届け終え、特別報酬を手に入れていた。
 仕事を終えたミオの体には、気分転換だけではぬぐいきれない疲れが溜まりに溜まっていた。限界に近い速度で飛ばした滑空艇の点検も必要だ。この分だと無理をしてその日のうちに街を発つより、泊まるという選択肢の方があるいは賢いだろう。
 ミオは滑空艇の進む向きを変えることにした。翠河に沿って滑空艇を河口に進めようと決める。その方向には風乗りたちがよく泊まる宿がある。
 風向きと滑空艇の能力とミオの腕では、それは決して無理な方向転換ではなかった。しかし、向きを変えきらないうちに、滑空艇はミオの操縦を受け付けなくなった。その時、今まで静かだった気流が乱れており、気が緩んだミオはその予兆を感じ取ることができなかったのだ。
 気流の小さな渦は、滑空艇の方向を変えるための翼を狂わせていた。それに気づいたミオは素早く着陸の体勢をとる。着陸できる場所を探すミオが眼下に見たのは翠河の暗くよどんだ河面だった。
 悩んでいるゆとりはない。ミオは自分の自由になる翼を着陸するための角度に調整する。エンジンの力を推進力ではなく、落下の衝撃をやわらげるように操ると、滑空艇を河に着水させた。
 着水は思いのほか静かで、ミオの滑空艇が起こした波紋はすぐに河の流れにかき消されていった。
 ミオはとりあえず安堵のため息をつき、帽子をはずした。飛行服の襟を緩めて緊張を解くと操縦席から身を乗り出し、注意深く滑空艇の点検をし始める。
 翼の狂いは、部品を取り替えて調整すれば直りそうだった。替えの部品も当然、用意してある。しかし、暗くなり始めているこの時間に非常灯で照らしながらの修理は厄介だった。修理に必要な足場を確保するために河岸に滑空艇を寄せるとしても、ほとんど流れのない翠河ではそう簡単にはいかない。
 途方にくれかけたミオに声をかける者がいた。
「これはこれは、偉大なるミオの娘、エンジのミオじゃないか」
 腕の良い風乗りは、男は「偉大なるミオの息子」、女は「偉大なるミオの娘」と呼ばれる。エンジのミオは腕の良い風乗りではあったが、そこまで称されるほどとはいえない。それはミオ自身がよく分かっていた。
 声は上流方向から聞こえてきた。見れば船下りの船がミオの滑空艇に近づいてくる。船の上には見慣れた男がいた。唇に笑みを乗せて生き生きと悪戯っぽく輝く目、それは馴染みの酒場「吹き溜まり」でいつも見る表情だった。
 シロウはミオをみつけるとほぼ必ず「偉大なるミオの娘」とからかう。そして楽しそうに目を細めてミオの反応をうかがうのだ。思えばそのやり取りはミオが風乗りの仕事を始めた8年前からずっと繰り返されてきていた。シロウはミオより10歳ほど年上だったが、この時ばかりはミオはシロウを年上と思えなかった。そして、ミオもシロウもこのやり取りを楽しいひと時だと感じていた。
 かつては風乗りだった地を這う人、シロウの今の仕事が船に乗ることだとは、ミオも以前に聞いていた。この場所この時にシロウに会えたのはミオにとって嬉しい偶然だった。
「良かった、ちょうどいい時に会えた。助けてもらえませんか? 滑空艇が故障してしまって、修理に灯りがほしいんです」
「分かった。今、船を寄せる」
 シロウは自分の船をミオの滑空艇へと漕いでいく。ひとまたぎほどの距離まで近づくと、シロウは自分の船とミオの滑空艇を縄でつないだ。
「時間はあるのか」
 荷は運び終えていたが、体を早く休めたかったミオはこう答えた。
「それほどあるとは言えない」
 シロウがミオに向って手を差し出す。
「でも、一息入れるぐらいの時間はありそうだな。疲れただろう、こっちへ来て休むといい」
 差し出された手に体を預け、ミオはシロウの船へ渡った。
「もう少し下ると街の灯りが集まる明るい場所があるんだ。船着場よりはずっと手前の場所だ。そこで滑空艇の向きを変えて、この船を足場にして修理するといい」
 言い終えるが早いか、シロウがミオに皮の袋を手渡した。
「体が温まるぞ」
 中には葡萄酒がなみなみと入っている。口に含むとミオの体に炎が宿り、たちまち顔が火照った。酔いの回るのが思ったより早い。自覚している以上に疲労していたらしい。
 皮の袋を戻そうとすると、シロウは口に手を当て小刻みに肩を震わせていた。
「手元が狂わない程度にしておけよ」
 ミオの頬にますます紅が差した。

 昼間の太陽の下のように、とまではいかないがそれでも満月よりは充分に明るい。
 シロウの船を足場に、街の灯りに照らされながらミオは河上で滑空艇の翼の調整をしていた。既に部品は取り替えた。交換した部分がなめらかに動くようあらかじめ手で動かしておく「慣らし」の作業を繰り返す。
 それまで黙ってミオの手つきを見ていたシロウが、ミオの耳元でささやいた。
「昨日はすまなかった。せっかくの喜ばしい席で、祝福の言葉ひとつかけてやれなくて」
 シロウはすっと体を引くと、ミオの後ろに置いていた樽に腰掛けた。
「気持ち良く祝えるような気分じゃなかった」
 虚ろな響きのシロウの声に、ミオの胸がざわつく。それを打ち消そうとミオは話を変える。
「こちらこそ申し訳なかったわね、夕方から夜にかけてが船下りのいちばんの書入れ時だっていうのに特等席を占領してしまって。これじゃ商売上がったりなんじゃない?」
「いいんだよ、今日は仕事じゃないから」
 ミオが振り返ると、シロウは目を細め、笑顔とも泣き顔ともつかない穏やかな表情をしていた。
「今日は風乗り仲間の命日なんだ」
 去年のことだった。ミオもよく覚えている。
 誰もが「偉大なるミオの息子」と呼んでいた風乗りの青年が行方不明になり、やがて滑空艇の残骸だけがこの翠河の岸に打ち上げられた。
「あいつとは昔、よく組んだんだ。大きな荷物を一緒に運んだりしていた。あいつが死んだ時、俺は怖くなって風乗りをやめた」
 そう言えば、シロウが風乗りをやめたのはちょうどその頃だった。彼がすぐに食堂で働いていた給仕の娘と結婚したので、仲間内ではそれがシロウの風乗りをやめた理由だということに今まではなっていたのだが。
「変な話をして申し訳なかった。滑空艇の修理もそろそろ終わりだな」
 声もなくミオはただうなずいた。
「川下まで行くつもりだったんだろう、良かったらもう少し乗っていかないか」
 シロウは誰かと一緒にいたいのだろう、それは別にミオでなくても良いのかもしれない。それでもミオはもうしばらくシロウのそばにいようと思った。
「せっかくだからもう少し船下りを楽しませてもらってもいい?」
 二人を乗せた船はゆったりと流れる翠河を下っていく。
 滑空艇で飛んでいる時にいつも見下ろす街の灯りが、自分の目線より少し高い所で輝いている。それがミオにとって新鮮な驚きだった。
 河面にも灯りが映り、目に届く輝きが増す。
「河にも星が見える」
 思わずミオはつぶやいていた。着水の時に暗くよどんでいると嫌悪感すら抱いた夜の河面が今は違って見えた。
 暗い平面に散りばめられた街の灯り。その上を行く船下りは、夜に滑空艇を飛ばす時の空に包まれる感覚に似ている。
 風乗りをやめたシロウがこの仕事を選んだのが分かるような気がした。
「まるで夜間飛行みたいだろ」
 シロウはおそらくこの感覚をミオと分かち合いたかったのだろう。
「ミオ、右側を見てごらん、月かけの塔が見えてきた」
 それはこの街のシンボルとも言える、街の中ならどこにいても見える塔だった。この街を目的地とする滑空艇は、その塔をめがけて飛んでいくものだ。
「下から見る月かけの塔も悪くはないね」
 ミオの言葉にシロウが満足げにうなずく。
「風乗りはいい仕事だ。物の見え方がひとつではないということを本当に知っているのは、この世界でも風乗りだけなんじゃないかな」
 風乗りを捨てたかつての風乗りと、古くからの慣わしどおりにこれから風乗りをやめようとする風乗りの娘だからこそ共感できる気持ちだった。食堂の給仕の娘や工房の息子ではいくら言葉を尽くしても理解されることはないだろう。
 風乗りのエンジのミオが、月かけの塔をシロウといつまでもみつめている。
 ――このままでいい。
 風招きで店にあずけた霜葡萄酒のことも許婚のことも、ミオの記憶の淵に深く沈んでいく。
 ――ずっとこのままでいたい。
 そう言ったら、シロウはうなずいてくれる。そんな自分の思い込みすらも彼は見透かしているかもしれないとミオは思った。
 しかし、ミオは沈黙を守り続ける。それを口にしてはいけないのだ。言った途端に今、二人の間にある風乗り仲間の絆が壊れる。
 静寂を破ったのはシロウだった。
「これより河を下ると橋が多くなって滑空艇が飛び立てなくなる。そろそろ行ったほうがいい」
 うながされてミオは立ち上がる。
「あっ」
 急な重心の移動に船が揺らいだ。よろけるミオの腰にシロウの右腕が回され、左手がミオの背中から肩をかかえる。そのままシロウの胸にミオが抱きかかえられる形になった。
 顔を上げるミオと、シロウの視線がぶつかる。ミオはシロウが優しい微笑みを浮かべて自分をみつめていたことに気づいた。ミオの頬はさっと赤く染まった。その頬にかかるシロウの息遣いがふいに荒々しくなるのをミオは感じる。意識してしまうとますます頬が紅潮していく。
 ミオの肩を抱いていたシロウの左手が、ミオの右頬にそっと触れた。シロウの熱を帯びた指先がミオの頬から首筋をなぞり、肩を、腕を滑っていく。そして、シロウの左手がミオの右の手のひらを力強く包んだ。
 カチッと鋭い音が辺りに響いた。
 その音に咎められたように二人は体をぱっと離す。
 ミオの右手薬指の許婚がいる印の指輪と、シロウの左手薬指の妻がいることを示す指輪がぶつかって音を立てたのだ。
「もう少しだったのに。そうそう悪いことはできないな」
 心底悔しそうに言うと、シロウが声を出して笑った。ミオもそれに続いて大声で笑う。
 やがてシロウに見送られ、ミオは翠河に浮かんだ船から夜空へ飛び立っていった。

 ミオが届けた布は品評会で大好評を博し、機嫌の良くなった依頼主はそれからミオが風乗りを引退するまでの半年間、何度か仕事を依頼するようになった。
 ミオの結婚式は予定通りに行われた。エンジのミオは古くからの慣わしに従い、風乗りをやめ、水瓶広場の修理工房の女将となる。風乗りの気持ちが分かる女将がいる工房として、水瓶広場の修理工房は風乗りたちで賑わった。
 工房の女将となったミオは、それからはどんなに頼まれても滑空艇に乗ることはなかった。
 そんなミオが、時々、街の灯りを映す夜の河岸に立つことがあった。暗い河面に星を見て、ミオが昔を懐かしんでいるのだと気づくのは、彼女と同じ、かつての風乗りたちだけだった。


B-03  星の河をわたる風
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