index  掲示板
Aブロック  Bブロック  Cブロック  Dブロック  Eブロック  Fブロック  Gブロック  Hブロック





B-08  空を見上げて

 とても愉快な気分で目覚めた。
 お腹を抱えて大笑いした後のような、腹の立つ相手をこてんぱんに言い負かした後のような。すっきりと爽快。なんとも清々しい気分だった。……はずだというのに。
「ゲホゲホゲホッ!」
 爽やかに目覚めたはずの私の口から飛び出てきたのは盛大な咳だった。連続十数回の咳を終えた私はすっかり疲労困憊してしまっていた。喉の奥が引きつれたように痛む。頭が痛い。身体が重い。全身がひどくだるかった。なんだこれは。風邪か。風邪なのか。自覚をした途端に一晩かけて消化したはずのものが胃を逆流してきた。両手で口を塞いで慌ててトイレに駆け込んだ。実際にはのろのろとした足取りであったのだけれど。


 散々な気分で始まった日というのは、散々な一日になるらしいと、どこか達観した思いが浮かぶ。自分の伝達ミスを棚上げして、難癖をつけてくる上司の言葉を右から左へと流している時点で、私にはすでに現状の改善を図る気力などなくなっていた。
「全く。誰のせいだと思っているんだか。女も三十路になると扱いづらくてかなわんよ」
 嫌みったらしい上司の言葉に、朝から続いている頭痛が酷くなった気がした。誰のせいだと思っている。こちらの台詞だった。私が反論しかけた時、媚びるような甘ったるい声が割って入ってきた。その瞬間に上司のしかつめ顔が見苦しいほど緩んだ。
「あのー。この見積書なんですけどー」
 加藤早苗。今年入社したての彼女は可愛らしい顔立ちと愛想の良さで男性社員の人気をがっちりと掴んでいると聞いていたが、この上司も例外ではなかったようだ。やに下がった目元も隠そうともしない上司はいそいそと彼女を傍まで呼んでから、私へと嫌味ったらしい視線を投げて寄こしてきた。
「まだいたのか。君はもう行っていいよ」
 加藤の視線が僅かに私へ向けられる。唇が笑みを形作る。その勝ち誇った顔に吐き気だけじゃなくて、もっとドロドロとした感情までも込み上げてきたけれど、私は微塵も態度には出すことなく彼女に笑みを返した。そんな安い挑発で腹を立てると思うな小娘。そんなことを思ってしまう惨めさに鼻の奥がツーンとした。


 夕方になると体調はますます悪化の一途を辿っていた。吐こうとしても朝からろくな物を食べていなかったせいで出てくるものと言ったら胃液ぐらいだった。無理をせずに休めばよかったのかもしれない。けれど休めはしない。
 個室から出ようとしたところで誰かが入ってきた。聞こえてきた声に私の手は止まった。加藤の声だった。
「もうホント笑っちゃうよね。いい年して仕事もろくに出来ないのよ。今朝も課長に怒られちゃってたし。あんまりかわいそうだったから助け舟出してあげたのに、へらへら笑っちゃって。顔も仕事もダメでおまけに三十路。カワイソウ」
 聞こえてきた楽しげな嘲笑に、鍵に触れていた手を下ろし強く拳を握り締めた。今すぐ出て行って得意げに笑っているだろう顔を殴ってやりたいと思った。けれど出来るわけがない。そんなことをしても更に惨め思いを味わうだけなのだ。
 加藤たちがトイレから出て行った後も、私は個室から出れなかった。最悪の体調だというのに、なんでこんな目に遭わないといけないのだろうか。彼らは私のことを三十路というが、私はまだ二十八歳だ。歳を多く重ねただけで、何故こうも見下されなくてはならないのか。涙が込み上げてきた。ぶつける事の出来ない怒りと、分かち合うことの出来ない惨めさが、一層に私を孤独にさせた。こんなにも苦しくて辛いのに誰も理解してくれない。優しさをくれない。私は唇を噛み締めて顔を上げた。涙など流してやるものかと思った。


 帰りのバスの中は妙に空いていた。いつもと変わらない時間とコースで帰っているはずなのに、いつもは満員に近いはずのバスの中には乗客は私一人しかいなかった。不思議に思いながらも、騒ぐ者のいない静かな車内は今の私にとっては救いだった。
 帰り間際に飲んだ風邪薬がようやく効いてきたのかもしれない。うつらうつらとしながら窓の外の景色を眺めていた時だった。景色を映していた窓に黒い影が差した。座席の横に誰かが立ったのだと僅かに遅れて気づいた。
 いつの間にか人が乗ってきていたらしい。ちらりと足元に目を向ける。ジーンズを履いた膝下から足先が見えた。靴はコンバースだった。学生だろうか。外が暗いせいで鏡のように車内を映し出している窓を使って隣に立つ人物を観察する。
 まず目を惹くのはブリーチしたかのような明るい金髪だった。髪は不思議なほど艶やかさを誇り、その長さは肩を越え胸の中ほどまで流れ落ちていた。前髪も長い。口元と顎の輪郭だけが唯一見える顔のパーツだった。
 着ている服装は髪以上に奇抜だった。蛍光オレンジの長袖シャツの下には星条旗柄のシャツが見えた。唯一まともだと思っていたジーンズの太ももの辺りには星型のアップリケが縫い付けられていた。派手というよりは奇抜。何という趣味の悪さだろう。
 私が座っている座席は出口の真横に位置しているから、この人物は次の停留所で降りるのだろうが見ているだけで眩暈がしそうだった。私は目を瞑る。横の人物は派手な外見に反して驚くほど存在感を感じられなかった。息をしているのかも怪しむほどの希薄な気配に安心しながら睡魔に身を委ねようとした私に「あの」と微かな声がかかった。
 目を開けた私は、続きのない言葉に気のせいだったかと目を瞑ろうとして、再び「あの」とかかった声に車内を見回した。バスの中にいるのは運転手を除いたら私と横に立つ人物しかいない。私は半信半疑な面持ちで上を仰いだ。
「私?」
 ほとんど見ることが出来ない顔が縦に振られて間違いないのだとわかる。痩せ型でひょろりと背が高い。年齢は不詳。つくづく変だ。そんな人物に声をかけられて嬉しいはずがなかったが、逃げ場がないのもまた事実。とりあえず私は先を促すように頷いた。
「あなたは幸せですか?」
 笑う以外に何が出来ただろう。この日のこの私に向かって「幸せか?」だなんて、よくぞ聞いたって感じだ。
「はい。幸せです。幸せ一杯で泣けるほどです。これ以上の幸せなど望んだりなんかしたら罰が当たってしまいます。そんな私ですから幸せのブレスレットもお札も壷も必要ありません。どうか他の人に幸せを分け与えて下さいね。では」
 畳み掛けるような口調で言うと窓の方へと顔を向けた。全く。厄日にも程がある。体調が良くなってきたと思ったら、今度は押し売りか。それとも宗教の勧誘なのか。どちらでも迷惑でしかないのだから大差はなかった。
「ゲホゲホゲホッ」
 わざとらしいほどの激しい咳が喉を突いて出た。決して狙ってやった訳ではない。興奮して一気に喋りすぎたせいらしい。何度も咳を繰り返す私に静かな声がかかった。
「風邪をひかれているのですね。ではこれを」
 言葉と共にオレンジ色のシャツが降って来る。肩にかかる自分ではない見知らぬ他人の温もり。普通なら気持ち悪いはずなのに、どういう訳か嫌悪感は湧いてこなかった。もう夜だというのに、シャツからは暖かな太陽の匂いがしたせいかもしれない。
「そうだ。飴は好きですか?」
 何も反応を返さない私に気を悪くした風もなく、かといって優しげでもない淡々とした調子で尋ねられ私は頷いた。
「シャツの胸ポケットに飴が入っているんです。よければどうぞ」
 言われた通りにポケットを探ればコーラ味の飴が出てきた。よく駄菓子屋で売っていた当たりつきの飴だった。口に放り込むと、しゅわっと炭酸が舌の上に広がった。咳のし過ぎた喉には刺激が強かったけれど、懐かしい味に不意に涙が零れてしまいそうになった。訳もなく泣きたくなった。子供のように声に出して泣きたかった。けれど泣けない。
「強情ですね」
 静かの中にも苛立ちを含んだ声が上から降って来てぎくりとする。誰の声だろうか。
「本当に強情な人だ。人間は素直が一番だというのに全く持って厄介です」
 声の主はもちろん一人しかいない。もともと怪しい人物ではあったのだ。しかしいきなり訳のわからない独り言を始めるに至っては、不審を通り越して危険人物だった。
「あなたは幸せですか。答えてくれなくて結構です。もちろん違いますね。泣きたいくらい不幸なはずだ」
 そう言うと、まるで一日中私に張り付いていたかのように私の散々な一日を言いあげてくる。私はハッとした。
「……あなたストーカーね!」
「違います」
 失礼なと後に続きそうな迷惑そうな口調で断言された。いつの間にか雰囲気はがらりと変わっていた。高飛車で偉そうな口調に聞き覚えがあるような気がするのはどういうことだろう。
「こうなったら思い出して貰った方が手っ取り早いですね」
 長い前髪が風もない浮き上がり両目が現れたはずだった。なのに目があるべき場所には金色に輝くおかしな物体が納まっていた。二次元の物体。五本の棘が上下左右に生えた物体の名前は――――。
「ヒトデ?」


『誰がヒトデだ!』
 夢の中に現れた奇妙な物体は私の一言に激怒した。見たまんまを言えと言われたから正直に言ってみたというのに酷い話だった。
『じゃあ、何なのよ?』
『もちろん“流れ星”に決まっているではないか。人間よ、愚かなり』
『愚かなのはあなたの方でしょ。流れ星は隕石なのよ。そんな金ぴかのトゲトゲのわけはないじゃない。馬鹿らしい』
『我の姿は見たものの想像によるもの。馬鹿は我ではない。自明の理である』
 つまり馬鹿はお前だと言いたい訳か、このヒトデめ。腹を立てる私を無視して、ヒトデは偉そうにのたまった。
『人間よ。願いを言え』
『は? 何でよ?』
『“流れ星”が願いを叶える。自明の理である。愚かなり』
『あーそうですか。じゃあクレオパトラのような美女にしてちょうだい』
『我はクレオパトラとやらを見たことがない。無理だ』
『じゃあ今すぐに一億円を出して』
『苦労もせずに手に入れた金は心を貧しくする物なり』
『はぁ? じゃあ、どんな願い事だったら叶えられるわけ!?』
『我が叶えるのは心の奥で本心から望む願いのみ。口先だけの望みなど知らぬ』
 素直に大きな願いなど叶えられないと言えばいいのに、人を馬鹿にした口調で偉そうなことばかり言って、このヒトデめ。
『お生憎様。私には叶えて欲しい願いなんて一つもないの。願い事も叶えられない“流れ星”って周りに笑われるといいわ。さよーなら』
 とどめに高笑いをして、私はヒトデに背を向けて歩き去った――――ところで目が覚めたらしい。


 あの愉快な気分はヒトデに啖呵きったせいだったのかと、今朝見た夢を思い出し、ヒトデ相手に大人気ない真似をしたものだと空しい気分になった。
「“流れ星”さんだっけ? で、あなたがなんでここにいるのよ。それで何でそんな姿をしているの?」
「我の姿は見る者の想像による産物。何度も同じ質問をする人間よ、愚かなり」
 ヒトデ姿だったから腹が立つのかと思っていたけれど、どんな姿でも腹が立つらしい。
 ここで私は、こんなに怪しすぎる会話をしている乗客に運転手が何も言わないのはおかしいとバスの前方に視線を向けて、あんぐりと口を開けた。見慣れた街並みを走っていたはずのバスの外には銀河があった。
「嘘!?」
 星々の瞬きがすぐそこにある。私は“流れ星”を振り返った。
「これもあなたがしていることなの!?」
「うむ」
 綺麗な場所だった。あちこちで星が生まれ、星が散り、また星が生まれる。その度に金色の欠片が四方に散っていた。あれが“流れ星”だ。小さな欠片たちが青い惑星に落下していくのを見つめて私が言うと“流れ星”は静かに頷いた。
「なぜ“流れ星”が願いを叶えるのか知っているか、人間よ」
「知らないわよ」
「己が無知であると認めることは勇気がいる。愚かだが勇気はあるようだ。――何故褒めているのに腹を立てるのだ? 我にはわからぬ」
「それで! 話の続きは!?」
「地上に落ちた“流れ星”は力を失うのだ。力を失えば空に帰れぬ。その為に人の願いを叶え力にする。力にして空に上がり、また地上へと落ちる」
「はぁ!? 馬鹿じゃない。せっかく空に上がったのに、なんでまた落ちてくるのよ」
「人の願いを叶える為だ」
 静かな声だった。力強い声だった。
「愚かな人間にはわからぬかもしれんがな。我らは人の願いを叶えるのが好きなのだ」
 奇抜な格好をして、偉そうな口調で何を言うのだろう。ああそういえば、姿形は私の想像の産物とか言っていたから、結局は私のせいなのか。ややこしい。
「私の願いは叶えてくれなかったじゃない」
 綺麗になりたい。お金が欲しい。切実に願っていたのだ。なのに叶えられなかった。
「我は本当の願いしか叶えられぬ」
「じゃあ、私を加藤早苗にして!」
「出来ぬよ」
 私は唇を噛み締める。本心からの願いを叶えると言いながら、私が口にする願いを全て却下する“流れ星”が恨めしくなった。それなら最初から願いなど聞いて欲しくなかった。
「何故、泣かぬ? 泣いたらいい。悔しかったのだろ。悲しかったのだろ。なら泣くのが人間の常だ。何故、泣かぬ?」
 私は噛み切るほどの強さで唇を噛み締める。
「言葉を呑み、思いを秘めて。それが何になる?」
 挑発するような言葉に、凶暴な感情が湧き上がってきた。何をわかるのだと叫びたくなった。容姿も人並みで仕事だって人並みにしか出来ない。自分が思っているほどには人には必要にされていないことだってわかっていた。けれど全てを放り出してしまったら、その場所だって失ってしまうのだ。それが恐くて仕方がない。愚かでも私には手放せない。
「何故、泣かぬ?」
「泣く必要なんてないからよ。何で私が泣かなければならないの!?」
「なら笑うがいい。笑えぬか?」
「笑えるわよっ!」
 怒鳴り返して笑おうとしたけど、うまく笑顔が作れなかった。笑うってどうやるんだっけ。唇の端を持ち上げて、口を大きく開けて、目を細めて。笑みの形に顔が歪むだけで笑えない。その事実に私は打ちひしがれる。
「泣けぬから、笑えぬのだ」
 気がつけば“流れ星”は“流れ星”の姿に戻っていた。ヒトデにしか見えない姿をしているのに、その姿は私の目には力強く映った。
「泣け。己を偽らずに泣くがいい。そうすれば自ずとまた笑えるようになる」
「泣くなんて……出来ないっ」
 強がりだと自分でもわかっていた。言っているそばから溢れてきた涙を、私は手の甲で拭うと顔を上げて強引に涙を堪える。
「本当に強情だ。だが、我は嫌いではない。――良いことを教えてやろう、人間よ。“流れ星”は落ちる先を選べるのだ。この惑星にどれほどの数の人がいるか愚かな人間でも知っているだろう? その中で我が選ぶのは唯一人。その一人に選ばれたこと、これ以上の幸運はないであろう? 誇るがよい」
 慰めてくれているのだと理解した。そうして気づく。私はただ優しくされたかったのだということに。ほんの少し誰かに優しい言葉をかけて欲しかった。突っ張って誰にも頼らずにいるのに疲れて、休める場所が欲しかった。甘やかして欲しかった。そんな些細な事が私の望みだったのだ。
 涙が溢れてきたけれど、もう我慢はしなかった。隠す必要なんて最初からなかったのだ。ここは私と“流れ星”しかいないのだから。
「シャツありがとう。飴おいしかった」
 泣いた分だけ素直になれた気がする。礼を言った私に“流れ星”が笑った。たぶん笑ったのだと思う。
「やっと笑ったな。それを待っていた」
 その言葉に、私の中から何かが溢れ出した。キラキラとした金色の光が飛び出して“流れ星”の中に吸い込まれていく。
「力だ。人間の笑顔が我らの力となる」
「今のが? 私の笑顔が力になったの?」
「自分の見た物も信じられないとは、人間よ愚かなり」
 直視するのが難しいほどの眩い光を放つ“流れ星”の姿に私は笑った。
「私のおかげでもうヒトデには見えなくなったじゃない。良かったわね」
「我の姿は――」
「私の想像の産物でしょ。知ってるわよ」
 ヒトデではなく星に見えるようなったのは、私の心が変化したからに他ならない。それは“流れ星”にも伝わったようだ。
「ではな」
 きっともう会う事はないだろう。だけどさよならは言わない。現実離れしたこの出会いを永遠に終わらせないために、さよならは言わない。窓をすり抜けて“流れ星”が宇宙へと飛んでいく。やがて他の“流れ星”に混じって見えなくなるまでずっと私はその姿を目で追った。


「――――車庫。次は終点……」
 バスのアナウンスの声に私は目を覚ました。いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。車内には私一人。怪しい服装の乗客の姿は影も形もなくなっていた。肩にかけられていたオレンジ色のシャツもなくなっている。全ては夢だったのだろうか。わからない。けれど夢ではなかったような気もする。私は窓の外に広がる夜空を見上げた。数多の星が輝いているあの中にきっと“流れ星”はいるのだ。
 私はこれから、泣く為ではなく笑う為に空を仰ぐだろう。偉そうで口煩い、そうして優しかった“流れ星”に笑顔が届くようにと願って、空を仰ぎ続けるだろう。
「見えてる? ねぇ、“流れ星”」


B-08  空を見上げて
Aブロック  Bブロック  Cブロック  Dブロック  Eブロック  Fブロック  Gブロック  Hブロック
index  掲示板




inserted by FC2 system