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C-07  カンブリアより愛を込めて

 面倒なので率直に言う。
 俺の前世はアノマロカリスだ。
 と言っても、その時代には当然そんな名前など無かったし、自分の姿を客観的にとらえる事は不可能だったから、自分がソレだったということを確信するには、十数年の時間が必要だった。解るだろうか? 自分の前世があの気色悪い生物だった事を知った男子高校生の夏の夜を。古代生物画集の頁の中に自分の姿を見つけた日を。花火に群がる蚊よりも遥かに時代遅れで下等だった昔の自分を知った祭の夜を。
 その夜、俺は泣いた。
 大学生の兄や皺が目立ち始めた母やビリヤードが趣味の父の前世は、侍や町民やはたまた聖徳太子かもしれない。前世で培った信念や矜持を生まれながらに孕んで産まれてきたのかもしれない。
 翻って俺は何だ。
 アノマロカリス。
 日本語で「奇天烈な海老」。
 その名どおり、巨大で奇天烈な海老のような生物。
 二度獲物をすり潰す為の大きな二つの歯が自慢の、カンブリア紀の覇者。
 馬鹿にしてるのか。あのような古代生物にどんな信念や矜持があるというのだ。歯が丈夫だとでもいうのか。ちなみに現世では虫歯が原因の銀歯が二つある。馬鹿にしてるのか。
 グレようかとも思ったが、理由が理由だけにそれも出来ず、俺は鬱憤の矛先を本に向けた。文字。なんて素晴らしいものだろう。まず記号を決め、それに意味を定め、更に音を宛がう。アノマロ糞カリスには到底及びもつかないその高尚な存在に、俺は没頭した。漫画でも小説でも論文でも雑誌でもなんでも読むが、特に好きなのは学術書だ。知りもしない単語が山のように出てくる。新しい概念を意味する新しい言葉を作り出し、それを学術用語として定義し、永く使用する。その創造性に、なんとも言えない浪漫を感じるのだ。
 本を読んで1340グラムの脳をフル稼働させている時、俺は俺の前世のことを忘れられる。
 ――漆黒の泥のような海の底。無思考。出来たばかりの覚束ない眼。二つの歯。食うだけの命。やがて死滅するその日まで。
「ごおくとななせんまんねんまえからあいしてるうー」
 文字に埋もれて幻惑に落ち込んだ俺の耳元で、調子はずれな歌声が響いた。
 また変なアニメでも見たんだろう。
 俺の背中にしがみ付いている少女は、今日も一人で機嫌よく調子外れな歌を振りまく。俺が文字を愛するように、彼女は旋律を愛するようだった。
 木村桜子、俺の斜向かいの家の三女。四歳。
「ごおくとななせんまんよねんすぎたころからもっとこいしくなったー」
 やめないか。ここは古本屋だ。
 しかも計算を間違っている。引け。足すな。引け。五億六千九百九十九万九千九百九十六年過ぎた頃から、だ。
 馴染みの店主が好々爺然とした顔で少し俯き、眼鏡の隙間から俺達を興味深げに見つめる。天井まで積みあがった古い書籍の隙間から紙魚が面白そうにこちらを覗き見る錯覚さえした。
 老人が罅割れた声で訊く。
「妹かい」
「ちがいます。よめです」
 桜子は朗らかに、確信に満ちた声音で断言した。店主は微笑ましげに相好を崩したが、俺は笑えなかった。「大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるの」レベルで周囲の認識を獲得する事に成功した桜子の所為で、俺は何かと彼女の世話を焼かせられる。彼女の家族も面白がって揶揄する。もちろん、揶揄だ。「うちの子を嫁に貰ってくれるの?」という桜子の母の微笑も、当然リップサービスであり桜子のごっこ遊びの一環だ。誰も本気にしちゃいない。
 桜子を除いては。
「ふたりはぜんせからいっしょにいるの。だからよめです」
「ほう。前世なんて言葉知ってるんかい。偉いな」
「えへへ。でも、アノらロカリスのほうがかしこいの」
「アノラ……?」
 俺は本を閉じて棚の中に押し込んだ。紙魚が驚いて身を竦ませる気配がする。
「じゃ、また」
「たまには買えよ」
 店主の声を後頭部で受けながら、俺は手の甲で桜子の頭を軽く小突いた。幼女はきゃっきゃと声を上げて喜ぶ。
 外は鬱陶しいくらいの快晴だった。「俺の」時代には、こんなに空は青かったっけ? 海の中で沈んでいたから、よく分からない。あそこは暗い。星の光はおろか、太陽の光さえ覚束無い。
 そんな海の中で、俺達は出会った、らしい。
 ――桜子の前世は、ピカイア=グラシレンス。恐らく、多分。
 どんな生き物かと言えば、背骨のある水棲のナメクジみたいなものだ。恐らく、多分。
 そんな彼女は前世で俺の背中にずっとしがみついていたらしい。そんな事に気付くはずもなく、俺はただ暗い海を泳いでいた。だから桜子が親と一緒に引っ越しの挨拶に来て、俺の顔を見るなり奇声を上げて背中に飛び掛ってきた時、それはそれは焦った。今時の子供の非常識さに慄きもした。
「いた! いっしょにいた!」と拙い単語で満面の笑みを彩り、俺から片時も離れたがらない幼女は、やがてその覚束ない言葉の中でぽつりぽつりと事実を語り始めた。
 気の遠くなるくらい昔、ほんの短い時間、彼女は俺の固い背中に乗って一緒に泳いだらしい。
 広い俺の背中には小さすぎる彼女は、だからこそ俺に気付かれる事無くしがみつく事に成功した。
 その時、彼女にとってはそこが一番安全だったのだろうか? 理由を聞いても「しらない」と言う。彼女が知らないんだから俺が知るはずも無い。
 とにかく、五億七千万年の時を経て(一方的に)再会した俺達は、常に(一方的に)一緒にいる。
 桜子を背中に貼り付かせたまま、俺は馴染みの駄菓子屋でアイスクリームを買った。中年の女性が酒の発注数について悩んでいる所に硬貨を置いて出る。水色のソーダ味、緑色のメロンソーダ味。桜子はソーダ味だ。
 制服を汚すから降りろと言うと、桜子はしぶしぶ地面にずり落ちた。公園のベンチに座って、二人で空を眺める。下町の商店街から少し離れた所にある神社の公園だ。挙動不審な動きをする鳩と、俺達しかいない。
「こんど、うんどうかいあるの」
「幼稚園の?」
 うん、とアイスを舐めながら。
「アノらロカリスもきて」
「なんで」
「よめだから」
「嫁じゃない」
「よめだもん」
「六億年前の変な生物同士ってだけだろ? それだけだ。それだけの俺達の関係も、リセットされるべきだ。この世界では」
 言葉の意味が解るだろうか、と後から不安になり、俺は桜子を見る。
 彼女は大きな目で俺を映しながら、困っていた。自分の中の思いを相手に伝える事の難解さに、幼女は眉を顰める。小さく唸り、それから「アノらロカリス」と呟く。アノ「マ」ロカリスだ。
「すねてる」
「俺が? 何に」
「……ぜんぶ?」
 俺は苦笑してアイスを噛み砕いた。
 その通り。俺は拗ねてる。
 この美しい世界に対して、ニヒリスト気取りで拗ねている。
 俺が文字しか愛さないのも、それが所以だ。
「桜子、俺はな、この星に何も残してないんだ。お前と違って」
 カンブリア紀最強の生物として君臨したアノマロカリスは、やがて絶滅した。何ら進化の種も残さず、一世を風靡しただけで、まるで祭囃子のように消え去ってしまった。その理由は俺も知らない。当たり前だ、その前のただの一個体として俺はとっくに死んでしまったのだから。
 その種は、後の生態系にどんな痕跡をも残していない。ただ存在し、隆盛し、衰退し、死滅し、それでおしまい。諸行無常という言葉は、五億七千万年前にもあった。
 一方、本来ならアノマロカリスの餌となるべきであろうピカイアは生き延びた。
 彼女達はやがてヒトへと繋がる、遠い遠い祖先だ。
 俺はアイスの残骸をゴミ箱へ放り投げ、桜子を横目に見る。この美しく煩雑で幾何学的なこの世界は、全て彼女を孕んでいる。彼女は未来を紡ぎ上げた。
 俺は何の為に存在したんだろうな。
 彼女を見るたび、そんな気分になる。
「アノらロカリス、しんじゃったの」
 桜子は悲しそうに顔を歪めて言う。半分だけ食べたアイスが空のように滑らかな光を放っている。
「きゅうにふらふらして、ななめになって、しずんでったの。さくらこ、て、はなしちゃったの。ほんとは、ひっぱりあげたかったのに」
 潤みだした大きな瞳に、俺は動揺した。子供の泪は苦手だ。どうすればいいか分からない。
「さくらこ、ちっちゃいから、むりだったの。ずっといっしょにいたのに。しずんでくアノらロカリスを、じっとみてた」
 それは、古の記憶の断片。
 命の期限が訪れ、俺は体を捨てるように海底へと沈んでいった。闇から常闇へ。それは現象だ。感情を挟む余地も必要も理由も意義も無い、ただの一つの肉体が別のものへと還元されるだけの現象。
 それなのに、どうしてこの子は泣くのだろう?
「かなしかった」
「悲しいわけ無いだろ。感情も思考も無い時代だったんだ」
「かなしかったの! だっていまかなしいもん!」
 それは「今の」桜子が悲しいだけであって、「前の」彼女には何の感慨も浮かびようが無い事だったろう。桜子は想像力を手に入れた。もしあの立場だったら、あの時だったら、きっと悲しく思うだろう――妄想だ。単純で原始的な妄想。
「だからさくらこはもうはなさないの。アノらロカリスがこのほしに、なにものこしてなくても、さくらこはいっしょにいるの。だからよめになるの」
「意味が繋がってないんだけど」
「うるさーい! すねるなー! おとなのくせにー!」
「うるさい餌」
「きー! おまえどこちゅうだー!」
「品川第二中だよ」
 アイスを食べながらぽこすか殴ってくる桜子に揺らされる頭で、俺の中に羅列されている四種類の文字がぼろぼろと解けてゆくのを感じていた。そこには、矢張り「前の」俺の痕跡は微塵も無い。
 俺は星に何も残さず、完全に消えてしまった。
 ばらばらに分解され海の底に沈む四種類の文字を、桜子のきーきー声と小さな拳がぐらぐらと揺らす。
 全く、一体何の為に生きたんだろうな。アノマロカリスの俺は。

 翌日も、俺は学校帰りに馴染みの古書店で立ち読みをしていた。絶版になった刑事の手記だ。古い日本の犯罪捜査について事細かに言及されている、隠れた名著と名高い本。やはり文字はいい。古本はいい。俺に発掘されるまでは、その存在すら忘れ去られていた事に浪漫を感じる。
「利己的な遺伝子、読んだか」
 店主がレジの向うで眼鏡を磨きながら声をかけた。俺は顔を上げ、少し考えてから返す。「読んだよ」
 生物の体は遺伝子の媒介、乗り物に過ぎないという説をぶち上げた有名な本だ。俺はそれが嫌いだった。何故ならば、この本を読んでから、俺は俺のかつての存在が無価値である事を知らしめられたのだから。遺伝子が途切れたアノマロカリスは無価値であると。
「実はな、俺には子供が居ない。つまり生物としての俺は、無価値だろうか?」
「それは――」
 俺は言葉を飲み込んだ。どうなのだろう。例えば、アノマロカリスは、俺単体としては子孫を為したかもしれない。しかし種全体としては絶滅してしまった。俺は種としては無価値だったが、単体としては価値があった? いや、そもそも子孫を残さなければ価値が無いのか?
「色々な考え方があると思うがね。俺は俺が生まれた事に意味は無いと思っている。けれど、価値はあると考えてる。お前にタダで本を読ませてやってるとかな」
 俺は眉を顰めた。
 それなら、「前の」俺の価値は――「前の」桜子を飲み込まず、更には背に乗せて悠然と大海を泳いだことになるだろうか。馬鹿馬鹿しい。
 本を畳んで、昨日と同様に棚の中に押し込む。店を出ようと背を向けた俺に、再び俯いて眼鏡を拭き始めた店主の声が投げかけられる。「お前は随分色々すっ飛ばして来たみたいだからな。餓鬼なんだよ。ま、精々地に足つけてゆっくり行くんだな」
 その言葉に驚き、扉を押し開けてから振り返った。外は不躾な太陽が地上に降り注いでいる。扉がゆっくりと閉まる。その暗い店内の奥で、老人が笑みを含んだ声で呟いた気がした。
 吾輩は人である。

 餓鬼か。
 確かに。「前の」俺は、人に較べれば、何もかもがあどけない。今、俺が感じているこの世界に対する嫉妬や戸惑いや劣等感のようなものは、人としての俺の想像力の賜物なのだろう。「前の」俺なら、何ら感じること無く二つの歯でもごもごと餌を咀嚼していたに違いない。
 つまり、「前の」俺が拗ねているんじゃない。余計な物を沢山手に入れた「今の」俺が、拗ねているのだ。
 あの店主は、そういう事を全て見抜いたのだろうか? 桜子の言った前世やアノマロカリスという言葉から?
 ――まさかな。
 その瞬間、俺は背中に衝撃を受けてよろめいた。勢い余って道端のポストに抱きつき、半眼になる。そんな俺の呻き声も意に介さず、背中の幼女が耳元で喚いた。
「あのね! よめがだめなら、むこでいいよ!」
 アホめ……。
 またあの母親に適当な入れ知恵をされやがって、この単細胞。
「むこでいいよ!」
「はいはい、二十年後にお前がまだ俺の事を好きだったら、考えてやるよ」
「すきにきまってるよ。だってごおくとななせんまんねんまえからすきだったもん」
「……はいはい」
 俺は星に、この世界に、何も残さなかった。
 けれど、今の俺は言葉を持った。
 想像力を持った。
 大地を持った。
 未来を持った。
 桜子の運動会に参加してやろうという思いやりを持った。
 それは余りに単純で、複雑で、絢爛で、眩し過ぎて、矢張り「今の」俺は「前の」俺を思って嫉妬をするのだけれど。

 けれど、今日も俺は幼女を背中に負って幾何学的な美しい世界をゆっくりと歩く。
 五億七千万年前と同じように。
 五億七千万年前には無かった、沢山のものを持って。


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