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D-11  曇りのち雨 ところにより神さま

 その男が私の家の前に落ちていたのは、冷たい雨の降り始めた夜だった。

「……まぁ」
 仕事帰り、私はその光景を目にした。
 高そうな黒スーツに身を包んだ男が、鉄クズだか廃墟だか判断に困るボロアパートの、しかもうら若い独身乙女宅の玄関先にうつ伏せで倒れているという光景だ。
 そのうえ雨に打たれて濡れねずみ。
 ただの酔っぱらいだろうとは思ったけれど、これでも一応まっとうな社会人を名乗っているので、放っておくわけにもいかない。
「あのーすみませーん。死んでないですよねー?」
 好意的なイメージを採ればエリート検察官。小説に毒されたイメージを採れば社会の裏で暗躍するアブナイ人。
「お兄さん、生きてますかー?」
 数度呼びかけても反応がなく、いい加減蹴っ飛ばしてやろうかと足を上げた時、
「…………」
 男が低くうめいて背中を丸めた。
 冷凍イカが解凍されているような動きでゆっくりと長身を起こし、さまよっていた焦点を合わせ、何故か少し赤く腫れている額に手をやりまたうめく。
「あのー」
 声をかけると、
「え?」
 初めてこちらの存在を知ったらしく、愛嬌と気難しさが入り混じった顔が振り返ってきた。
 力の強い黒い目が強烈に残る、良くも悪くも素直な顔だ。
 この男はきっと、検察官でも裏の人でもない。
「大丈夫ですか?」
 彼は私の心優しい問いには答えず、代わりとばかりに訊いてきた。
「君は、こんなトコに住んでるの?」

 私が問答無用で男を蹴り倒したからと言って誰が責められるだろう。
 どうして私がこんなトコロ──空はスモッグに覆われていつでも暗く、絶えずどこかで水漏れの音がして、コンクリートがひび割れガラスが微塵になったお化けビルの続く廃街──に住んでいるのかなんて聞くまでもない。
 この星のどこへ行ったってこんなものなのだ。
 どこもかしこも崩れかけ。どこもかしこも暗くて不毛。大気も水も土も汚染され、見える限り色はなく、死んだように静か。
 完全に壊れていれば再興も早いのだろうけど、いかんせん全てが中途半端に壊れているのでどうにもし難い。
 建物は斜め、外壁は剥がれた部分の方が多く、配管はむき出し、ネジは緩みっぱなし、電気はあちこちでショート、鉄板は錆びだらけ、肺へ吸い込む空気は砂っぽく、金属の朽ちてゆく臭いが消えない。
 黒い風が吹けば、ぎぃぎぃと死人の歯軋りするような音が街中に響く。
 こんなロクでもない文明の遺産を壊して更地にするのにさえ金がかかるのだから、大抵の人間はそのままにしている。そんな面倒臭いことでもやってくれるオカネモチと言われる人種は、まだどこか安全な場所に逃げ込んだままなのだろう。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 上から見たらここにホントに人が住んでるなんて思えなかったから!」
 男は、足蹴にされながらまだそんなことを口走っている。
 もう一回眠らせてやろうか。
「また皇帝が嘘付いたかと思ったんだよ!」
 頭を抱え、両手を広げ、忙しない男が口を尖らせる。
「あの人何かと嘘ついて脅すんだから」
「誰」
「ルドルフ皇帝。僕らの中で一番偉いヒト。ホントは皇帝じゃないんだけど、皇帝って呼ばせるんだよ」
 そいつはホストクラブのオーナーか何かだろうか。
「僕が放っておいたからこの星はこうなったんだって大目玉喰らってね。お前のせいで荒れたんだから、お前が責任持って再生させて来いって落とされた」
 はぁ。
「だって、人間がちょっと道外したからって海の底に沈めたり雷で焼き尽くしたり水で押し流したりなんて、野蛮だと思わないかい?」
「…………」
 かい? と同意を求められても困る。
 ここは話に乗るべきなのか、それとも常識を盾にすべきなのか。
 私が返事に窮して黙っていると、彼は心配そうに顔を曇らせ、しかし次の瞬間にはぱっと笑顔をひらめかせて手を打った。
 そそくさと立ち上がり、スーツの泥を払い、しゃんと背筋を伸ばして私に向き直ってくる。
「自己紹介がまだだった。僕は神さまをやってるレスレッティ。貴女は?」
「……菱 天音(ヒシ アマネ)」
 何故か、名乗っていた。
「そう。よろしく」
 何故か、差し出された手を握っていた。
 凍えきり、ひどく冷たい手だった。

 それから、その“神さま”を名乗る男は私の家に居ついてしまった。
 改めて聞いたところによると、『星の再建』が彼の使命なのだそうだ。この荒廃しきった世界を建て直す、そのために天から蹴落とされたのだ、と。
「神さまならパパッと出来るんじゃないの?」
 夜。珈琲を渡しながら意地悪く白い視線をやると、
「神さまってのは地道な仕事なんだよ」
 レスレッティは頬杖をついてテレビを見ながらため息をついてきた。
 彼の憂鬱とは逆に、テレビの中のアイドル歌手は能天気な受け答えを繰り返している。
「ねぇ、僕は何をしたらいいと思う?」
 真剣に悩んでいる目が、私を映す。
「アナタは何をしたらいいと思うの」
 カップに口をつけてからゆっくり訊き返すと、彼はしばし口を結び、言った。
「花を咲かせる」
「そうね。まずはそこからだわ」
 根拠はないけれど、それでいい気がした。
「今の季節だったら──」
 太陽がスモッグに遮られて久しいので薄ら寒い日が続いていたが、カレンダー上は春から夏の境目といったところ。
「ビオラがいいんじゃない?」
 単に、可愛くて色鮮やかな花が他に思い浮かばなかったという選択。
 けれど彼はその提案が気に入ったらしく、翌日私が仕事から帰ると、部屋の片隅を植木鉢の一団が占拠していた。
「種から始めるの?」
 のぞき込んだ植木鉢には緑がない。買ってきたのか掘ってきたのか、黒い土が入っているだけ。もっとも、そこらへんの土を持ってきたのではきっと芽は出ない。そういう土になってしまっているから。
「神さまは一からやるのさ」
 本当はやり方知らないだけじゃないの? と疑う私を他所に、レスレッティが胸を張る。
「最初から最後まで責任を持たなきゃ。己の決断には己の身を賭すべし。……まぁ、だから僕は今こんなとこにいるわけだけど」
 未だに“こんなとこ”と言える度胸に感心しつつ、私は植木鉢から離れ彼の横に座った。
 真正面に見えるテレビには、大きくズームアップされた野球選手の姿。試合の流れさえ分かればいいのか、音量はかなり小さい。
 話しかけても邪魔にはならないだろう。
「レスレッティ。アナタは何を決断したの?」
「何もしないことを決断したんだ」
 横を見やると、彼の黒い双眸はテーブルへと落とされていた。
 細い指が、あごを撫でている。
「僕が何もしなかったらこの星はどうなるか、見てみたいと思った。自分の身を賭ける前に、君らを賭けた。君らの命を駒にしたんだ」
「違う。自業自得よ。アナタのせいじゃない」
 彼をかばったわけではなかった。まだプライドが残っていたのだ。ここに至って他人のせいにするほど救い様のない人間にはなりたくない、と。
 けれど彼は首を振った。
「神さまってのは、道を示すためにいるんだよ」
「そう?」
 私は彼から視線を外し、窓の外を見た。
 月のない夜。星の瞬かない夜。
 ベランダから一本の枯れ木を隔ててすぐそこに迫っている隣のビルでは、崩れかけた天井の狭間で、蛍光管がチラチラと瞬いている。
 誰も取り替えようとはしない、末期の蒼白い光。
「神さまが行くべき道を示したって従わなきゃ同じことでしょ? それに、みんないちいち言われなくたってどの道を選ぶべきかは分かってるのよ。勇気がいるから選ばないだけで」
「ひとりでは選べない。でもふたりなら少し心強い。そのふたり目になるのが神さまの役目だろ?」
「そういうものかしら」
「そういうものさ」
 世界の過去について話すとき、彼は必ず思い詰めた顔をする。そういう顔をされるとこっちまで苦しくなってくるものだから、私は決まって話題を未来に向ける。
「ねぇ、明日は何をするの? ビオラ、まだ芽は出ないわよね?」
「そりゃ、まだ出ないよ」
 “神さまなら一夜で花を咲かせてみれば?”と言いたいところだが、あまりいじめると可哀想なのでうなずいておく。
 未来を描く時の彼は生き生きしているのだ。それはきっと、神さまが持っていなくてはいけない資質なのだろう。
 常に前へ。常に明日へ。

 そんな風にまったり時が流れ、並べた植木鉢に緑の双葉がぽこぽこ開いた頃。
 夕食作りのためキッチンに立っていた彼が言った。
「作りすぎたからお隣におすそ分けしてくる」
「……何を作りすぎたの」
 訊いてみたものの、匂いで分かる。
「トマトチャウダー」
「お隣って、私、誰が住んでるか知らないけど……」
 というか、人が住んでいるのかどうかも知らない。
「大丈夫、おばあちゃんがひとりは住んでるはずだから。この間ベランダにいるの見た」
 何が大丈夫なのか、彼は小鍋を片手に部屋を出て行った。この男はどこからともなく食料を調達してくるのだけれど、それにしたってトマトチャウダーなんてハイカラなもの、大丈夫だろうか。
「…………」
 私がお預け状態でじっと待っていると、
「はい、どうぞどうぞ〜」
 玄関でレスレッティの声がした。
 察するに、おすそ分けではなく夕食に招待することにしたようだ。
 案の定、ふぐの暖簾をくぐって現れたのは背中のまがった白髪の老婆。
 続いて現れたのが鍋片手の神さま。
 彼はそこで初めて、家主である私に了解を取っていないという事実に気が付いたらしい。柔らかい笑顔にはっと暗い影を横切らせ、
「一緒にいい?」
 訊いてくる。
 ここでダメだと言っても彼は軽蔑しないだろう。そういう男だ。
 かといって別に断る理由もない。
 私たちは三人でレスレッティの作った夕食を囲み、他愛のない話をした。
 旦那さんとは随分前に死に別れたこと、レスレッティくらいの息子がふたりいること、ふたりとも結婚して子供がいること、最近はめっきり連絡を寄越さないこと、お迎えがくるのは時間の問題だから、その前にもう一度だけ孫の顔くらいは見たいこと。
 この間と同カード・同スコアの野球中継をBGMに、おばあさんの話は尽きなかった。
 それだけ独りは味気なかったのだろう。
 その日を境にレスレッティは時折お隣へおすそ分けに行き、あるいはおばあさんを夕食に招待するようになった。
 一方おばあさんは錆びた廊下を掃き掃除するようになり、私はといえば出勤ついでにゴミ出しを手伝うようになった。
 ゴミを渡されるたびレスレッティのことをベタ褒めされ、つまりは私のことなんか眼中にない様子だったけれど、何故か悪い気はしなかった。
 自分以外の人間に彼の頑張りを認めてもらえたようで嬉しかったのかもしれない。

 そんな、彼のビオラが順調に本葉の数を増やしていたある夜。
 家に帰ると誰もいなかった。
「…………」
 他人が出入りする家は、自然と綺麗になる。カーテンの色はそろえられ、掃除は毎日、玄関には明るい造花、でこぼこなフローリングに雑誌が散らばっていることはない。
「レスレッティ?」
 耳を澄ますと、外から変な音が聞こえた。
 穴を掘っている音だ。
 音を辿ってベランダから身を乗り出してみると、確かに彼が穴を掘っていた。
 隣のビルとの狭い空間、それでも健気に立ち続けている枯れ木の周りを掘っている。どこから連れてきたのか、数人の子供たちと一緒に。
「何してるの?」
「あぁ、お帰り」
 疲れの混じった緩慢な動作で彼が上を見上げてくる。埃と塵にまみれた子供たちも顔を上げてくる。手は土だらけだ。
「何を埋めてるの?」
 返事の代わりに掲げられるザル。
「りんごの芯?」
「とか色々、生ゴミ。肥料になるかと思って。土が頑張ればこの木だって葉を付けるよ」
 そうしたらもっと空気がキレイになる。空気がキレイになればもっと緑が増える。緑が増えれば土も水も良くなる。
 彼は遥か遠い未来を眺める目で笑った。
 そうだといいねと子供たちも笑っていた。

 だがその日は意外と早くやってきた。
 ある朝起きると、キッチンで目玉焼きを作っていたレスレッティが嬉々とした調子で飛んできた。
「天音、見て。ビオラ咲いたから!」
 言われるがまま窓際に並べられた植木鉢を見に行くと、黄色、白、紫の小さな花が精一杯開いて朝陽を浴びている。
 陽の光を見たのは、どれくらいぶりになるだろう。
「咲いたんだ。すごいじゃない」
 褒めると、神さまは両手を腰に当てながら破顔する。
「外の木にも芽が出たんだよ」
 促されてパジャマのままベランダへ出ると、隣のベランダにはおばあさんがいた。いつもと変わらない煤けた割烹着姿で、ぺこりと挨拶をしてくる。
 会釈を返してとりあえず空を仰ぐと、粉塵なのかスモッグなのか雲なのか、やはり重く厚い灰色。しかしわずかな切れ間が出来ていて、そこから白金の光が差し込んでいた。
「この星が一歩再生に近付いたお祝いをしよう。紅茶のミルクを多めにしてね」
 手すりを握れば赤茶の粉がつくベランダ。そこから見下ろした枯れ木には、確かに、ぽつぽつと黄緑の芽吹きがあった。
 どれだけ世界が壊れても、未来は確実にやってくるのだ。
 神さまが前を見続ける限り。

「ねぇ」
 部屋の中では、テレビに目をやったらしいレスレッティが何やら不満げな声を上げていた。
「このニュース何度も見てる気がするよ。このナントカって政治家が辞職するってやつ。辞職するって言いながらずーーーっと引き延ばしてるのかな? それに野球だってそうだよ。この星には2チームしかないの? いつも同じ試合ばっかり」
「……再放送なんじゃない?」
「野球はともかく、朝のニュースを再放送するわけ?」
 納得はしていないのだろうが、彼が椅子に腰掛けた音がする。
「まぁいっか、それで困るわけじゃないし。それはそうと天音、感慨はそれくらいにしないと会社に遅れるよ。まだまだ再生の道は長いんだしね」
 彼にしては饒舌なのは、上機嫌な証拠だろう。
「見ててよ、世界はもっと美しくなるから。僕はもっとたくさんの色を咲かせるから」
 そう言ってくれる神さまを背に、再び生き始めた新緑の枯木を前に、新しく命を刻み始めた色まぶしい花を心に、私は考える。
 どうやったらこの人を傷つけずに真実を告げられるだろうか、と。

 貴方が導くべきなのは、私やおばあさんや子供たちや……この街の人間じゃない。
 私たちは、貴方が育てるこの星と共に行くことはできない。
 もう、前には進めない。
 とうに、貴方からもらった命は尽きているのだから。

 彼が私に話しかけた時、彼と同じものを食べた時、分かっていたのに言えなかった言葉がある。

 ──探しなさい。どこかに必ず、生き残っている人がいるから。貴方は彼らと一緒にこの星を再建しなさい。

 背中に気配がして振り返ると、ティーカップを手にしたレスレッティが立っていた。
「何、考えてるの?」
 真っ直ぐな黒い目に、不安がひとさじ。
 ねぇ、そんな顔をしないで。
 貴方が笑っていなきゃ、世界に晴天はやってこないのよ。


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