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B-09 指先に星
オレンジ色の電車がゆっくりとホームに入ってきた。
それを待つ通勤通学客でホームはほぼ満員。電車の中にもぎっしり人が詰まっているのが見えて、春菜は顔をしかめた。
ドアが開くのと同時に、押し込まれるように電車に乗り込むのと同時に人波に押され、気がつけばいつの間にか電車の中程にいた。これでは降りるのに困るだろう。そう思いながら辺りを見回した時、
「おはよう」
聞きなれた声に見降ろすとそこに、窮屈そうに座る友人の仁美がいた。
「おはよう」
自分では元気一杯笑顔で応えたつもりだったが、仁美は春菜の顔を見るなり、咎めるような口調で言った。
「寝不足? すごいよ、目の下」
「だって……昨夜は宇宙望遠鏡の特番だったのよ」
うっとりと、美しい深宇宙の映像を思い浮かべる春菜に、仁美は、
「深夜のでしょ? そんな色気のない……」
と、苦笑した。
けれどもその時にはもう、春菜の視線は人混みの向こうに釘付けになっていた。心臓の鼓動が大きくなる。実は今日春菜がこの電車に乗ったのも、彼に会えるのかも知れないという淡い期待があったからだった。
最初に彼を見かけたのも、三日前の同じ車両だった。ポールにもたれて本を読む姿がとても優しげで、伏し目がちの長いまつげに、なんて綺麗な顔をした子なんだろうと暫し見とれてしまった。
そして今日、期待通りに彼に会えた。その嬉しさから春菜は、親友が目の前にいるのにもかかわらず、ついつい彼と友人達の会話に耳を傾けてしまうのだ。
彼の朗々とした声は、とりとめない無駄話を価値ある話に変える魔法のようだった。
「……それでその子の名前、わかったのか?」
彼と一緒にいる太めの友人が背の高い友人に言った。
「声かけるだけでも相当勇気いるってのに、名前なんてどうやって聞くんだよ」
本当に困ったというように、その友人がため息をつく。
その時、彼がぽつんと言った。
「アルファケンタウリって知ってる?」
それを聞いて驚いたのは春菜だった。まさか彼の口から、大好きな星の名前が出るなど思いもしなかったからだ。春菜は高鳴る胸を押さえながらじっと耳を傾けた。
「おまえのことだから、どうせ星かなんかだろ?」
太めの友人が言うと、彼は目を伏せる。
「うん。地球から一番近いって言われてる恒星」
そう言って彼は背の高い友人に笑いかけた。
「小さな星にも一つ一つ名前があるんだ。それは人間が付けた名前で、本当の名前なんて誰にも判らない。でも名前を付けることで、それは他の星と区別される」
「で、何が言いたい?」
「……つまり、名前はそれだけ重要ってこと」
少し照れながら、彼が笑った。
「二学期も終わるっていうのにクラスの奴半分も覚えられないお前に言われたくない」
太めの友人がそう突っ込むと、ばつが悪そうにまた笑った。
春菜の頭の中は彼の言葉でいっぱいになっていた。
たしかに名前は重要だ。名前を知らなければ、呼び止めることも出来ない。彼の名前を知りたい。春菜は心底思い、彼等の会話の中に彼の名前が出ないものかと耳を傾け続けた。
「どうしたの?」
先程からあさっての方を向いたままの春菜に仁美が声を掛けたが、春菜は視線を彼から離せない。仕方なく他のことを考え始めようとした仁美に、
「ねえ、あの制服って、どこだろう」
春菜が聞いた。
「え? どこよ」
仁美は少し腰を浮かせ、春菜の指さす方向に目をこらした。が、立っている乗客が壁になって、仁美からは見えない。
「見えないなぁ。その子が降りる時に教えて」
「うん」
するとすぐに電車が停まり、人が動いた。
「……あ、今降りた」
「どこどこ、どの子?」
振り向いて彼を捜す仁美に、となりのサラリーマンが迷惑そうな視線を向ける。
駅のホームには同じ制服を着た男の子が沢山いて、春菜は正確に彼を指さしたが、仁美には判らないようだった。しかしその制服には見覚えがあったらしい。
「ああ、あれ蒼明学院だよ」
と、春菜に教えた
蒼明学院といえば、有名私立男子校。そういうことには疎い春菜でも、その名には覚えがある。
「いいよなぁ。あそこ大学もエスカレーター式だから受験なんてないんだよね。うらやましいよねぇ」
苦笑していた仁美がいきなり、「あ」と、声を上げた。
「もしかして、気になる人でもいた?」
「そんなんじゃないよ。ただちょっと、か、っこいいかな……って」
戸惑いつつ言葉にだしてみた春菜は恥ずかしさに首をすくめた。本当は澄んだ冬の空に一際輝くシリウスのようだと思ったのだ。彼を思うだけで頬は上気し、鼓動は激しさを増した。流行のアイドルに心ときめかせたことはあったが、この気持ちは間違いなくそれ以上だ。
「星しか興味がなかった春菜がねぇ。ま、蒼明の子ならいろいろ貢いでくれそう」
少しからかいを含んだ仁美の言葉に、春菜は顔をしかめてみせた。思わず首をすくめた後、仁美は何かを思い出したように悪戯っぽく笑って春菜を引っ張った。
「春菜。いいことを教えてあげる」
「なに?」
不機嫌に答えると、仁美は笑ったまま囁いた。
「おまじない。好きな人とお近づきになれるって」
どきん、とした。
「そ、そんなのあるの!?」
「あるある。会うたびにね、スケジュール帳にシール貼るの。それが七つ溜まったら、告白のチャンスなの」
「こ、告、白、なんて」
目の前がチカチカと点滅したように感じた。告白なんて、考えてもいなかった。
「だってさ、あんたが星以外のことで興味を示すなんて今まで無かったことだもん。応援したいんだよね」
仁美がそう言ってくれたことが、春菜はとても嬉しかった。
「ありがと、仁美ちゃん」
家に帰ると、春菜は机の引き出しからシールを取り出した。文房具屋で一目惚れして買ったのだが、もったいなくて使えずにいたものだ。
キラキラ光る色とりどりの星が貼り付いたシートから小さな黄色の星を選び、スケジュール帳に貼った。おまじないを信じた訳ではないが、少しでも話す機会が出来るならという淡い気持ちがそうさせたのだった。
次の日も同じ車両に乗ると、彼は同じ場所で文庫本を読んでいた。何を読んでいるのだろうかと思って、そっと背伸びして人の間から覗くと、自分もよく行く本屋のカバーがかかっていた。そんな些細な共通点だったが、少しだけ彼に近づいたようで嬉しかった。学校に着いて真っ先にスケジュール帳に青い星のシールを貼った。オレンジと黄緑色のボールペンで書かれた予定の中で、それは燦然と輝いていた。
次の日も朝の電車で見かけた。今日は友達と一緒。楽しそうに笑う彼の笑顔にふさわしい、シルバーのシールを貼った。
その翌日は夕方の電車だ。部活の帰りだろう。大きな荷物。疲れた様子が少し気にかかる。家にたどりつくとすぐに、彼の疲れが癒えるよう願いをこめて緑の星を貼った。
次の日は会えなかった。昨日の疲れた様子を思い出し、春菜は心配になった。もしかして風邪でもひいたのだろうか。それとも……。
そんな彼女の顔を見て、仁美はにまにまと笑いながら彼女の席に近寄ってきた。
「どしたの? あ、もしかして今朝彼に会えなかったから?」
「うん」
「そっかぁ。でもコレ聞いたら元気になるよ。新情報。彼の名前、わかったよ」
「ホント!?」
「うん。実は今朝一緒の電車だったの。その時友達にね、マコトって呼ばれてた」
「マコト……君」
それを聞いて思わずシールを貼りたくなった春菜だったが、会ってもいないのにそれは出来ない。春菜は悔しかった。
「何時の電車?」
「七時四十五分かな? 今日ちょっと遅めだったんだ」
自分よりも一本遅い電車だ。寝坊でもしたのだろうか。でも、元気に学校に行ったのだと分かって、春菜は少しほっとした。
放課後、仁美と電車に乗って次の駅、彼ことマコト君は友人達と話をしながら電車に乗り込んできた。
「よかったね、春菜。彼、いるよ」
「うん」
春菜は膝の上にスケジュール帳を出すと、シールを貼った。今日は赤い星。春菜はそれを蠍座の心臓アンタレスのようだと思った。
友人達と談笑するマコト君の横顔を見つつ、明日も会えるだろうかと思っていると、
「携帯貸して」
突然仁美が春菜の手元から携帯を奪い、さりげなく彼等の方に近づいていった。
「ほら。写真」
戻ってきた仁美から携帯電話を受け取りながら、春菜はその行動力にビックリしたが、それよりも仁美の心遣いが嬉しかった。
携帯の画面で、彼の横顔が小さく笑っていた。
次の日も電車で見かけた。今度は紫色の星を貼った。
シールが増えるたび嬉しさが増す。同時にどんどん欲張りになっていく。姿を見るだけで良かったのに、ここ最近は寝ても覚めてもマコト君のことばかり考えている。
マコトってどんな字を書くのだろう。趣味は? 部活は? 好きな音楽は?
きっと星は好きなのだろう。でなければアルファケンタウリなんて、会話の中にぽんと出てくるわけがない。
けれどもこんなに彼のことを考えていても、彼は春菜のことを全く知らない。
知って欲しい。話がしたい。でもどうやって言葉を届けたらいいのかわからない。
すぐ近くに見えるのに、はるかに遠い。まるで星のような存在の彼。
仁美が撮ってくれた横顔は、楽しそうに笑っているだけでこちらを見てはくれない。
春菜は、携帯を充電器に置くと、窓を開けた。冷たい空気が部屋の中に流れ込んできて、春菜は身震いした。
ふと見上げると、空には小さな星がたくさん瞬いていた。
今日は空気が澄んでいるようだ。
「明日も会えるかな」
そう呟いたその時、あの言葉が頭をよぎった。
「小さな星にも一つ一つ名前があるんだ。
でも、それは人間が付けた名前であって、本当の名前なんて誰にも判らないんだ」
「名前……かぁ」
呟く言葉が白く濁り、のぼりながら消えていった。
春菜は思う。この満天の星一つ一つに、地球人が付けたのではない本当の名前があるのだろうか。
だとしたら自分にも坂井春菜ではない、命そのものの名前があるのかもしれない。
春菜はシールの上を指でなぞった。
シールは六つ。あと一つ。
おまじないがチャンスを作ってくれる。その可能性を信じようと春菜は思った。
次の日。
緊張しながら乗った電車だったが、いつもの場所に彼の姿はなかった。
教室でスケジュール帳を眺めていると、
「後一つだね」
と、覗き込みながら仁美が笑った。
「うん、ありがとうね。仁美ちゃん」
嬉しそうな春菜の笑顔を見ながら、仁美も嬉しくなった。
実はあのおまじないは、仁美が思いつきでついた嘘だった。春菜は背中を押さないと絶対に動かないタイプ。男の子関係は尚更である。その嘘が、願わくば本当になりますように。親友の幸福を願って止まない仁美だった。
そしてその帰り道。
春菜はいつものように改札をとおり抜け、ホームの屋根の向こうに広がる空を見上げた。さっきまであんなにも輝いていた西の空は既に色あせ、替わりに小さな星が一粒。
やがて電車がやってきて、目の前で止まった。彼は乗ってくるだろうか。そう思いつつ電車に乗ると、反対側の入り口付近に立った。
窓越しに空の色が徐々に変わっていく。ガラスに映る自分の顔が、心配そうに自らの顔を覗き込んでいる。
そんな顔しないで。彼はきっと乗ってくるよ。
と、自分に言い聞かせていると、次の駅に着いた。すると彼が春菜のすぐ後ろのドアから乗ってきて、いつもの位置でポールにもたれて本を取り出した。
春菜は慌ててすぐ側で空いていた席に座ると、いそいそと鞄の中からスケジュール帳を取り出した。
そして、緊張で震える手で台紙からシールを剥がして貼るとすぐ閉めた。
これで声を掛けても大丈夫。きっとうまく話せる。
気持ちを静めるために春菜はもう一度スケジュール帳をそっと開いて、ぎょっとした。
七つ貼ったはずのシールが、一枚ない。彼の笑顔を思い浮かべながら貼ったシルバーの星だ。仁美と見た時は間違いなくあった。どうして、何故、が、頭の中を駆けめぐる。
慌てる春菜の膝から、派手な音をたててスケジュール帳が落ちた。中に挟んであったシールやプリクラ、友達に貰ったメモが無惨に床に散らばった。
周りの視線を感じながら、春菜は顔を真っ赤にして床のものをかき集め始めた。彼に見られた。こんなみっともない所を……。春菜はそれらを無造作に鞄に突っ込み、ばつが悪そうに席に座った。
その時、それまで本を読んでいた彼がこちらに歩み寄ってきた。
どくん……春菜の心臓が跳ねた。思わず体を硬くする。
彼は春菜の目の前で少し屈み、白く長い指でそれを拾うと春菜に差し出した。
「はい」
スケジュール帳から落ちた細いペンだった。座席の影になって、見落としていた。
「あ……、ありがとうございます。マコト君」
咄嗟に出てしまった言葉に春菜は更にぎょっとした。いつも心の中で呼んでいた彼の名前を、まさか本人の前で言ってしまうとは。どうしよう。変な女だと思われたら……。春菜はドキドキしながら反応を伺った。しかし彼は、
「どういたしまして」
と、笑うだけだった。
知らない女の子から名前を呼ばれたにもかかわらず、彼は笑っている。
春菜は思わずぽかんと彼の顔を見つめてしまった。
スケジュール帳の星は、一つなくなってしまった。おまじないは不完全なはずなのに、もしかして、少しは効いてるってことだろうか?
だったらこれはチャンスかも知れない。
春菜は、頭の中で何度もシミュレーションしていた台詞を思い切って言ってみた。
「あ、あの、私、坂井春菜って言います。よかったら今度一緒にプラネタリウム行きませんか!?」
言ったとたん、かあっと顔が熱くなった。彼が怪訝そうな顔をしているのが分かる。
いくらなんでも唐突すぎた。彼の口から大好きな星の名前が出たからといって、しゃべったこともない女の子からの誘いに、いきなり乗ってくる訳がないのに。
「いいよ」
耳に届いた短い一言を理解するのに、数秒かかってしまった。頭の中で何度かそれを反芻して、
「……え?」
思わず間の抜けた反応をしてしまった。見上げた彼の顔は優しく微笑んでいる。
信じられなかった。徐々に、嬉しさがこみ上げてきた。
彼は星が好きなはずだ。なら星の話をすればきっと仲良くなれるに違いない。そう考えてプラネタリウムに誘う事を考えついたのだけれど、まさかOKしてくれるなんて。
恥ずかしさに彼の顔をじっと見ることが出来なくなった春菜が彼から視線をそらそうとした時だった。
「ちょっとごめん。何か付いてる」
そう言って少し屈むと、彼は春菜の髪に手を伸ばした。憧れ続けた彼の手が自分の髪に触れている。それだけで卒倒しそうな春菜だったが、彼が見せてくれたそれを見て、思わず涙ぐんでしまった。
「なんだろう……シール、かな?」
その指先に、輝く星。
end
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