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D-03  オチボシ

 空を見ることが大好きでした。昼の空も、夜の空も。
 別に青く晴れ渡っていなくてもいいのです。鱗雲がたなびいているくらいが心を奪われます。満天の星空は好みではありません。月が皓々として、煌めきがかすんでしまうぐらいがいいのです。
 日々刻々と移ろいゆく空をぼんやりと見上げるのはこの上ないしあわせでしたが、弊害があります。
 授業中はサボタージュの一種と受け取られてしまいます。友達には、青春していると笑われます。
 私はただ、学者めいて観察する趣味があるだけです。耳は先生の発言を聞いています。センチメンタルな気分で現実逃避をしているのではありません。
 それなのに、なぜ。わかってもらえないのでしょうか。
 誰にも気を遣わず空を見られる場所を求めて、私は学校の屋上にたどり着きました。
 ここはコーラス部が放課後の活動に使う以外は、原則として鍵がかかっています。けれど、一学年四百人と言われるこの高校、これだけいれば合鍵を作る輩も現れます。ええ、一人や二人ではなく。
 そのうちの一人が、パソコン部の書記であった赤坂先輩でした。彼は卒業する時、私の性癖を聞き及んだらしく、小さな鍵を託してくれたのです。お陰で、私はちょくちょく授業をさぼるようになりました。
 私のように空を観察しに侵入する人間は少ない……いえ、皆無と言っていいのではないでしょうか。ありがちな漫画のように、不良が煙草を吸うためのたまり場となっています。けれど吸い殻が目につかないのは、各々が携帯灰皿を用意しているからです。法律違反に気づかれて、鍵を付け替えられては代々の先輩方に申し訳が立ちませんから。
 今は夕方、コーラス部が発声練習にはげんでいます。私はそれをつとめて聞かないようにしながら、給水塔の脇に仰向けに寝ています。ここまで繋がる階段は二ヶ所あって、その上に給水塔が置かれています。屋上はコの字型になっていますが、平たく寝そべっていればまず見つからないでしょう。
 秋茜の空を、じれったいまでにゆっくりと雲が流れていきます。今年もここでこうすることができるのは、あと半月がせいぜいでしょうか。冬というのは空が澄み渡りますが、屋外で見上げるには酷な季節です。
 今日はさいわい、穏やかで暖かな秋晴れの日でした。少し茶色くして肩に触れる長さにした髪が、ばさばさになっていきます。パソコン室に預けてきた鞄の中にブラシが入っているので、戻ってから整えることにしましょう。
 根性のある人は運動部、趣味のある人は文化部に入ります。ですが、パソコン部に集まるのはメカオタクではありません。さぼり部と通称されているように、部活なんてやる気のない人間が集まっています。
 うちの高校は部活も単位の一つとなっているので、必ずどこかに所属しなければならないのです。けれど、私がいい見本です。必修部活の日である火曜日に、こうやって堂々と空を見上げているのですから。
 顧問のために言っておくと、出欠はとります。課題もあります。ですが、部活の始めに返事をして、とっとと課題を仕上げてしまえば、トイレと言って抜け出してもこの通りです。コーラス部が先にいたら諦めますが、彼らはまず運動部に混じってグラウンドを十周します。そして筋トレをします。私が課題を仕上げるのは、たいていそれらが終わるより早いのです。
 肌寒くなってきたので、仕方なく起きあがりました。膝掛けにくるまるようにして、サーモマグから熱々苦々のエスプレッソを口にします。これだけの装備を持って来ますから、同じ部活の人達は黙認しているのでしょう。自分達も後ろ暗いところがありますから。屋上に侵入するなど可愛いものです。悪行のうちに入りません。
 夕陽が溶けて落ちて、北斗七星が輝く時間になりました。コーラス部が姿を消します。私もそろそろ帰る時間です。できることならずっと天体観測をしていたいのですが、部活終わりの点呼に顔を並べ、家へ帰って家族団欒の夕食を過ごさないと、警察に捜索願が出されてしまいます。
 小道具を抱えて、はしごを下ります。もちろんドアは施錠されていますから、赤坂先輩からいただいた合鍵を使います。
 室内に入り、振り返ってまた施錠をしておきます。それにしても、学校というものはどうしてこんなに住環境が悪劣なのでしょうか。屋外とそう変わらない涼しさです。しかもここは私立高校で、単純計算で千二百人の生徒が通っているのです。エアコンをつけてもいいでしょうに。
 そう思いながら歩いて、四階に到着します。この辺りは特別教室が並んでいます。部活時間の今頃はどの教室も使用中です。が、授業の一環としての部活なので、出歩く人間はいません。だから少々の警戒だけで事足りる……はずでしたが。
「大牧さん?」
 階段脇の女子トイレから、ベリーショートにプラスチックの黒縁眼鏡をかけた生徒が現れました。まったくなんというタイミングのよさでしょう。三十秒前なら私はいませんでしたし、三十秒後なら私はいなくなっていました。ジャスト、現在だから出会ってしまったのです。
 小太りな彼女の名前は何と言ったか……加藤だったでしょうか。下の名前まで記憶していられません。特に私は、他人の名前を覚えるのが苦手です。どうせあと半年で、ちりぢりばらばらになってしまうクラスメイトです。覚えたところで何の役に立つのでしょう。
 私は普通に、ごく普通に答えました。
「こんにちは」
「……やっぱ変わってるヒトだよ。挨拶してる場合じゃないじゃー。今、上から来たっしょ」
「部活に飽きて、階段上でぼんやりしていましたが」
 屋上にいた、なんて言いません。ですが、加藤は大声で続けます。
「なら、コーラス部の三井に怒られるっしょ。あ、顧問ね。あいつ正義に燃えるタイプだから。そんなの聞こえなかったから、屋上出てたんじゃー? 噂の合鍵? 合鍵?」
 うざったい奴に捕まってしまいました。
「ええそうです私は屋上にいました隠れて、と答えれば満足していただけますか?」
「大牧さん、攻撃的……。ね、あたしも行かせてちょー? 屋上、すっご気になってたんだよね」
「またの機会に」
 きらきらというかぎらぎらした目が怖くなって、私は一礼すると三階にあるパソコン室へ向かいました。



「おはよう、大牧さん」
 ざわ、とか、どよ、とか擬音にするべき衝撃が、クラス中に広がります。加藤が私を選んで朝の挨拶をしたからです。
 私達、とひとくくりにするにはかなり抵抗がありますが、二人とも、いじめられていたり、尊敬されたりしているわけではありません。ただ、加藤さんは地味めのグループに所属していて、私は凡庸なグループに名を連ねています。女王様グループといじられグループほどではありませんが、その間には明確な身分差があります。
 それを飛びこえて声をかけたことが、驚きなのです。
「おはようございます」
 私は平坦に返しました。
「今日の昼休み、お願いっすー。マジで」
 加藤は真剣な顔で私を拝むと、仲間のもとへ戻っていきました。
「カヨ、何あれ」
 私のグループのリーダー、小雪嬢が眉をひそめてやって来ました。攻撃的なメイクをした、手タレになれそうな美しい指先の持ち主です。
「弱みを握られたのです」
「つったらあんた弱点しかないような人間だけどさ、加藤みたいなキモいのはとっととどうにかすべし。さもなくば縁切り」
「心得ております」
 愛らしく華やかに見えて、女の友情というのはどろどろと醜いものです。小雪嬢はそれでもきっぱり物事を言うので、付き合っていくのは楽な方です。
 加藤とオトモダチになるか小雪嬢の下っ端でいるか、選べと言われたら答えは決まっています。
 午前中は普通に――私の場合は空を眺めながら、という意味です。おあつらえ向きに、私の席は窓際でした――過ごして、暗鬱な昼休みがやってきました。
 とりあえず、小雪嬢のグループと教室で食事をします。机で島を作ります。私の定位置は小雪嬢の右隣です。
 島ができたので、お弁当を取りに行きます。加藤がいそいそと近づいてきます。
「食べ終わったらすぐ先に行っていてください。時間をずらして行きます」
 小声で早口で告げて、返事を聞くまでもなく指定席へ戻りました。
 仲間は私を話題にします。
「朝といい今といい、加藤と仲良くなった?」
 意訳……いなくなってもいいよ。
「やだー、カヨみたいな天然記念物は簡単にはあげたくなーい」
 意訳……変人だけど置いてやってる恩を忘れるな。
「うちの娘をどこの馬の骨とも知れん奴に渡せるか」
 意訳……いつでも出ておゆき。
 ああ、やっぱり友達です。ただのクラスメイトより五.八ミリぐらいはみ出たサイズの人間です。バレーに例えるとサーブを顔面で受けるような、会話のボールのやりとりです。笑いながら、臓腑をえぐるような一撃を繰り出す少女達です。
 しかし、それを平然と返しては私ではありません。私は常に、普通の人の斜め前をオクラホマミキサーで歩いていなければならないのですから。そういう立ち位置の少女ですから。
「加藤は年頃の乙女としての美意識が欠如しています。あのシルエットは人間としてありえません」
 愛読書が広辞苑なせいか、私の喋り言葉は硬いものです。けれど、的確で短く美しい単語を、どうして忘れられましょうか。
 うまく返せたでしょうか。結果は、手を叩いて笑っている友達が示しています。彼女も笑い転げるほど面白いからではなく、何かあると馬鹿笑いをするのがアイデンティティだからなのです。
 彼女が笑うことは、皆が許しているということ。少し安堵して、ため息が出ました。
「ほんっと、デブだよねあいつ」
「脂肪抜いたら骨と皮しか残んないんじゃない?」
「あのメガネありえないし。鼻じゃなくてほっぺの肉で支えてるあたりもありえないし」
「観察したの? うわーそっちのがキモ」
「見ちゃっただけ。誰が趣味であんなの観察するかっての」
「あたしも見ちゃっただけだけど、四時間目とか鼻テカってんの。あぶらとり紙を知らない原始人かよ」
「一回三枚とか使いそうな脂の量じゃない?」
「眉毛も原始林なのに、なんで前髪ぱっつんかなー」
「じゃ貞子?」
「うーん、顔が見えないだけそっちのがマシ」
 私の言葉をきっかけに、加藤をからかう会話の流れになっていきます。別にいじめではありません。これらを面と向かって言う、あるいはそれとなく伝わるように工夫するのが言葉の暴力です。思ったことを思ったままに言っているだけです。これは言論の自由ですから、教師でも止めようがありません。
 加藤のグループは美術部の友達がいるとかで、大抵美術室にいます。教室にいる中で、この程度の会話を本気にするようなグループはいません。
 盛り上がりに適度なつっこみをいれつつ、母の作った弁当を空にしました。私には私のキャラクタがあるので、女子高生らしい小さな弁当箱、ではありません。タッパーが三つです。量的にはやや多い程度ですが、見た目はインパクトがあります。加えて、使うのはフォークではなく漆塗りの箸です。
「盛り上がっているところに水を差して悪いのですが、少々用事を済ませてきます」
 いつもだとこれは、トイレに行ってきますの隠喩です。いってこーい、の合唱になります。
 中座であることを強調するように、タッパーと箸は広げたままにしておきます。
 コの字型の校舎を三分の一周して階段を上り、屋上へつながるドアの前に着きました。加藤はもう待っていました。
「おそーい、大牧さん。寒いんよーここはー」
「予鈴が鳴るまでですね」
 私は携帯を確認するように取り出して、言外に時間がないことを告げます。あと十分でしょうか。
 加藤はあひるのような口をさらに尖らせます。
「えー短っ。じゃさ、放課後も開けてよ」
「仕方ありませんね」
 私は諦めたふりをして、鍵を開けました。雲を吹き飛ばしていく烈風が体に刺さります。
「わー、もっと寒いじゃー。でも見晴らしいー」
 騒ぎながら、加藤は屋上を走り回ります。私は馬鹿を観察しました。太っています。脂ぎっています。とろいです。不細工です。私以上に男子と縁がなさそうです。ああ、比べる対象にもなりません。私にはチャンスがあるかもしれませんが、現状の加藤には可能性のかけらすらないのですから。かといって、あわれむにはペシミズムが足りません。噂によるとゲームオタクらしいですが、実際そうであってもそうと見せないよう気遣うのが女子高生のたしなみです。オタクとカミングアウトしている時点で女を捨てています。
 わたしは、上履きを脱いで縁に立ちました。建前は立ち入り禁止の屋上ですから、柵はありません。少し突起があって、それをまたいで越えれば空中です。
「加藤さん、来てください」
 風に消されそうな声を張り上げて、呼びます。空を見上げると、帯状の雲が何重にもたなびいている素敵な模様でした。
「なーにー」
 息を切らせた加藤が、やってきます。足元で、予鈴が鳴る音が広がりました。
「横に来てください。素晴らしいですから。足跡が残らないように上履きを脱いで」
 注文の多い料理店、という話を彼女は知っているのでしょうか。きっと知らないでしょう。教科書で読むような有名な話なのに。知っていても、教訓は無駄だったというわけです。加藤は上履きを脱いで、私の横に立ちました。
「なっにがみえっかなー?」
「極楽が」
 私は身をかがめて、足払いをかけました。ふくらはぎにぐっと重みがかかり、すぐに離れていきます。
 バランスを崩した加藤は、縁に一度尻餅をついて、落ちていきました。
 悲鳴を上げる云々の前に、何が起こったのか理解できなかったのでしょう。
 下から鈍い音が聞こえました。遅れて、悲鳴とざわめきがたちのぼってきます。
 素早く上履きを履いて、もう使えなくなるであろう鍵を取り出しました。名残惜しいですが、袖口で両側をこすってから加藤に向かって落とします。
 死んだ人間は星になると言います。では加藤は、大宇宙のどこかに輝く星になったのでしょうか。七等ぐらいの明るさの。
「なむあみだぶつ」
 私は合掌して、ノブの指紋を拭き取りつつ室内へ戻りました。下りると、四階で小雪嬢が待っていました。
「よくやった」
 彼女は笑って、モデルのような手で私を撫でまわしました。


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