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D-05  キリステ様の掌に杭は刺さらない

 夢の中で、私は掌の杭を見ている。
 しっかりと刺さり、大地に縫い付けられたそれを見る。
 満天の星空の下、流れ星の群れを見ながら私は泣く。
 掌からではなく、どこかから湧き上がる痛みに。




 目が覚めたのはベットの中、というのは最近のことだ。行為が終わると気だるくなって瞼が閉じる。特有の虚脱感に支配された脳は外を拒絶する。時計はいつも一時間の半分は進んでいて、覚醒は翔(かける)の手が髪を撫でる感触から。目を開けると付き合った日数分、見てきた顔がある。
「おかえり」
「ただいま」
 夢から帰還の挨拶。こうして一糸まとわない姿で抱かれているほうが夢なんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。でも紛れもない現実で、逃げることが出来ない現実で。夜十時過ぎまで誰もいない彼の家のベッドの上で、私は白に包まれてる。よれよれになったシーツに顔が赤くなるのも、いつものこと。
「疲れるから仕方がないけど、最近直後の感想って聞いてないな」
「恥ずかしいから言いたくない」
 少しすねた口調で言えば、彼は謝ってその後は何も言わない。嘘は言っていないし、別に罪悪感を持つ必要はない。申し訳ないという気持ちが向くとすれば、自分の身体に対してだ。疲れさせてごめんなさい。
「そうだ。綾島聡子。とうとう二十人超えたらしいぜ」
「懲りないわね」
 何を、なんて聞かなくてもいい。私も今までと同じ言葉を返すだけ。
 本当に、彼女は懲りない。綾島聡子の隣に立つ男達も懲りない。
 何度も何度も同じことを繰り返す。出会いと別れを繰り返す。
 それでも懲りずに、彼女も男達は求める。互いを何度でも何度でも。
「たった一人を愛することが出来れば、それでいいのにさ」
 そう言って私の頬に触れる彼の唇を感じながら、私はまたまどろみの中に潜り込んだ。最初の頃の、嬉しくて眠れなかった頃の映像が浮かび、沈んでいった。
 自然と閉じられた目に映った最後の顔は、嬉しそうな彼の顔。紡がれたのは、あざ笑い。
「男に恵まれない星の下に生まれたんだろうな」
 言葉が耳から入って、胸にモヤとして溜まる。
 別れの時間に従ってベッドから開放されると共に、そのモヤモヤも霧散していく。
 でも分かるんだ。
 けして、なくなったわけじゃない。

 


 一人目のキリステ教徒が生まれたのは私が高校一年の六月だ。まだ入って二ヶ月だというのに、同じクラスの男子が綾島聡子に告白した。聡子とそれほど親しくしていたわけではなかったし、あろうことかその男子はラブレターなんて古風なものを彼女の机の中へと入れていたものだから、不運なことに違う女子が皆の前で朗読をしてしまった。
 人目にさらされる男子と手紙、そして聡子。
 当然、聡子は断るだろうと思っていた。クラスの女子も同意見だったに違いなかったし、後から確認して正しかった。自分が同じ立場なら絶対オーケーしない。たとえ気になってる男子だとしても。
 だからこそ、朗読が終わった後に間髪入れず了承の返事をした聡子にその場の誰もが驚いていた。一番、顔を驚きで歪めていたのは告白した男子だった。
 そして一週間後に男子は捨てられた。捨てられて、愚痴を吐き捨てた。
『キリステ様だから人と縁を切るのが好きなんだよ』
 その男子は栄えあるキリステ教徒第一号として皆から笑われ、時と共に皆の心から消えた。言葉だけは今も残ってる。
 某神の使いを意識したキリステ様という名前は一部の人の心をがっちり掴み、面白おかしく語り継がれていった。そこから二年経った今、当時を知らない一年も名前だけは聞いた事があるはずだ。
 そんな彼女と三年間同じクラスというのも私が生まれついた星の下の運命なのかな。
「珠美ぃ。今日で佐倉君とは何ヶ月目?」
「一年経ったよ」
 考え事を中断する声に反射的に答える。何度も繰り返されて、その都度数字だけ入れ替えてきた言葉を。
「きゃー! 区切りだね」
 後ろから肩を揺さぶって喜んでくれた秋絵は、私の背中に垂れた髪の毛を指で梳きながら心から嬉しそうに呟いてくれる。
 心から。
 自然に考え付いた言葉は重さがない。
 携帯に貼ってあるプリクラに自然と目が行く。翔と付き合い始めた頃に取った十二枚綴りの写真を、一月ずつ付けていった、最後の一枚。
 これまで十一枚色あせ、かすれて消えていった写真達の生き残り。青い背景に映る二人の笑顔はとても輝いてるように私には見えた。
 考えたことが霞んでいくと同時に、昼休み前最後の授業が終わる。一番後ろの席で少しくらい騒いでいても許されるくらいに休み時間直前の空気は淀んでいた。喫煙場所を覆う白煙。車の排気ガス。なんでもいい。そんな空間。
 自然と先生が出た後についていくように廊下に出ていた。秋絵はこれから隣のクラスにいる彼氏と三ヶ月目の弁当だ。学校でいちゃつくなんて恥ずかしくないんだろうかと感心しつつも、けしてやらない自分を知っている。
 足が向かうのはこの建物の中で空が一番近い場所。階段を一段ずつ上がるたび、自分の身体から濁ったものが出て行くような錯覚に陥る。二年、一年の空間を潜り抜けて、外の世界との境界線に立つ。いつもは鍵がかかっているけれど、たまに開いている時がある空への扉。ノブを回すと普通に開く。
 今日は、運が良い日。
 扉を開けると共に飛び込んでくるのは七色の陽光だった。空は青く広がり、遠くに見える綿雲は足をつけられるほどの密度を持ってるように見える。風の強さに制服のスカートがまくれそうになるのを抑えながら、貯水タンクみたいなものが乗ってる所へとはしごを使って登っていく。
 なんとなく、空に近づきたい。火星とか土星とか、違う惑星があるような宇宙(そら)へと近づきたかった。すかっと晴れた空を見ればこの微妙な気持ちも治まるかもしれない。
 顔を出して最初に見たのは、両手を広げて倒れている聡子の姿だった。
「ちょ、ちょっと!?」
 あまりに唐突な光景に声を上げてしまうと、反応して聡子は顔を上げた。ただ寝てただけらしいと気づくとほっとする反面、一瞬でも心配した自分が馬鹿らしくて恥ずかしくなる。勘違いさせた張本人に少し腹が立って、その勢いで今まで持っていた疑問をぶつけてみようと思いついた。
 はしごを上りきって聡子の寝ている傍に仁王立ちになる。少しでも怒りを演出するように。
「もう……言いたいことあるんだけど」
「珠美ちゃん。かりかりすると肌に悪いよ。多分」
 聡子はそう言って笑う。
 セミロングの髪は一般女子のそれよりも二倍は細いんじゃないかっていうくらいサラサラして。澄み切った黒色に手を差し込むことは男子じゃなくても憧れる。
 丸みを帯びた顔に浮かぶ目や鼻や口は大きく丸く、細く小さく、形が良い。見つめられて、匂いを嗅がれて、重ねられたら気持ち良くない人なんていない。
 そんな彼女が浮かべる屈託のない笑み。翔とは違う、純粋に楽しいから生まれた顔。
 どうしてそんな顔で笑えるの? 昨日、振られたんでしょ? これまでに二十人も振ってるんでしょ? どうしてそんなに男をとっかえひっかえできるの?
「どうして?」
 様々な言葉のうち、出てきたのはこれだけ。あまりに多くて、あまりに曖昧で、伝えられない。
 そもそも私は何を聞こうとしたのだろう。人種が違うようなこの子に――生まれついた星の下が違うこの子の何を理解できるんだろう。
「どうしても」
 聡子はそう言って笑顔を崩さないまま空を指差した。指先を追っても空色の国があるばかり。
「昨日ね、振られたよ。知ってると思うけど」
「うん。知ってる。また近いうち告白されるんじゃない」
「そうかな。次の人はどんな人だろう」
 躊躇うことなく言う聡子に後押しされるように、堰き止められていた言葉が流れ出た。
「なんでそんな簡単に乗り換えられるわけ? 振るのに慣れるのも分かるけど」
「慣れないよ」
 即答だった。言われることが分かってて、対応したような。逆に全然予期していない言葉に私は動きを止めた。呼吸することさえ忘れていた。実際、息を呑んでしまって肺から痛みがこみ上げる。
 聡子は立ち上がって虚空にある何かを掴むように両手を掲げて目を閉じる。歌うように言葉を紡ぐ。
「いくら人と別れる星の下に生まれても。慣れることなんてない」
 開かれた目には涙がたまって、いなかった。
「キリステ様はね、二十人の男の人から痛みで出来てるんだ」
 自分につけられた不名誉な名称を、聡子は知っていた。クラスでも隠す人なんていない。おおっぴらに口にしていた。その言葉への返答はいつも、さっき私に向けたような笑顔。振るのなんて気にしないと思って当たり前だ。
「珠美ちゃん。想像できるかな? 面と向かってごめん、て言わなくちゃいけない私の気持ち。付き合った後でも、告白の時でも、振るなら同じ」
「聡子」
「慣れない。何度も何度も。慣れるわけないじゃない。相手は真剣なんだからさ。私がそういう星の下に生まれたとしても」
 聡子は私に胸の内を明かしてる。泣いていないけど、きっと泣いてるに違いない。人間、泣かなくても泣けるんだ、きっと。
 またモヤモヤが生まれる。翔といる時間がモヤに包まれる。気づけば話すだけでも生まれるようになっていた、藍色の曖昧なモヤ。
「聡子。気持ち分かって上げられなくてごめんね? 聡子も辛いんだよね」
 偽善と呼ばれても仕方がない。でも私はとても言わずにはいられなかった。聡子の、心の叫びを聞いたからには。
「へ? なんで?」
 でも。
「別に辛くはないとは言わないけど、そんなに辛くないよ?」
 でも、聡子はけろっと私を見て笑った。それがやせ我慢じゃなくて普通にしゃべっているんだと理解するのに抵抗はなかった。無理なんてしていないことを肌で感じる。
「ど、どうして」
「だって。私は私と私の好きな人のために動いてるもの」
 聡子は背伸びをしてゆっくりその場で回りだす。渦の中心になって、周りの全てを取り込もうとするように。今、目の前にいる女の子は確かにそんな力を身体からほとばしらせていた。迷いがない、揺るがない力ある言葉が私を貫いていく。
「私は嫌いな人とは付き合わない。相手も私を好きだから、私も相手を好きだから付き合うの。皆、私を男に節操ないって言ってるけれど、誰とも寝てないことは伝わってないの?」
 伝わっていないわけじゃないだろう。私はそれを聞いたことはなかったけれど。多分、男をとっかえひっかえする人が男女の最後まで行ってないというのは噂にする人達には都合悪いから、誰も言わないだけなんだろう。
「ま、どっちでもいいけど。私は私が幸せになりたいし、私を好きでいてくれる人を幸せにしたい。私が付き合って、振った人達は全員、その可能性があった人達だっただけ」
 回転を終える頃には世界が彼女の中に全部吸い込まれていた。聡子の笑顔はとても綺麗で、黒い瞳に宿る光は確信に満ちていた。
「私は間違ったことはしてない。だから別に辛くはないよ。駄目だった時に確かに落ち込むけれど、そういう星の下に生まれたんだとしても、それから諦めるなんて嫌だもの、それに」
 聡子は一度言葉を切って私の目を覗き込んでくる。瞳に吸い込まれるって表現は良くあるけれど、まさか本当に体験するとは思わなかった。私は聡子の輝く瞳に吸い込まれて、虜になっていた。
「もう思いが離れてるのに、付き合い続けるのって相手に対して失礼だもの。だから別れる時はすぱっと別れるの。キリステ様だしね」
 またさげすむ言葉を自分で口にする。でも笑みは消えない。その称号が自分にとって誇りであるかのように。
 誇り。それが、聡子の身体から溢れている光の正体なんだろう。
 自分の歩いている道。その方法はけして間違っていないという自信。その自信があるから失敗しても乗り切れる。失敗の先にある幸福を信じられる。誹謗中傷なんて、聡子は消費税くらいのウザさでしかないんだ。
「そろそろ昼休み終わるんじゃない? 教室戻らないと」
「私、は。もう少しここにいるね」
 聡子は「そう」と呟いただけでもう振り返ることはなかった。去っていく姿も様になってる。これからも聡子は自分が求める幸せのために歩き続けるんだろう。周りの悪口とかなんて気にせずに。
 あの西暦の元になった人は杭を手足に刺されてしまったんだっけ。
 でも、彼女は……キリステ様は杭なんて刺さらないんだろうな。掌に刺したら杭のほうが折れるに違いない。鋼鉄の掌に阻まれる杭を想像して笑ってしまった。
 そして、自分の掌には杭がずしっと刺さっているのだとも気づいて、笑ってしまった。理解できないと思っていた聡子に、少しだけ近づけた気がした。
「失礼、か」
 胸のもやもやが晴れていく。その先にある気持ち。黒く淀んだ、彼氏への気持ち。
 いつしか覆い隠していたのは、あの人への愛情が汚れてしまって元に戻らなくなっていたという事実だった。
 付き合い始めた時は本当に嬉しかった。いつまでも一緒にいたいと思った。
 でも、少しずつ歯車は狂って行った。
 今日よりも明日。明日よりも明後日。今週よりも来週は、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら……悪くなっていったんだ。
 些細な動作。些細な言葉。原因なんていくらでもある。
 ただ、積もっていった欠片達は私の思いを存分に侵していた。どんなに洗っても取れない、泥だらけになるまで。
 でも、別れるのが嫌だった。
『きゃー! 区切りだね』
 脳裏から離れない賞賛。長く続いてることが誇らしいと皆思っているから、すぐに終わる聡子を馬鹿にしていたんだから。折角長く続いてるのに自分から別れ話なんて言いたくなかった。相手から言われるならまだしも。
「失礼、か」
 同じ言葉を呟くたびに、モヤは消えて汚れきった思いははっきりと映る。怖いけれど、逃げるわけには行かなかった。聡子は『星の下』だろうと自分を信じて突き進んでいた。
 星の下で縮こまってるだけの私達は、聡子の瞳には映らないんだろう。
 私は映してもらえた。多分、それまでは同じ映らない人達の一人だったのに。
「映ったのなら、私も頑張りたい、な」
 これが私が生まれた星の下の出来事なら。
「お、ここにいたんだー」
 聞きなれた声に振り返ると、彼氏がはしごを昇ってきていた。私を探しに来て、ここにたどり着いた。
 屋上でご飯を一緒に食べたこともあったけれど、ここの上にくるのは私だけだったはず。気づいたのは……やっぱり『そういう星の下』にいたんだろう。
「仕方がないよね。私はこういう星の下に生まれたんだろうから」
 少しだけ笑えた。これから言うことに胸が痛むけれど、それでも笑えるのは前を向いているからなんだろう。
 逃げずに。聡子のように。
 杭を抜く痛みが私を襲うけど、挫けることはないだろう。
 ほんのちょっと笑みを濃くしながら私は口を開いた。


D-05  キリステ様の掌に杭は刺さらない
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