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D-02  兄嫁

 高いところに上ると、ここから身を投げる自分の姿を夢想するんだ。
 ある時、十年上の兄がそう言った。その場所がデパートの屋上だったので、幼かった僕は兄の服をしっかりと握った。
「冗談だよ、伸二」
 しかしまた帰りの駅で兄は飛び込みを夢想し、僕は再び彼の服を握ることになるのだ。



 学校帰りに駅前の喫茶店に寄った。暗い店内に先客は、カレーライスを頬張る痩せた眼鏡の男がただ一人。僕はカフェオレを注文して彼に近づき、向かいの椅子に腰を下ろした。
「兄さん、待たせてごめん」
 食事中の兄は軽く頷いて僕の言葉に応えた。口があいていたらきっと文句を言ったであろう。僕は彼に着替えの入ったバックを手渡した。
 大学で近代文学を研究している兄は大切な論文を書くため研究室に泊り込んでいる。研究員という今の立場は非常に微妙なので早く教授の地位が欲しいのだそうだ。教授になって思う存分研究をしたいのだそうだ。
「論文の調子はどう?」
 カレーライスを食べ終えた兄の口元が歪んだ。
「まあまあだ」
 弟の頭を馬鹿にしている兄だから、そんな返事しかしてくれない。
 兄は安物のタバコに火をつけた。僕は忘れないうちに言伝を口にする。
「昨日、七緒さんから電話があったよ。式の話だから先方に連絡しなさいって母さんが」
「ふうん」
 兄は興味のなさそうな口ぶりで煙を吐いた。それで僕は尋ねる。
「本当に結婚するの?」
「するさ。先方も乗り気だしこちらも断る理由はない」
「断る理由がないから結婚するの?」
 兄はタバコを灰皿に押しつけこちらを見た。眼鏡の奥の目はいつもと同じように冷たく光っている。僕は怒られるのではないかと身を強張らせた。
「高校生には難しい話だ」
 僕はとても個人的な理由から兄が七緒さんをどう思っているのか知りたかった。だから更に尋ねた。
「兄さんは七緒さんのことが好きなの?」
「嫌いな人間とは結婚しない」
 時計を確認した兄は席を立ち精算をすませ出て行く。カランコロンとドアが鳴った。
 今になって運ばれてきたカフェオレを吸い込む。苦い味が口の中に広がった。



 次の日から定期試験が始まった。得意ではない古典と苦手な数学。二教科を終えて昼前に家に帰ると、出迎えてくれたのは母ではなかった。
「お母さんは急な用事でおでかけですよ。あなたが帰ってくるまでお留守番を引き受けたの」
 七緒さんはそう言って笑った。口の端をちょっと上げて微笑する。それが彼女独特の笑い方だ。どこか寂しげな顔立ちだから笑っていても少し切ない。
「お腹すいたでしょ。お母さんのチャーハンを温めますね」
 制服から着替えて食卓につくころには湯気の立つチャーハンとインスタントのコーンスープが並んでいた。七緒さんは湯飲みを持って向かい合わせに座る。
「今日はお昼までですか?」
「期末試験です」
 僕がそう答えると彼女は気の毒そうな顔で頷いた。
「高校生も大変ですね」
 返事をしようとしたが僕の口の中はチャーハンでいっぱいだった。彼女は眉間にしわを寄せて自身の期末試験を思い出している。僕はお茶をごくりと飲んだ。
「七緒さん」
「はい」
 八つ年上の彼女は素直な返事をする。
「今日はどうしてここへ?」
「お母さまが呼んでくださったの。お母さまと打ち合わせることもありますから」
 結婚式の話だろう。しかし、新郎の親と新婦が何を話すのか。
 母は偏屈な新郎の代わりにこの結婚話を進めるつもりだ。そうしなければこの話は消えてしまう。見合いで出会った七緒さんをデートに連れ出したことのない兄なのだ。結婚の話で七緒さんが家に来ても、忙しいからと部屋に閉じこもる兄なのだ。それが自身の恋愛でも結婚でも面倒ごとは嫌らしい。
 反対に僕は彼女とよく話をする。この結婚について何ら責任のない僕は、彼女にとって一番話しやすいのだろう。明日の天気や出身地の話、職場である保育園の子供の話。多分僕は誰よりも七緒さんについて詳しい。
「兄さんが婿養子にならならなくて残念だな」
「どうして?」
「兄さんが七緒さんの苗字になると面白いじゃないですか」
 偏屈者の兄の名は新一という。星七緒さんはキョトンとした。どうやら彼女はショートショートの神様と呼ばれた作家を知らないらしい。
「七緒さんは本を読みますか?」
 試しにそう尋ねると、彼女は少し考えて答えた。
「最後に読んだのは確か『草枕』。あなたぐらいの頃に読んだわ」
「ずいぶん前だ」
「国語の教科書で読んだのよ」
 種明かしをした彼女は肩をすくませた。気になって僕は聞いてみた。
「どんな話だったか覚えています?」
「男の人がお寺に行って、和尚さんと会うお話でしょ」
 やっぱり、と僕は思った。七緒さんは教科書に載っている『草枕』が全てだと思っている。あれは小説中のほんの一部なのだと教えようとしたが、それが兄の受け売りであることに気づいて止めにした。
 そういえば、今日彼女を呼びつけた母はどこへ行ったのか。尋ねてみると近所で急に不幸があって手伝いに行ったのだそうだ。鍵を持って出なかった僕のために七緒さんは留守番をしていてくれたのだ。チャーハンを頬張り、僕はテーブルの上で組まれた彼女の白く細い指を盗み見た。飾り気のない白い肌にピンク色の爪がよく映えている。
 昼食を終えた僕に七緒さんはお茶を淹れ直してくれた。いつもと同じお茶の葉なのにいつもより美味しい。その秘密を尋ねたが彼女は教えてくれなかった。



 定期試験の最終日、僕はまた喫茶店で兄と会った。着替えの入ったバックを渡し、前回渡したバックを返してもらう。食後のタバコをふかす兄に僕は口を開く。
「七緒さん、あまり本を読まない人みたいだね」
「それがどうした。家で文学論争をする気はない」
「兄さんと話が合わないと思うけど?」
 煙を吐き出して兄は薄く笑う。
「女は馬鹿な方がいいだろ」
 僕は黙った。偏屈で頑固者でもある兄は何を言って自説を曲げない。七緒さんは馬鹿じゃない。けれど、僕は何も言わずに俯いた。
「そんなことより、今週の日曜は暇か?」
 テストが終わって春休みに入った僕だから、休日には特に予定がなかった。兄は丁度いいと言って笑う。
「旅行先、一緒に選んでやってくれ。今週末に決めないといけないそうだ」
 それが新婚旅行の話であると気づいて僕は首を横に振る。
「そんなことできないよ」
「お前は彼女と仲がいいだろ。彼女だってうちの両親と決めるよりは気楽なはずだ」
 兄が一旦言い出したら、僕たち家族にはそれ以外の選択肢が存在しない。
 そうして日曜日、僕と七緒さんは二人でパンフレットを眺めていた。旅行会社の係りの人は弟だと名乗る僕に変な顔をしたが、その後は笑顔で応対してくれる。
「定番ですがハワイは人気ですよ」
「そうねえ」
「ヨーロッパなどはいかがでしょう。それとも、世界遺産を巡るコースはいかがでしょう」
「そうねえ」
 今日の七緒さんはおかしかった。ぼんやりとただパンフレットを眺めている。係りの人が焦れてあちこち勧めてくるが、どの場所を勧められても生返事ばかりだ。
「ほら、七緒さん。海外がいやなら国内はどう?沖縄とか離島とか」
「そうですね。屋久島なども人気です。パンフレットお持ちしますね」
 係りの人が席を立った隙に、僕は彼女に囁いた。
「実際どこがいいんですか?」
「どこがいいと思う?」
「七緒さんはどこがいいんです?」
「お兄さんはどこがいいのかしらね」
 僕は虚をつかれ黙った。七緒さんは小首を傾げてパンフレットをめくる。
「どうして兄さんの行きたいところにする必要があるんです?七緒さんの行きたいところに決めればいい」
「そういうわけにはいかないわ」
「どうして。兄さんはここに来なかったのに」
「だって、新一さんとわたしは夫婦になるんですもの」
 彼女が兄の名を呼んだ。僕は初めてそれを聞いた。
 だから僕はここで初めて、七緒さんは兄さんの嫁になるのだと気がついた。
「あんな奴のどこがいいんです」
 いつの間にか僕は彼女の手を掴んでいた。飾り気のない白い手が僕の手の中にあった。
 七緒さんがこちらを向いた。真正面から向き合う眼と眼に僕は唾を飲み込む。
 僕は彼女が好きなのだ。兄の許婚である七緒さんが好きなのだ。
 七緒さんはゆっくりと笑った。口の端をちょっと上げた彼女独特の笑い方でゆっくりと笑った。
「駄目よ、伸二君」
 幼い子の悪戯をたしなめるようにそう言った。その言葉で僕は動けなくなった。



 帰り道は二人きり。
 普段と何も変わらない。いつものように他愛もない話をしながら駅で電車を待っていた。
 特急列車が通過して、七緒さんは風に煽られた髪を押さえる。
「大学教授の年収っていくらか知っている?」
「え?」
 僕はドキリとした。言葉の意味に気がついて、まじまじと彼女の顔を見る。
「お兄さんは頭がいい。きっと今に教授になるわ。彼なら他の女の人を好きになることはないしね」
 ホームに電車が入ります。アナウンスがそう告げる。それは七緒さんが乗る電車で、僕の家とは逆方向の電車だ。
「わたしは何の取り柄もない人間だけど、これで結構打算的なのよ」
 滑り込んできた電車に彼女は乗り込む。閉まったドアの向こうで七緒さんは軽く手を振った。僕も小さく手を振ってそれに応える。
 ゆっくりと電車は動き出した。見送った僕は兄のことを思った。線路に飛び込みたいと言った兄を思い出した。
 今の僕は当時の兄と同じ年齢だけれども、僕は線路に飛び込みたいとは思わない。七緒さんもきっと、兄のそんな気持ちはわからないだろう。
 そして、僕は彼女もよくわからなかった。よく知っていたはずの七緒さんなのにさっきの彼女は知らない女の人だった。僕の想像通り馬鹿な人ではなかったけれど、それが少しも嬉しくなかった。



 半年後、兄と七緒さんは結婚をした。


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