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B-04  最後のブルース

「何が期待の星よ。何が新星よ。どうせ私なんて……」
「先生、飲みすぎですよ」
 背中をさすってあげている私を無視して、稀代の大型歌手は咳をしながら、場末のスナックで飲みふける。そんな姿を、ファンは見たくないだろう。だが今の彼女なら、きっとファンが見ても歌手とも気付かない。頼るものが酒と私しかないのなら、せめて金曜の夜ぐらいは飲んでも構わないだろう。
 彼女は私に頼っているなんて、これっぽっちも思っちゃいないけど。

 期待の新星は、その名も「星のブルース」でデビューした。
 戦後の薄暗い日本を照らすには、強い太陽でなく星の明かりがちょうど良かったのだ。しかも悲しさ漂うブルースがよく似合う。新人歌手、星野(ほしの)明生(あきお)。ブルースに似合わない男性的快活さも受けて、彼女は一世を風靡した……作曲家と離婚するまでは。

 仕事のなくなった彼女に私が紹介されたのは、何の因果だったのか。田舎から出てきて身寄りなく紹介状も持ってない私は、事務所でド派手な婆ちゃんに「歌ってごらん」と言われた。
 それから連れてこられて、丸3年。鳴かず飛ばずのまま、私は成人した。
 郷里に戻るあてもなく、成人式だって出られるはずなかった。

「違う、もっと腹筋で歌いなさい! 喉や肩には力を入れないっ」
「滑舌が悪いっ。発音練習一式開始、終わったら起こしに来なさい」
 さっさと寝室へ昼寝しに行く明生の背中を刺してやろうかと、何度思ったことか知れない。逃げてやろうかとも思ったことは、数えるまでもない。思ってない時がないくらいだから。
 早口言葉や、寿限無さん。寝ちゃうのなら聞いてないじゃんと思って、一度サボったことがある。発音練習は一式やると15分かかるので、15分たってから起こしに行った。「はい歌って」と言われて歌ったら、「発音練習してないでしょ!」とバレた。
 腐っても鯛とは、よく言ったものだ。

 そんな明生にも時々仕事はあって、地方へ出かけたり、公演やテレビ出演と今でも割とメシの種がある。時間的精神的不自由に耐えられるほどには金銭的自由があるので、我慢している昨今だ。弟子というより家政婦のような私だが、綺麗にだけはいさせてもらえる。
 付き人まがいの仕事もこなしているので、業界人の名刺ももらえているが、それが活用される日は来ない。

「ホール……?」
 明生はわなわなと震えながら、怒ったように「いつ? 主催はどこよ?」と電話を問い詰めている。相手はマネージャーなのだろう。あの人も根気強いなぁと思いながら私は洗濯物を干すべく、リビングを通過し……てから、はたと足を止めた。
 ホール?
「コンサートですか?!」
 思わず引き返してリビングに飛び込むと、明生は澄ました顔で受話器を置いていた。
「来年ですって、馬鹿にしてるわね」
 ふぅっと溜め息をついてソファに座る彼女が煙草を構えると、私は火をつけに近寄った。立て膝をついて火をつけた私に彼女が煙を吹きつけるのにも、悲しいかな、もう慣れた。
「穴埋めよ。本命歌手への予算が足りなかったから、私に声がかかったの。黒田は、そんなこと言わなかったけどね。主催を聞けば分かるわ」
 黒田マネージャーの苦労をしのびながら、私はがっかりした。
「じゃあ……」
 明生のことだ、断ったのだろう。
 でも返答は違った。
「最近ホールなんて歌ってないからね。久しぶりだし、いい運動になるから申し出を受けたわよ」
「え? 本当ですか? すごい!」
 私は素直に喜んで見せた。
 でもホールをこなすのって、ただの運動なんだろうか?

 明生の強がりは初めから分かっていたことだったけど、蓋を開けてみると「ホール」としか言われていなかった実情は、辛辣なものだった。地方の文化会館の第2ステージを使用してのコンサートだったのだ。全席が埋まっても、たった500人しか入らない。
 しかも持ち時間も1時間しかない。前座に無名のお笑い芸人が来て、引き伸ばす作戦らしい。
 明生の体調をおもんぱかってのことだと説明はあったが、目玉の『星のブルース』さえ歌ってくれたら、後はさっさと退場してちょうだいとでも言わんばかりである。他にも何曲か売れたし、持ち歌も全部あわせたら50はあるのに、それでも世間の記憶には残っていないのだ。冷たいものである。
 通信カラオケにだって、明生の曲は多くて3つしかない。

 でもコンサートはコンサートだ。満員御礼とは行かないけど、チケットも売れた。
 衣装に小道具、大道具。私は歌手への道に見切りをつけて、大道具係などになっても面白そうだと思ったりもした。照明さん、カメラに司会にディレクター。道は色々あるものだ。
 いよいよ本番を控えた明生が飲んだくれるのを見ていると、歌手にこだわらなくてもいいかな、と思えてくる。皆の手が届かないような高みで輝く星だった時代は、ほんの一瞬だ。地に落ちた星は、輝かない。
「あのね、」
 酔っ払いの明生が突然話しかけてきて、私はぎょっとして肩をすくめた。私がいることは認識していたらしい。突っ伏したまま明生は一回咳払いしてから、いつもの澄まし顔を見せた。
「今回、あんたの衣装も持ってきてあげたのよ。私が出るような舞台じゃなかったら、あんたを出すから発声練習しておきなさい」
「え……ええ?!」
 素っ頓狂な声を上げてしまってから、慌てて口に両手を当てる。
 驚きの後にじわじわと浮かんできた感情は、喜びでなく、怒りだった。
 今まで、ずっと明生が嫌いだった。威張り散らして無茶ばかり言う婆ぁの側を早く離れたいと思いながらも我慢してきたのは、いい服を着させてもらえるからだけじゃない。
 歌手としては、尊敬してたのだ。
「出ませんよ」
 私は酔っ払いに向かって水をぶっかけたい衝動を堪えつつ、堅く言い放った。
「あんたの舞台です」
“先生”でなく、あんた呼ばわりしたのは、もちろん初めてだ。さすがに明生も目を丸くした。水をぶっかけられるのは私の方かも知れないな……と思って覚悟して目を細めたが、明生は何かを言いかけて顔を歪め、口を閉ざしただけだった。
 それから、すぐに口が開いた。
「帰れ、この小娘!」
 私は無言で、さっさと帰った。

 本番当日のリハーサル時間を過ぎても現れない明生に、全員が騒然となる。そこで矢面に立つのは、付き人たる私だ。でも、どこに行ったと訊かれたって、私にも分からない。別れた時のスナックにも電話してみたが、捕まらない。まさか本当にボイコットするんじゃないだろうな、あの婆ぁ。
「とにかく司会と前座で、時間を稼ぐから」
 ディレクターが言い、私に明生を探してくるよう命じたが……こんな右も左も分からない地方で、携帯もつながらないのに、明生がどこにいるんだか分かるわけないでしょ!

 もうすぐ星野明生登場という時間になっても来ない彼女に、芸人さんのネタも尽きて、観客がザワつきはじめる。元々無名で笑えないネタなのだ、時間を稼ぐなんて無理だったのだ。
「ドレスがあった! 弟子なら『星のブルース』歌えるでしょ。これに着替えて、舞台に出て!」
 明生が持ってきたというドレスだ。今このタイミングで見つかるなんて。聞けば、舞台袖の下座に吊るしてあったらしい。明生は本当に、私に歌わせるつもりだったのだ。

 ディレクターに泣きつかれ、これも運命かと私は気合いを入れた。だが、いざ着替えて化粧も終えると、急に怖くなった。明生の穴を埋めるという役割の意味が、じわっと背中を撫でていったのだ。さっきの芸人より駄目かも知れない可能性に、気が付いたのだ。舞台経験なんて学生時代の文化祭がせいぜいで、ピンで歌ったこともない。
 無理。絶対、無理だ。
「……無理です」
「何?」
 舞台袖で蚊の泣くような声で訴えると、真っ暗なステージに感じる恐怖が最高潮に達した。もう少しで叫びそうだった。
 が、その前に、だしぬけに音が鳴って、私は声を上げずに済んだ。マイクを通した声が、ぴぃんと会場中を包んで響き渡っている。あああああと言っているだけの声が、誰よりも何よりも光って美しいと感じさせ、真っ暗な会場を静まり返らせた。
「?」
 目を凝らすと、舞台に誰か立っているのが見えた。明生だ。間違いない。
 そして暗いままのステージから低く、ゆっくりと声が歌を紡ぎはじめた。
 私は呆気に取られて、口を開けてしまった。
 歌われているのは、皆が知ってる『星のブルース』じゃなかったのだ。
 彼女にあてて作られた、誰も知らない最後のオリジナル歌だった。

 暗い中で艶やかな声だけ聞くと、まるで20代である。スポットライトも舞台背景もバックバンドすら必要ない、ただ「声」だけが存在する、それだけで満たされる力あるステージに、すべてを忘れて魅了される。
 私の中が、星野明生で埋め尽くされる。旋律が、私の中身をかき回す。私が明生に溶けていく。何度も聴いて歌って覚えこんだはずの歌が、真っ白に新しく心にねじ込んできて、体の邪気を押し流すような感覚を味わった。
「ライト! スポットだけを、ゆっくりと明るくするんだ!」
 ディレクターが金縛りから溶けて、慌てて指示を出す。指示通りにスイッチが動いて、舞台の明生が徐々に姿をあらわした。
 黒のイブニングドレスを身にまとった、神々しいばかりの星野明生が浮かび上がってくる。観客は突然始まった歌に拍手し損ない、今もスポットライトを浴びた明生に拍手できないでいた。まだ歌は続いているのだ。

 強く、悲しく、そして優しく。
 盛り上がるフィニッシュに、観客が立ち上がらんばかりの勢いで、食い入るように明生を見つめる。誰も、咳一つせず身動きせず、ひょっとしたら瞬きすらしていないかも知れない不動さで知らない曲に引き込まれる。
 私が見てきた明生は、誰だったのだろう。これが本当の彼女だったのだ。歌手魂が消えただなんて思ったのは間違いだった、どこまでも彼女は女王だったのだ。
 皆が彼女に惹かれた理由が、やっと分かった。
 サビの部分が終わって声が小さくなっていっても、ずうっと目が離せない。引き込まれるように私たちまで身を縮めて、小さくなっていく。明生と一緒に昇天していく。のぼっていく。ディミネンドの一番終わり、一番最後に星が一点だけ輝いていたかのように消えていく、明生の声。
 声がやんで静寂が訪れても、それでも息すら吐けない。
 終わった。
 誰かが思い出したように、ぱんぱんと手を叩いた。徐々に早く、大きく、拍手となっていく。一つ二つと拍手が増えていく。すぐに、ばあっと拍手の噴火が起こった。それでも星野明生は微動だにせず、お辞儀もしない。
「……?」
 拍手をしながら、皆で顔を見合わせて……私は、はっとした。

「先生?!」
「あ、おい?!」
 スタッフの制止も聞かず飛び出して、私は明生の目前に立った。私の背中で、観客の拍手が消えてきて、ざわつきに変わったのが分かった。
 私と目が合うはずの距離で、明生は私を見ない。直立不動のまま、マイクを握ったまま、歌い終わった顔のままで……星野明生は、こと切れていたのだ。倒れもせず絶妙なバランスのまま立ち続けている明生の意地に、ふと笑いたくなってしまった。笑みを漏らしそうになった歪んだ口元を引き締めたら、今度は、視界が歪んだ。
 いつから病んでいたのだろう。それとも急に訪れた結末なのだろうか?
 ずっと一緒にいたのに、明生の体調に気付かなかったなんて、家政婦失格だ。
「星野、明生さん」
 声を出したら、涙も出てきた。
 明生の頬に触れてみる。それでも明生は倒れない。どこまでも頑固だ。意地でも女王のまま、死にそうな中で歌いたかったのはデビュー曲でなく、誰も知らない最後の歌だったなんて。
 明生が、ぐらりと揺れた。
「先生! ……先生!」
 揺れた彼女にしがみついて、初めて抱きついて、私は声を上げて泣いた。

 コンサートは続行された。それが明生の遺言だったからだ。私では務まらないだろうが、任された以上は最後までやり遂げなければならない。どんなにお客が帰って行っても。
 でも半分ぐらいの人が帰ってからは、100人ほどしかいない場内に不思議な現象が起こった。まるで何千人も座っているかのような熱意と一体感が生まれたのである。本当のファンだけが残ったのだ。

 ディレクターに横抱きされて退場した彼女について、私は言葉少なに自分が弟子であることなどを話した。家政婦同然で明生が嫌いだったことまで全部しゃべったら、笑いが取れた。なぜかスッキリした。
「本当に嫌いだったんですよ?」
 おどけて見せる。けれど観客が私を見る目は優しい。
 息をついて微笑んでから、大事に、そっと付け加えて私は言った。
「でも、大好きだったことに……さっき気付きました」
 会場から、嗚咽が聞こえた。

 大型歌手の熱が残るステージで、『星のブルース』を歌う。彼女とファンの熱を借りて私も、少しだけスターになれた気がした。こんなに暖かい拍手は、生涯2度と味わえまい。こんなに素敵なドレスは、生涯2度と着れまい。これが私の成人式だ。
 会場内に漂う空気は混沌としていて、まるで宇宙のようである。そんな中で歌手ただ一人が光っているからこそ、歌手はスターと呼ばれるのだろう。
 ――肩の力は抜いて、お腹で歌うんだったね、先生。
 遠く険しい道を垣間見て、それでもその道に足を踏み入れたくなる引力を感じながら、私は最後のフレーズを歌いきった。


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