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C-05  かくして塔は放棄される

 先生、先生、と横田がやってきた。
 横田は柴犬のような顔立ちをしている。私は彼の顔を見るたびに、昔飼っていた平八を思い出すのだった。おまけに横田の方も、何の運命か平八という名前であるというのだから、これはいよいよ何かしらの縁を感じる。ここは一つ、あごでもかいてやろうかと思っていたところ、人間の平八は、半紙を私の前に持ち出してきた。
「僕が発明しました」
「“これ”は何と読むのかね」
「まさしく“これ”と読むのですよ」
 横田は、半紙にでかでかと書かれた文字を指した。奇怪な文字だ。「た」をさかさまにし、そこに「ね」や「ぬ」の香り付けをして、「の」のなまめかしさと「ま」のやぼったさを加えたような文字だった。実に奇怪だ。これまで目にしたことがない。私は万年筆を置くと、時間がたって少し乾いたまんじゅうを食いながら、尋ねた。
「これはひらがなかね」
「さあ」横田は頭をかいた。「どうでしょうか。自分にも分かりかねます」
「どういう意味かね」
「さあ」横田は頭を抱えた。「なんでしょうか。自分にも分かりかねます」
 横田は、自分でもよく分からないものを発明したそうなのである。私は「それは不可ないよ、君」と言った。
「言葉というのは、意味が後からおっつくもんじゃあないんだから。でたらめを書いたものが文字になるなら、ほうれ、私の落書きだって、どうだね、充分文字になるだろう」
 私は原稿用紙の裏に描いた落書きを、横田の鼻面へつきつけてやった。
「狸ですか」
「猫だ」
 咳払い、咳払い。
「兎に角もね、文字なんか発明したところで、用途がなければ仕様がないんだから」
 横田は書生らしくしゅんとした。私はこれで話は終わったと思って、また書卓に向き直った。教師という仕事は、教えるだけでなく、話したり聞いたり書いたり考えたり集めたり研究したり書生の相手をしたりと、一人で何役もこなさなければならぬ。そう言うと、いつも千代は「あなた、それはどのお仕事でも一緒ですよ」と笑うのだった。
 仕事に取りかかり始めると、横田は再び半紙を私の目の前に差し込んだ。
「“これ”は、そうですね、『青磁色の山高帽』などでいかがでしょう」
「意味のことを言っているのかい」
「まさに、まさに。『ありえないもの』という意味にも用います」
 青磁色の山高帽など、私はこれまでの生涯で目にしたことがない。突飛なことを言い出す男だ。横田の頭は、暦よりも一足はやく春めいているのかもしれなかった。
 私が乗り気でないのを見て取ったのか、横田は私を説得にかかったようである。
「先生、思い出してみてください。『カンパニー』の邦語は、かの福地大先生によって定められたのであります」
「『会社』かね」
「まさしく! ねえ、先生。僕にも新しい言葉を作っていけないわけがありますか」
 横田の無邪気な言い分に、私は呆れた気分になった。
「君、莫迦を言え。『カンパニー』というものが元々あちらに存在したから、『会社』という言葉ができたのではないか。『青磁色の山高帽』は存在しないのだから、言葉ができるわけがなかろうに」
「ところが先生、僕は仕立て屋に顔がききましてね。どうでしょう、『青磁色の山高帽』を注文してみたらいかがです。そしたらこの文字も浮かばれるじゃありませんか」
「言葉が先にあって、物が後にあるなんて、そんな道理が通るものかね」
「少なくとも、いけないと決めた人はおりませんよ。先生、僕はやりますよ」
「そこまで言うなら、好きにしなさい。でもひとに迷惑をかけちゃいけないよ」
 私は横田の浮かれた背中を見送った。






 果たして、一月のちに『青磁色の山高帽』が私の家に届いた。
 薪割りをしているところだった横田は、それは大喜びで斧を放り出したという話で、あとで千代にこっぴどく叱られたそうである。私が書斎から疲弊しきってのそのそ這い出すころには、書生は鏡の前で、帽子を幾度もかぶりなおしていた。
 奇妙な帽子だ。実に奇怪だ。草のような色をした帽子が、ひとの頭に乗っているところを、私は見たことがない。よもぎを頭に貼ったって、ああはいかない。おまけに犬のような横田の頭に乗っていると、更に妙だ。今になってみると、あの半紙に書かれた文字が、私の言葉にしえない感想を、最も表しているようにも思えるのだった。
 しばらくすると、千代と女中のお清まで一緒になって帽子に興じ始めた。千代は度々ひとから褒められる自慢の妻であるのだが、いささか新しいものに目がないという欠点がある。女のくせに学問などもやる。私が眉をひそめても、千代は私の顔色を窺ったことすらない。奇妙な女だ。
 横田は今や、あの奇怪な文字を壁に貼り出して、一説ぶっているようだ。その前に正座した千代とお清が、横田の大いなる演説に聴き入っていた。夕飯もそっちのけである。
「あなた、これは便利ですわ。この文字が『青磁色の山高帽』だなんて、横田さんは国語の才能がおありね」と、千代。
「あたしゃあ、『セイジイロノヤマタカボウ』なんていう文字は書けんけど、こンなら覚えられそうだ」と、お清。
「僕は将来、先生のようなナショナル・ラングエッジの専門家になるのであります」と、横田。
 横田は球を持ち帰ってきた犬のごとく、大得意であるようだった。
 私は里芋の煮物に手をつけながら、膳の横で本を開いた。いつもなら行儀が悪いとやいやい言う千代も、横田の奇天烈な帽子に夢中で、私には目もくれなかった。したがって、私は心置きなく箸を片手に、読書にいそしむことができるのだった。
 それは帝大で国文学を教えている知り合いの男が、面白いからと押しつけてきた雑誌である。なんでも、英国に留学をしてきた英文学者の書いたものだそうだが、なるほど、面白い。英語かぶれの書く国語は好かないが、この話は実に素直でよい。異国の新しい言葉や、発明した言葉を偉ぶって使っていないところがよい。
 読書にいそしんでいると、横田が新しい半紙を沢山手にやってきた。横田は、私と膳の間に、半紙を無遠慮に差し込んだ。犬の方の平八も、よく大声で鳴きわめいては私の食事を中断しにかかったものだ。
「どうです、先生。また新しく考えてみたのですが」
「どうもこうも、意味が分からなくっちゃね」
「いいえ、今度ははじめからちゃんと意味がございますよ」横田は嬉しそうだった。「こちらは『鼻緒の切れた下駄』という文字です」
 「田」の上のふたを欠損させ、周囲の囲いから情けない毛を生やしたような文字であった。確かに言われてみると、鼻緒の切れた下駄の哀惜のようなものが感ぜられる。横田は次々に新たな文字を見せながら、誇らしそうに語った。
「岡倉大先生や、三宅大先生が、国語統一に尽力しているのは先生だってご存知でしょう。でもね先生、僕は統一だけじゃいかんと思うのです。維新より三十八年。我が国は文明開化の真っ只中にあります。これからの時代、未知の出来事があまた登場するでありましょう。すると既存の言葉じゃ追いつかないところが沢山ある」
 私は里芋をぱくぱくと食べた。
「二葉亭先生が言文一致体を提案されたように、やはりここは、新たなる言葉の発明が必要なのではないかと、僕は思うのであります。よりはやく、より正確に、鴎外先生の言う『情報』とやらを伝達するためには、こうした簡潔な文字が必要なのです」
 横田によって、この家は新たなる維新の拠点となったようであった。






 横田は妙な男である。
 郷里の山口に住む親は相当な金持ちであるのに、このような貧乏学者の家に書生として住みつく、俗事に無頓着で、気持ちのよい快活な男である。
 私は時折、彼の親に金を無心することがあった。というのも、以前横田が病気をしたときに、私と千代で献身的な看病をしたことがあり、そのときの恩だかで、横田の親は「何でも申し付けること」を私に催促してくるのだった。子も妙だが、親も妙である。
 したがって、私は時折少量の金を無心していた。これは実に恥ずかしい気持ちもあるもので、いつも切り出すのがためらわれる。しかし実に有難いことであるのは、言うまでもないのであった。
 横田が文字を発明しだすやいなや、家中におかしな記号があふれかえり始めた。ある時私は、縁側で紙に足を滑らせた。憤慨して横田を呼ぶと、書生は悪びれる様子もなく、犬のような顔で説明した。
「先生、それは『滑りやすいため注意』という文字でありますよ」
 横田の説明を耳にし、私が縁側でひっくり返っているのを見て、千代は大笑いをした。千代の手にも折りたたんだ半紙があって、私は苦虫を三年分ほど噛みつぶした気分になる。千代が考えたのは『我が家のぬかは御国一』という文字だった。私は莫迦莫迦しくなって、そんなものを文字にしてどうなると怒鳴って、その日は一日、外をうろついた。
 またあるとき、横田は私の書斎にやってきた。今度は、日常にもよく使われそうな文字を発明したというのである。ずっと無関心を決め込むつもりでいた私も、これには少し興味をそそられて、横田の話を聞いてみることにした。横田は「お」と「さ」を合わせたような文字を見せた。
「これは『ここで寝ると、寒いので風邪をひく』という文字です」
「では、その隣の文字はなんだ」
「この丸は金銭を意味します。丸の中に星型の記号を書きますと、『私はこれからお前に金を無心しようと思うのだが、どうだ』となるわけです」
「よく分からないが、便利なものだな。これを見せれば、相手も了解して金を貸してくれるというわけだな。丸の中央に星型。ふむ」
「そうです。そうです」
 横田は私が相手になってくれたことが嬉しいようだった。嬉しいとすぐに顔にでるところも、犬の平八そっくりである。横田は尻尾を振りながら、新たな紙を私に見せた。
「これは『宝石のように美しい星空』という意味です」
「もし『宝石のように麗しい星空』ならばどうなる」
「そうですね、ここに、曲線を書き足してみましょう。ああ、これでよろしい。じゃあ先生、こちらも見てくださいよ。こちらのは『唾液を飲み下したときに出るため息』という文字でありますが……」
 横田はそれから、いくつかの文字を次々に見せた。どれも説明をされると、それなりに雰囲気を理解できるものである。そうして、次にその文字を見るときには、以前に説明された意味が頭の中にひらめくのだった。するともうその文字は、横田の言う「宝石のように麗しい星空」だとか「花粉がよく飛ぶ杉の木」だとかいう意味その通りの形をしているとしか思えなくなってしまって、頭の中にどっかり居座り始めるのである。
「しかしね、君」
 千代が蕎麦を持ってきたとき、私はようやく横田の話の腰を折った。私は蕎麦をひっぱりながら言う。
「この落書きみたいな文字が、本当に星空の美しさを表しているとは、やっぱり私には思えんね」
「それでは先生は、『宝石のように美しい星空』という言葉が星空の美しさを表しているとお思いになりますか」
「思ってはいない。しかし『宝石のように美しい星空』は少なくとも、回りくどく、複合的なもので、想像の余地がある。だが、これはどうかな。分かりやすすぎるではないか。一度見て、それで終わりではないか。想像がない」
 横田も蕎麦をひっぱって、それを口の中に流し込む。私は麺を呑んだ。
「言葉は、通じすぎてはいかん」
 私の言うことに、横田はどうにも納得がいかないようだった。彼は私を説得するために、国語学者の堀江何某が、国語を統一することは目下の急務であるということを論じたことや、藩制度による御国言葉の弊害などといった具体的な仔細を説いて聞かせた。そして横田は、今こそ新たなる総合的で分かりやすい国語が必要なのだと言った。横田が必死に論じているあいだ、私は必死に蕎麦を食った。
 蕎麦がなくなって、ようやく横田の熱も下火になったころ、私は茶を飲みながら言った。
「バベルだよ君」
 横田は私が何を言いたいのか、全く承知していない顔をしていた。
「バベルとは、塔のことでありますか」
「そうだバビロンの塔だ」
 横田は分からない態で、目をぱしゃぱしゃとさせた。よって私は、横田のために説明をした。
「古代メソポタミアでは、全ての人間は互いに言葉を通じあわせていたのだ。そのために、意思を疎通させて何事も協力することができた」
「そして神に近づくために、天へと向かう塔を造り始めたのでしょう。知っています。でもそれからあとは、ずっと昔に読んだんで、もう忘れちまいました。でもたしか、神が怒って、塔を破壊してしまったのでしたね」
 私は茶請けに手を伸ばしながら、首を横に振った。
「君、もっと注意して本を読みたまえよ。ヤハウェは塔を破壊しなかった。塔は破壊されなかったよ」
「それでは人間に鉄槌を下したのですか。もしや雷を落としたとか?」
「いいや」私は羊羹をかじった。「人々の言葉を、互いに通じなくさせたのだ」
 横田はぼうっとした顔をした。これは、犬の平八が、私の言葉を分からなかったときの顔によく似ている。もっと分かりやすく命令してくれという顔である。
「ヤハウェは人々をあらゆるところに散らし、互いの言葉を通じなくさせた。もう言葉が通じないために、人々は協力することもかなわなかった。かくして町も塔も放棄された。よって、その町を乱れ(バベル)と呼ぶ」
「つまり、言葉が人の成す大業の成功を決めたということですか」
「大業が良いものである場合ならよかったろうが、バビロンの者たちは思い上がりすぎたのだ。通じないのも困りものだが、通じすぎるのも困りものだ。君、言葉を統一したり、分かりやすくするというのは、そういうことだ。君の言う、岡田何某だとか堀江何某が、統一統一言っているようだけどね、私たちはいつの時代であっても、あるところまで辿りつくと、塔を放棄せねばならなくなるのだと思うのだよ」
 私は自分が妙に偉い教師になったような心持がして、口ひげをなでたりひっぱったりした。そして少しうわついた気分で、のこりの羊羹を片付けた。横田を見ると、私の言葉が身にしみたのか、たたかれた犬のようにうなだれている。
「なるほど、先生のおっしゃること、承知いたしました」
 私は満足して仕事に戻った。






 その夜、私は千代に「ちょっと」と呼び出された。
 ひんやりとした廊下で、帳面を片手に、千代はどうにも苦しいと言い始めた。
「月二十三円じゃあ、どうにもなりません。あなた先月、東北までおいでになったから、六円もかかってしまったじゃないですか。それに、外国の本を買いすぎですよ」
「いいかな、千代。教養というのはだね、それ相応の代価を払わねば得ることができないときが、ままある。それが今、金銭という分かりやすい形で、我々の眼前に表出したに過ぎない」
「まあ理屈ばっかり。あなた、なんですか、また『リベラル・アート』ですか? いいえ、いいえ、もう沢山。口先だけはうまいこと言って、言葉の得意なひとって遠回りがお好きでいけない。そのまま遠くに回って、ロシアにでも行ってらっしゃいよ。黒溝台でクロパトキンだかいう大将さんと、教養だとかいうものを好きなだけ話し合えば宜しいです」
「なんだい君。国語ができるとかで、横田を褒めくさってたじゃないか」
「あれこれと難しい言葉を使って人をけむに巻こうとするあなたより、はっきりした言葉を使う横田さんの方が、よっぽどましですよ。あなたはお偉いんだから、私が言いたいことだって、お分かりになるでしょう」
「千代は不良になった」
「千代はもとより不良です。不良ですから、もう一度今月の出納を申します」
 かくして、私は千代の言いたかったことを、ついに一字一句間違いなく“悟らせられる”こととなった。これを英語でテレパシーという。世の細君は、夫にテレパシーをけしかけるのが実にうまいと私は思うのである。私は千代をなだめなだめ、ぺたぺたと裸足で横田の部屋へと向かった。
 しかし胃の中で重たい鉛が転がっているように、腹がごろごろとする。むしゃくしゃして、頭の中で千代の横っ面をひっぱたいてみたが、逆にやいのやいのとやり返されてしまった。想像の中でもこの態である。実に仕様がない。私は、横田の部屋の前にやってきたときも、ふすまの前でうろうろと何往復もした。
 横田の部屋の前には、件の半紙が山となって積まれている。家中に散らばっていたのを、回収した結果のようであった。『ここで寝ると、寒いので風邪をひく』『花粉がよく飛ぶ杉の木』『虫が喰っている古い本』……よくもまあ、考えたものである。私は横田の部屋に入ることを決めた。
 私が顔を見せると、横田は台ランプからの光で本を読んでいるところだった。それは、杭に繋がれて大人しくしている犬の平八に、どこか風貌が似通っていた。
「先生のおっしゃる通り、発明はやめて、僕は真面目に学問をすることにしましたよ」
「そうか、それは結構、結構」
「僕は、手を抜いた方法で、複雑なものを楽に括ろうとしていました。近道を探していたのです。しかし近道などどこにもなかった。塔がついに完成しなかったように、楽な言葉には成功の秘訣はないらしい。なにより、全てが簡潔に伝わってしまったら、面白くないと思うのでありますよ。……正にそうでありますよね、先生?」
「それはそうと、横田。これを見なさい」
 私は言うと、半紙を取り出した。
「先生、俳句をまた始めたのですか。いいですね、何か一句書いてくださいよ」
「いや、いや。俳句ではない」
「それでは、何かひとつ格言でも書いてくださいますか」
 私は、丁寧に半紙のしわをのばすと、筆をその上へ走らせた。正確に、丁寧に、分かりやすく。書き終わると、それを少し遠目から確認して、形が綺麗なことを確認する。これで間違いない。千代も満足だろう。
 そうして私は、丸の中に星型を書いた紙を、丁重に横田へと手渡したのだった。


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