index  掲示板
Aブロック  Bブロック  Cブロック  Dブロック  Eブロック  Fブロック  Gブロック  Hブロック





C-11  Floating

 やっぱりこんな日は仕事へ行かなければ良かった。
 部屋の鍵をどこへ置いたのか忘れて、出がけにあれやこれやと探しているうちに、いつもの快速に乗り遅れて遅刻してしまった。半日有給を使えたらいいのだけど、こういうときに限って取引先からの外せないアポがあって、しかも帰る頃に上司に呼び止められ、明日のミーティングで使う集計のグラフを作成してくれとか頼まれるし(そういう事は先に言っておくれよ、もうッ!)、残業で着信アリの彼に電話してもずっと繋がらないし、とにかく今日はやる事なす事が、ほとんど見事に玉砕して挫かれる一日だった。

 すっかり重い足取りで駅へと向かった。もうこんな日はサッサと帰って眠るに限る!
 でもどうした事か、数分歩けばいつもの駅に着くはずなのに着く気配どころか、駅前の繁華街さえもいつの間にか通り越してしまったようだ。道を間違えた? いや、もう五年以上も同じ道で通勤していたのだし、そんなはずはない。連日のハードワークでやっぱり疲れているのだろうか。
 狐につままれたような気持ちで足を進めていると、ふと見慣れないアンティークショップのショウウィンドゥが目に入った。薄明かりが通りにこぼれている。古時計とマリオネット仕様のピエロ人形、水晶玉からは不思議そうな顔をした自分が逆さに映るのが見えた。
 ――こんなお店、あったのかしら?
 どうやらまだ店は営業しているらしい。力無くドアが開き、一歩中へと踏み入れた。
 まるで御伽噺に出て来るような、西洋の蚤の市で買い集めた骨董品ばかりが、ほんのりとランプに照らされて所狭しと並べられていた。
 新しい主を待っているかのような猫足の古めかしいソファー、ビロードのドレスのアンティークドールがそこに腰掛けて微笑んでいる。紙の色がすっかり変色しきっている分厚い洋書の数々、蓄音機型の薔薇のレリーフ入りのオルゴール、羅針盤は指し示す方向を忘れたまま放置されて、懐中時計はコチコチと時を刻んでいる。この店自体の時間が緩やかなもののように感じられた。そういえば電車の時刻は間に合っただろうか? ふと自分の腕時計を見ると、秒針が逆廻りしていた。
 ――どういう事?!
「ようこそ、お嬢さん。ここではね時間はあるようでないものなんだよ」
 お嬢さんと呼ばれて、ビクッと声のする方を振り返った。店のマスターだろう。お店と共に歳を重ねたようなたくさんの皺が顔に刻まれている。とうに二十歳は過ぎてしまい、もう「お嬢さん」なんかでは通じる年齢ではないのは、十分自分で分かっているはず……なんだけど。
「時間があってないようなものって?」
「時間とはいえ、今あなたが束縛されている時間は、この地球時間だろう? 大きな宇宙、いやこの闇の中では時間などこんなにせかせかしたものではなく、限りなくゆったりとしたものなのだよ」
 そう言いながら、マスターはぐるりと黒茶色に染められたラテン語で地名の書かれている地球儀を回し始めた。
 そうかもしれない。でもその時間のためにどれだけバタバタした日々を送っているのだろう? 私に限らず、この世界に生きる人間という人間は。
「この箱を開けてごらん。でも部屋に帰ってからがいいね」
 マスターがそっと差し出したのは、小さな宝石箱だった。飾りもなにも付いていない少し傷があるシンプルな箱。
「え? お代は? それとこれ何でしょう?」
「普通の箱さ。中には今のあなたが欲しがっているものが詰まっている。でもそれはあなただけに必要なもので、他のお客さんが開けてしまったら全然意味もない」
 何だろう? 手渡された箱をちょっとだけ振ってみる。中に何か入っていれば音がするはずなのに何も聴こえないし、すごく軽かった。もしかして空箱だけで私は騙されているのだろうか。
「なあに、お代は次にここへ来たときにこの箱の中身があなたにとってどうだったか聞かせてもらえれば、それでいいんだよ」
 少しは不審に思いながらも、折角タダで頂いたのだし、一応礼を告げて私は店を後にした。
 歩いていくと見慣れた駅の北口に着き、ホームへと滑り込むようにして帰りの快速に乗り込んだ。急に現実へと思考を押し戻され、電車のガラスに映った私はまだ戸惑いを隠せそうにない。さっきまで逆廻りしていたはずの秒針は元の廻り方に戻り、正確な時刻を示していた。この街はどこも歩き慣れていたはずなのに、あるはずのないところにあんなお店なんて。だけどさっき貰った箱は夢でも幻でもないようだ。
 落とさないように、忘れないようにと、しっかり鞄と逆の左腕に包み込むようにして抱え、家路に着いた。
 
 部屋に着いて、ひと息をついた後に貰った箱をもう一度手に取ってみる。
 見たところ、どこも変哲のないちょっと古びた細かい傷のある小さな宝石箱にすぎない。
 奇妙に思いながらも、興味の方が勝って、私は箱の蓋をそっと開けてみた。ギギッと音を立てて、蓋は難なく開ける事が出来た……が、箱の中には何かあるわけではなく、真っ黒な煙のような霧のようなものがブワッと拡がって私の視界全体を包み込んだ。
 ――えっ?! 何も見えないよ!
 箱の中に仕舞ってあったのは、浦島太郎のお話にあったようなただの煙だけだったのか、それとも幽霊とか悪魔のような不可思議なものなのか、全然見当も付かなかった。
 もう何も見えない。自分の部屋の中にいるはずなのに、部屋の中にいるのかどうかも(そもそも足の感覚さえも包まれてフワフワしているので床に着いているのかさえも不明)、分からなかった。例えるなら、もし宇宙遊泳出来たとしたら、こんな浮いたり沈んだりするのかなといったところ。ここは何処?
 箱から放たれた漆黒の闇に包まれていくうちに、何も考えられなくなっていくようだ。目を閉じていても、開けていても真っ暗のはずだったのに、プラネタリウムで見たかのような幾千の星々が見える。寒くもなく暑さも感じない。何も聴こえない闇と星の瞬きだけ。
 もしかして自分はもう死んでしまったのかとも思えるようだ。でも死んでしまったら、こう考えたりする事もないのではないだろうか。だからまだ命だけはあるのかもしれない。
 私一人きり、命綱も無しに宇宙の闇の中へ放り投げ出されてしまったようだ。
 孤独――でもなぜか寂しい気持ちはなかった。むしろ安らぎさえ覚える。人間は元々一人で生まれて、一人で死にゆくものだから。実のところ、人の命もこの混沌から生まれ、消えてゆくのではないだろうか。
 天国も地獄も知らないけど、実のところ、人間も本当は宇宙人で単に地球に生まれて住み着いただけなのかもしれない。この広い銀河を漂い、そんな気にもさせられる。
 そう思っていたら、目の前にバスケットボールくらいの大きさで青い星が半分闇に隠れて見えて来た。手を伸ばして掴めるわけではなかったが、近付いて見てみるとそれは自分が住んでいるはずの地球だった。綺麗な青い宇宙のオアシスだなと思った。ガガーリンの言葉もあながち間違っていない。
 でも綺麗な星なのにも関わらず、この星の何処かでは明日のパンや水にも不足して貧困に喘いでいる人がいる。何処かでは戦争が起きていて今のこの一瞬にも誰かが血を流しているかもしれない。また何処かでは生まれたばかりの赤ちゃんもいるだろうし、たった今永遠の眠りに就いた人もいるのだろう。そんな人々がこの星に笑い泣きしながらいろいろ悩んで、廻って生きているのだなと感じた。
 私の一日もその中の一つにすぎない。同じような飽き飽きしている毎日、夢を見て田舎から上京して来たにも関わらず、夢のひと欠片さえも掴めずにそのまま日々の暮らしのためにだけ勤めている今の会社、友達とも生活環境の違いや個々の事情によって疎遠になり、想う人とも行き違いで通じ合えない私。
 たまにどうしようもなくなって空を見上げているときもあったけど、もし天使がいたとしてそれが宇宙を漂うものだとしたら、きっと私はものすごくつまらない顔をしていたのではないかなと思った。
 だとしたら人の命は星の瞬きにも満たない長さでしかないのだから、もっと与えられた毎日を大切に生きなければならない。
 いつでもここへ還れるならば、還ったときに後悔しないようにしたい――そう思えた。



 いつの間にか私は眠っていたようだ。胎児のように丸まり、その身体を抱きしめるようにして。半身起こしてみるとそこはいつもの自室で窓辺から朝日が差し込んでいる。
 それにしてもリアルな夢だった。静かな闇の中へ浮き沈みする感覚も悪くはない。
 昨夜の箱は開けたはずなのに閉じられたままだった。再び揺すってみても何かが入っているわけでもなく、音がする事もなかった。ふと裏返してみると、ごく簡単な英文で”今、あなたに必要なものが見えますように”とだけ書かれているのが読めた。
 日々忙しい中、深く眠るのも、遊びに行くのも忘れていた私。ほんの少しだけの現実逃避もたまには必要なのかもしれない。
 たぶん、この箱の中身はあってないようなものだったのかも。きっとあのアンティークショップの謎のような事しか教えてくれなかったオーナーにも逢えるかどうか分からない。
 私が見た深い深い闇は気付かなかっただけで、本当はすぐそこにある。きっと誰のそばにも。

 朝日の眩しさに夜もどこへやら。星さえも隠れて、また私の日常が始まる。

 同じようで決して同じ日などあるはずがない。
 今日もまだ始まったばかり。アラームが鳴る一分前へと、目覚まし時計の針長針がカチリと動いた。



Fin


C-11  Floating
Aブロック  Bブロック  Cブロック  Dブロック  Eブロック  Fブロック  Gブロック  Hブロック
index  掲示板




inserted by FC2 system