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C-02  流れ星との待ち合わせ

「あ、流れ星」
 ナギは空を見て、呟いた。しまったと、そう思ったときにはもう流れ星は消えていた。
 咄嗟に願いを三回も言うだなんて、無理に決まっているではないか。季節はずれの流れ星を見られたなんて、それはうれしいことのはずなのに、なんだか胸がムカムカしてきた。正々堂々現れて、それでナギの口が回らなかったのならば仕方あるまい。けれど、不意打ちなんて卑怯じゃないか。
 自分勝手な文句を頭の中でだだ流し、ナギは星の落ちた夜空を睨み上げた。
「明日も流れ星が見られますように。明日も流れ星が見られますように。明日も流れ星が見られますように」
 とっくに流れ星は消えている。しかし可憐な乙女が、こんなにも健気な願いを唱えているのである。星の神様もほだされて、思わずルールを忘れて特例で、ナギの願いを叶えてしまうかもしれない。
「なーんちゃって」
 声に出して呟きながら、それでも明日この時間、また空を見上げてみようかとナギは思った。


 降矢は、新米の星落しである。
 星落しの仕事は、いらなくなった星屑を夜空に捨てること。
 忙しいのは年に二回ほどの大掃除の時くらいで、普段は星屑を一つも落とさない夜だってままあるのだ。出勤をサボっても、滅多なことでは気付かれない。
 例えば、天空職の花形である陽運びをやっている同級生の話を聞いたりすると、降矢はぞっとするのである。まず、陽運びは時間には正確でなければならない。それに太陽は下界から見ると小さく見えるが実際はとんでもなく大きいため、持ち運びするだけで、数人掛かりの重労働である。そして責任重大でもある。働かなければ、やれ日照り不足だとどやされ、やりすぎると、やれお前のせいで旱魃だと、関係各所から叱られるらしい。じっさい、そんな匙加減一つで下界の何億もの民の生活に影響を与えてしまうものだから、その同級生はほとんどノイローゼ状態になっていた。
 その点、星落しの仕事は、仕事が厳しいわけでもなく、重い責任があるわけでもない。
 気が向いた時に、ひょいと星屑を落とすだけである。降矢がちゃんと捨てないと、空は星屑に埋もれてしまう、なんて上司は言う。だけどこの無限に広がる天空を、小さな星屑で埋め尽くすなんて、それこそ気の遠くなるような話である。
 降矢が星屑を落としても、落とさなくても、別段誰が困るわけでもないし、誰に怒られるわけでもない。給料は少ないが、お気楽でラクチンな職業であった。
 そんな緩みきった社会人生活を送っている降矢であったが、実はここ一ヶ月、非常に規則正しく真面目に仕事に励んでいた。太陽が沈むよりも早く持ち場に着き、じっと下界に目を凝らす。
 出勤の早い、金星灯しの人よりも降矢は早くにやってくるし、最近は早出の、空塗りの茜さんにもかち合ってしまう。夕方、空を真っ赤に染める仕事をしている茜さんは、赤毛のロングヘアーの、とびきり美人のお姉さんである。
 今日も茜さんは、暗くなってきた青空のキャンパスいっぱいに、大きな刷毛で赤い染料を塗っていた。何度も何度も重ね塗りを繰り返す。空色が一塗りで群青色に深まって、やがて紫暗色を経て、最後は燃えるような茜色に染まっていく。茜さんの空塗りは目を瞠るほど鮮やかで、茜さんの染める夕焼けには、降矢もうっとりしてしまう。美人な上に、仕事も出来る。茜さんはそんな、雲の上の存在であったから――もっとも天空職についている時点で、降矢だって雲の上にはいるのだが――、新米の星落しに過ぎない降矢が話しかけられるはずもなく、いつも見ているだけである。
「あなた、星落しの新人さんよね」
 しかし今日に限っては、なんと茜さんの方から降矢に話しかけてきたのである。
「は、はい!」
 夕焼けと同じ、鮮やかで自信たっぷりの声である。降矢は緊張してしまい、ガチガチに背筋を伸ばして固まってしまった。
「固いなぁ、マジメ君な星落しなんて初めて見たわ。あたしたちは芸術家なんだから、もうちょい余裕を持たないと、良いものできないよ」
 芸術家……、茜さんならピッタリだ。茜さんの染める夕焼けは、まさに芸術である。
 降矢は芸術家ではない。ただ毎日、いらない星屑を下界に落とす、しがない掃除屋に過ぎないのである。
「これ、染料なんだけど、月追いの影人ってヤツに渡してくれないかな?」
 茜さんは、真っ赤な夕焼けの染料の入った、銀色のバケツを降矢に手渡した。影人のことは知っている、同じ『夜』の仕事仲間だ。仲が悪いわけではないのだが、影人はせっかちな上に時々とんでもないことをやらかしたりするので、のんびり屋でことなかれ主義者の降矢は少し苦手としている。
「わかりました、影人さんに渡せばいいんですね」
 影人が出て来る前に、こっそり月の傍に置いておこう。
「あの、茜さんの夕焼けは、すっごいです。圧倒されて、赤い色に吸い込まれてしまうような気がします。本当に、芸術、って感じがします」
 降矢の言葉に、茜さんは驚いたように目を瞠る。茜さんはちょっと得意そうに目を細め、真っ赤な夕焼けに目をやった。降矢に目を戻すと、ありがとねー、と綺麗な顔で子供のように嬉しそうに笑いかけてくれた。
「あたしは派手好きだからさ、空を真っ赤に染める空塗りに憧れてたの。最近は結構、自分でも満足いく夕焼けを染められるようになってきたのよ。でも新人君、ヒトゴトみたいに言ってちゃダメだぞ、天空職の仕事はみんな芸術なんだから。十月にさ、獅子座の大掃除をしてたでしょう。その時の空はすごかった、まるで空が降ってくるみたいで、どきどきしちゃった。あんな芸術を作れる仕事なんて、そうそうないよ。新人君も、自分の仕事にもっと誇りを持つよーに」
 年に二回の大掃除、まさか茜さんが見ていたなんて思いもしなかった。星屑にまみれてぼろぼろになりながらの作業だというのに、そんな風に見られているだなんて、なんだか妙に気恥ずかしい。
 でも降矢は、茜さんのように、大きな空いっぱいを染め上げたいわけではないのである。大掃除の星屑の一斉投棄でどきどきしてもらうのは、それは確かに降矢の一番働くときではあるものの、ちょっと違うのだ。
「ちゃんと、影人さんに渡しますから」
 茜さんが、まっすぐ降矢を見つめている。銀色のバケツを持ち上げて、降矢は照れ笑いでごまかした。

 星飼いの人たちを回って、いらなくなった星屑を回収しているうちに、空はすっかり暗くなっていた。季節はずれということもあり、今日は実入りが悪かった。わざわざ取りに来るなんて、またずいぶん仕事熱心だな。そんな風にからかわれてしまう始末である。
 茜さんの夕焼けも、すっかり夜に掻き消えてしまっている。燃えるように真っ赤な、あんなに美しい夕焼けを、夜空は惜しげもなく消してしまう。
 降矢は小さな星屑を、ぽいと下界に投げ入れた。一瞬尾を引き輝いて、あっという間に夜闇に溶ける。天空の営みは繰り返される永遠のようで、同時に切ないほどに儚い、取り戻し得ぬ一瞬一瞬の積み重ねであったりするのである。
 星屑の回収に、今日はずいぶん手間取ってしまった。降矢が月を探すと、既に影人がそこにいた。両手に刷毛を持って腕を組み、太い眉毛が不機嫌そうにアルファベットのヴィーの字になっている。こっそりバケツを置いて逃げる計画は、完全に失敗である。
「影人さん、これ、茜さんに頼まれて……」
 降矢が話しかけると、影人は怪訝そうに、もともと繋がりかけた眉根をさらに寄せてみせた。なにせ影人から絡んでくることがあっても、降矢から話しかけた試しは一度もないのである。不審に思われても仕方がない。だが降矢がもっている銀色のバケツを認めると、影人は一気に相好を崩した。
「茜のヤツ、絶対忘れてやがると思ってた。預かってくれたんだ、サンキューな」
 影人が茜さんを呼び捨てにしたことに、降矢はカチンとした。降矢なんて、心の中でさえ茜さんは『さん』付けだというのに。ちなみに影人は、口にしてこそ一応『さん』をつけてやってはいるが、心の中では呼び捨てである。
「おまえ星落しだろ、ヒマだよな? 世話掛けついでにさ、ちょっと手伝ってくんない」
 カチンカチン。カチンが増えた。確かにヒマではあるが、他人に言われると腹が立つ。
「……なにをですか」
「月を、真っ赤に塗りたいんだ。な、手伝ってくれよ」
 降矢はぶっきらぼうに応えたが、影人はなにも気にならないようだった。あけすけに笑って、降矢に刷毛を一本差し出した。

「月を赤くして、どうするんですか?」
 降矢は月の裏側に赤い染料を塗りながら、影人に訊ねた。影人は滑らかできらきら輝く月の表側を、鼻唄交じりに楽しそうに塗っている。降矢の塗っている月の裏側は、ボコボコしていて刷毛がなかなか滑らない。そもそも誰も見ない側なのだから、塗らなくたっていいと思う。そう思うと、何もかもが嫌がらせのような気がしてくるから不思議である。もっとも影人は、そもそも何も考えてすらいないに違いない。
「茜の夕焼けってよ、綺麗だけど、見てると時々ぞっとするときがあるんだよな。それで、思ったんだ。もし夕焼け色の月が追っかけてきたら……怖いと思わないか?」
 影人は月追いである。月を追いかけるのではない、月を引きずって下界の誰かを追いかける。影人の仕事は、月を意識した下界の誰かを、一晩夜が明けるまで離れることなく追いかけ続けることである。だから、憑追い、なんて字を充てられることもある。逃げられないよう、勤務中は気を抜けるような暇はない。目を付けた相手によっては、例えば相手が必死に逃げようなどとした場合、体力的にもなかなかハードな仕事である。何せ月を引っ張るというハンデを背負って、鬼ごっこの鬼をやり続けなければならないのである。今日は十五夜だから、月が大きく、一ヶ月の中でも月追いの仕事が一番大変な日のはずである。
 しかしその忙しさは忙しさとして、降矢は月追いの仕事の意義を、どうしても未だに理解できない。
 降矢の星落しも、胸を張れるほどに役に立つ仕事はしていないが、それでも星屑を落とすことは、天空の掃除という最低限の意味がある。しかし、月が下界の誰かを追い回すことに、一体どんな意味があるというのだろう。
「影人さん、僕たちの仕事って、どういう意味があるんでしょうね。夜になると消えてしまう夕焼けを描いたり、月が人を追いかけたり、小さな星屑を夜空に捨てたり」
 婉曲に、影人の仕事について訊ねたかっただけだった。
「それがない天空なんて想像がつかないけれど、ないならないでどうにでもなりそうな気がするんです。そんなことを考えると、時々、どうしようもなく切なくなります」
 だが言葉にしているうちに、不意に思いが言葉に纏まり一緒に口についてしまった。
 天空職は皆空の営みの歯車になっていて、それぞれが必ずどこかで違う歯車に繋がっている。けれども、その歯車を一つ抜いてみたところで、空の営みはきっと何も変わらない。そう思うと、なんだか虚しい。
 影人なんかに弱音を吐いてしまって、情けないのと恥ずかしいのが入り混じった最低の気持ちで、降矢は月の裏側を塗っていた。
「あー」
 あー、と。月の表側からまるで意味のなさそうな声が届いた。
「懐かしいな、俺も悩んだことがある。まぁ、とある日の仕事だったんだけど、俺はなぜあの酔っ払いのおっさんを追い掛けているのだろう、ってな。家まで送ってやれるわけじゃない、事故に遭わないよう注意してやれるわけじゃない。ただ追い掛けて、どっか行けと喚かれてもじっと我慢して、そのうち道端で寝ちゃうのを見届けてやるだけなんだ。無意味だし、切ないだろう」
 降矢は、月の裏側の小山の凹凸を丹念に塗っていた。影人も黙ってしまって、色塗りに没頭してしまったようである。それきり口を噤んでしまった。
「それで影人さんは、月を赤く塗ろうと思ったんですか?」
「いや、ただ怖がってくれると楽しいだろう。ぎゃー、なんてな」
 返ってきたのは、いたずらっ子の、わんぱく坊主みたいな台詞である。
 だが降矢は、ほんの少し引っ掛かりを感じた。仕事の切ない気持ちをごまかすために、意味のないいたずらを重ねるなんて、それはなんだか余計に切ない。
「今日は、誰を追っかけるんです?」
 降矢の質問に、影人はまた沈黙してしまった。
「……いつかの酔っ払いのおっさんだよ」
 返事は忘れた頃に返ってきた。
「今夜は新人時代のリベンジだ。絶対に寝かせねえ、家まで帰らす」
 月の裏側で、降矢は声を立てずに笑ってしまった。月は塗りあがり、不気味に真っ赤に輝いていた。

 真っ赤に輝く、星屑にしてはおおきな石ころ。降矢が持っているのは、月の欠片だ。
 月の色塗りを手伝った礼にと、影人は月にのみを入れて、降矢に欠片をくれたのだ。降矢はもちろん断った。わざと月を削った欠片、そんなのは星屑ではない。

――どうせ月削りが昼間の内に削っちまうんだ、一緒だよ。

 満月は、今夜限りだ。今日から、夜が明けると月削りが、毎日少しずつ削っていく。一週間を掛けて半月にしてしまい、半月を掛けて跡形もなく消してしまう。
 影人の言う通り、降矢がほんの一欠片をくすねたところで、見つかることはないのである。わかっていても、生真面目というか、気の小さい降矢としては、どうしても気後れしてしまう。

――おまえ、仮にも星落しだろう。いらないなんて言うんじゃねえよ。

 今度はほとんど脅しのように、影人は降矢に、月の欠片を押し付けてくる。月の欠片の星屑を夜空に落とすと、美しい銀の尾を普通の星屑よりずっと長くたなびかせる。

――知ってんだぜ。もうすぐだよな、時間。おまえこの頃、毎日同じ場所、同じ時間に星を落としているだろう。それも、ずいぶん楽しそうに。

 降矢は、ひったくるように影人から月の欠片を奪い取った。影人はじっと降矢を見つめ、意地悪な笑みを浮かべている。
 まさか影人が見ていたなんて。降矢はぷいと、踵を返して持ち場に向かった。
 影人に言われないと、遅れてしまうところであった。そう、もうすぐいつもの時間である。
 

 いつもの時間の三十分前、今日も彼女はベランダに姿を現した。
「うわぁ、大きな真っ赤な満月。きれー!」
 彼女の第一声はそれだった。酔っ払いを追い立てるための、低い不気味な赤い満月。影人の恐怖の最高傑作。しかし彼女の大きな瞳のファインダーを通してしまえば、それも『きれー』になってしまう。
 彼女はどんな世界を見ているのだろう。きっと暗い夜闇はきらきらしていて、瞬く星々は全てが太陽のように眩しく光り輝いているに違いない。
 欄干を背に座り込み、彼女は膝を抱えて空を見上げる。いつものように、彼女の視線はまっすぐ空の一点に定まっている。
 降矢は、彼女と見つめ合っていた。彼女は降矢の存在を知らないだろう。それでも彼女は、恋人を待ちわびるようなうきうきとした顔で、確かにじっと降矢のいる場所を見上げている。そして降矢も、影人曰く『ずいぶん楽しそうに』、彼女のことを見下ろしている。毎日毎日、決まった時間に、決まった場所に、言葉も交わさず逢っている。
 三十分は、あっという間に経ってしまった。彼女は立ち上がり、欄干にもたれて片肘を掛け、空いた右手を降矢に向けて伸ばしてきた。
 降矢は思わず、頬を熱くしてしまう。降りて来てと、彼女に手を差し伸べられたように錯覚した。
 いつものように、できるだけ燃え尽きるのが遅くなるようゆっくりと、降矢は夜空に星屑を投げ入れた。
 月の欠片の星屑は、眩くきらきらと銀色の長い尾を引いて、暗い夜空を流れていく。
「明日も流れ星が見られますように明日も流れ星が見られますように明日も流れ星が見られますように! うあ、うそ、言えた!」
 毎日繰り返された、彼女の願い。一息でお経のように言い終わったとほとんど同時に、降矢の落とした流れ星は掻き消えた。
 三度唱えられる願い事、彼女が最後まで言えたのは、今夜が初めてである。だが間に合っていなくても、降矢は毎夜彼女の願いを叶えている。
 降矢は少し考えて、集めた星屑をまとめて夜空に投げ入れた。花火のように流れ星が飛び散って、一瞬空の一角だけが明るくなった。
 ちょっとした職権乱用だ、見た人はびっくりするだろう、あとで怒られてしまうかもしれない。
「うわぁ、もしかして聞こえたのかな。きれぇ……」
 うっとりと幸せそうに、彼女は無邪気に、降矢に向けて微笑んだ。

 明日も星屑を落としてあげる。貴女の笑顔をもらう代わりに、どんな願いも叶えてあげる。

 だらしない顔になっているのを自覚しながら、降矢もにっこり笑い返した。


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