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E-05  いとしのメリラ

「なんだとぉぉ!?」
 嘆きを帯びた叫び声とともに、純白のドレスが男の手によって空中に開陳された。軽いレースのひだが重力に抗ってひらひらと宙を舞い、光沢あるシルクが空気をはらんで丸く膨らむ。
 義姉が二年前に着たお古のウエディングドレスは、胸飾りを一新され、バストに関しては大きな声ではいえない修正を施され、まだ着る者のない今ですらその華麗さを存分に周囲に知らしめしていた。
 と、同時に、悲惨な状況も明らかになる。
 背面のスカート部の装飾は無残に引きちぎられ、その残骸の半分は床に白い芋虫のごとくのたうち、残り半分は部屋の隅の方で恐れおののいているメイドの手に、きつく握り締められている。さらにその下の布地には、悪魔の微笑みのように憎たらしく弧を描く亀裂が大きく口を開けていた。
 ドレスを持った男は、怒りと驚愕のあまりそのまま気絶しそうに見えた。白目を剥く一歩手前の状態で頭を仰け反らせて震えていたかと思うと、不意に頭を垂れ、地獄の底から響いてくるような呟きを発し始める。
「製作中は部屋を閉め切りにさせて戸締りを厳重にさせたし、試着は二分ぽっきり、ドレスが完成してからはずーっと、俺が肌身離さず死守していたというのに――」
 正常に表現できる範囲に怒りが収まってきたのか、次第に高まりつつある声とともに彼は顔を上げた。
「どうして結婚式当日になってこういうことになるんだ!! メリラ!」
 怒鳴るように妹の名前を呼びつける。すると、仕切り布の隙間から、プラチナブロンドの娘が顔を覗かせた。未だそばかすの消えない顔は、幼げな印象を抱かせる。彼女は悪びれない表情で丸い瞳を大きく瞬かせてみせた。
「メリーがいけないんですのよ、お兄様。あの子が木の上に登って降りられなくなっていたの。あの子、好奇心が強いくせに臆病だから、私が助けてあげなくちゃって……思ったのに、私が助けに行ったら驚いて飛び降りちゃったのよ。薄情な子」
 すねたように唇を突き出し、さも自分がメリーを助けられなかったことが最大の問題であるかのように、ここにはいない白猫に向かって恨み言を洩らす。
 違う、全然違う。メリラの兄、フィリックはもはや怒りを通り越して青くなった顔を横に振った。今問題になっているのは傷ついたウエディングドレスである。
「だからって、窓から枝に飛び移ろうとするか? しかもドレスを着たままでだぞ!? ナニーとリューシュがドレスの裾を掴まえなかったら、おまえは二階からまっ逆さまに落っこちてた!」
 言ってから、そのさまを想像してフィリックは身震いをした。危機一髪のところで窓から宙吊りになった当の本人の方があっけらかんとしている。
「それは違うわ。二人が邪魔なんかしなければ、ちゃんと向こうの枝に飛び移れて、ドレスも無事だったのよ」
 どこの世界にウエディングドレス姿で空中曲芸を演じ、木登りしてそれでもドレスは無事よと言い張る花嫁がいるか。フィリックは花嫁が白いヴェールの代わりに、鳥の巣を頭の上に乗っけている図を思い描いて空恐ろしくなった。
「あれだ、あの猫、メリーがすべての元凶だ! 今日に限って、メリーを外に出したのはどこのどいつだ!」
 心の平穏のために、なんでもいいからこの騒動の原因を常識的なものに(非常識な妹ではなく)求めたい一心で叫ぶ。すると、メイドのナニーがおずおずと口を開いた。
「メリーがドレスの裾を引っ掻くといけないので、外に出しておけと、フィリック様が」
 それを聞いた途端、ぴたりと動きを止めたフィリックに、妻のリューシュが心配そうに近寄る。だが、彼は大丈夫だというように片手を広げてそれを遮った。体勢を立て直し、額をぬぐって、そして、追い詰められたような笑みを洩らす。
「ふっ、いいさ。ウエディングドレスなどなくても構わん。メリラ、おまえはずっとこの家にいていいぞ。俺が面倒をみてやる。あんなアメリカかぶれなんかと一緒になることはない。ウエディングドレスなど捨ててしまえ!」
 と、豪快に言い放ち、爽快そのものの顔でドレスを投げ捨てるフィリックに、リューシュとナルセルが揃って顔を引きつらせる。しかし、メリラだけは目を輝かせていた。
「素敵、お兄様! 私、お兄様のためにウエディングドレスくらいは着なくちゃって思ってたけど、そう言ってくださるなら、私ももう遠慮はしないわ。結婚式って、必ずしもドレスでなくてもいいと思うの!」
 ある意味、誰よりも兄の動かし方を知っている妹である。兄は明らかに衝撃を受けた顔で、キラキラした笑顔を浮かべる妹を見詰めた。夢見心地でウエディングドレスの代案を考えている。その後は決まって、いたずらを思いついた子供の顔つき。
「そうだわ、女性はみな仮面舞踏会のように顔を隠しておくのよ。そこから花婿が花嫁を探し出すの。リカードは七年ぶりで私のことがわかるかしら」
「いやだわ、ロマンチックな演出じゃないの」
 リューシュが顔を赤らめて言う。てっきり、青髭伯爵とその妻の扮装、とか、新大陸の先住民の恰好で踊り狂うとか、そういうのを想像していたフィリックは逆に拍子抜けしていた。彼の結婚式のときには、近所の悪ガキとともに花嫁を攫い、返してほしければ愛を証明してみせろ、などと茶番を仕掛けてきて恥ずかしいことを散々させたくせに、そのメリラにしてはまったく生温い。
「演出ではないぞ、リューシュ。リカードは責任をもって自分の選んだ花嫁と結婚するんだ」
「フィリック!」
 リューシュが強い声で諫める。だが、メリラの顔が意地で赤く染まるのを見てしまうと、ほんの冗談のつもりでも、もはや後には引けなかった。二人とも、一度言い出したことは死んでも引っ込めない性質なのだ。
「ナニー、別のドレスを用意して! 村中から未婚の娘を集めるわよ」
「ちょっと、本気なのメリラ?」
「リカードはもてたからな。アメリカで一旗揚げてのご帰還となれば、女どもは放って置かないさ。きっと競って参加するぞ」
「止めなさいよ、フィル! 遊びが過ぎるわ。七年前といったら、メリラはまだ十三歳じゃない。今とはまるで別人よ! ねえ、メリラ、写真を送ったりはしてないの?」
 着替えを終えて仕切り布の向こうから出てきたメリラは、その問いに険しい顔で答えた。唇を噛んだまま黙っている。そんな、とリューシュは顔を青くする。フィリックは愉快そうに笑った。
「文通だけでは、リカードが豚のように肥えていてもわからんぞ。そのときのためにも、プラチナブロンドの娘を特に集めておくといい。あいつの顔を見て嫌になったら、身代わりを差し出してやれ。わかりゃしないさ」
「リカードはそんな人じゃないわ!」
 真っ赤な顔でメリラが怒鳴る。彼女が足音も荒く部屋を出て行くと、後には仏頂面のフィリックが残る。一言文句を言ってやろうと夫を振り返ったリューシュは、彼が床からウエディングドレスを拾い上げるのに気づいた。
「フィル、何をするの」
「決まっている。直すのさ。仕立て直したときの布がまだ残っていただろう。ナニー、あるだけ持ってきてくれ」
 そうメイドに言いつけて、自分は引きちぎられたひだ飾りを慣れた手つきで縫いつけ始める。
「縫い物できたの!?」
 リューシュは目を丸くして叫んだ。しかも、速い。リューシュよりも上手いかもしれない。
「あいつが昔――いや、今もだが――服をずたぼろにして帰ってくるたびに、俺が何度繕ってやったことか。次はやんちゃな遊びができないようにと、レースとフリルを五割り増しにして……。それなのにあいつは、いつも他の子と服と交換して帰ってくるんだ」
 往年の悔しさがあるのか、一時手を止め、針を持つ手を震わせている。この男が縫い物をするなんて心底意外に思えたが、そう言われるとまるで想像に難くない。ありありとその様子を思い描いて、リューシュは思わず噴き出した。
「こら、笑うな! だから黙ってたのに!」
 赤面するフィリックを見て、また微笑みを浮かべる。彼は分が悪いのを悟って縫い物に戻った。
「元通りになる?」
「元通りは、無理だ。飾りを増やして裂け目を隠すしかない。レースとフリル五割り増しで、だ」
 できるだけ軽く、シンプルに、というメリラの要望から遥かに遠ざかるであろうウエディングドレスを思い浮かべて、二人は顔を見合わせて笑った。
「でも、間に合うかしら?」
「メリラが花嫁探しで時間を稼いでくれれば、なんとか」
「あら、そういうことだったの? 私はてっきり本気なのかと思っちゃったじゃない」
「まさか、俺は本気だ。リカードが誰を選ぼうと、その娘にこのウエディングドレスを渡すつもりだ」
 途端にむすっと言い切る夫に、リューシュは眉根を寄せた。
「もう、この意地っ張り!」

 テーブルと食事が用意された庭に、続々と仮面をつけた娘たちが集まりだすと、窓の下は即席の立食パーティの様相を呈しはじめる。リューシュはその準備に忙殺されていて部屋にはいない。一人黙々とドレスを修繕していたフィリックは、ノックの音にふと針を止めた。顔を上げる。
 返事を待たずに扉の向こうから仮面をつけた女が現れたとき、彼は思わず息を止めていた。仮面の下から見慣れたいたずらな笑みが顔を出したときには、押し寄せる安堵と同時に波打つ鼓動を意識していた。
 いつもは嫌がるドレスも、遊びとなれば俄然やる気になるのがメリラだった。そして、その気になればその辺の淑女よりよほど美しくなれることは、フィリックが誰よりもよく知っていた。ガキの頃のメリラしか知らないリカードに、見分けられるがはずがない、と強く思う。
 メリラは、リカードと結婚できない。
 後ろめたい喜びとともに罪悪感が胸を打った。今、謝ればいい。今ならまだ、式の前の余興で済む。だが、彼が口を開く前に、メリラが先ほどとはうって変わってしおらしい様子で言った。
「お兄様にお願いがあるの」
 フィリックはドレスを置くと、立ち上がって妹を迎えた。
「どうした?」
「これを、私の胸につけてくださらないかしら」
 言い難そうに目を逸らしながら、メリラが銀色のバッジを差し出す。星の形をした、薄汚い古いバッジだ。それを受け取りながら、顔をしかめる。
「こんなものをつけたらドレスが台無し――」
 言いかけて、ハッとした。この銀色のバッジには確かに見覚えがあった。メリラが兄の表情を読み取って、さらに恥じ入るような表情になる。
「やだ、憶えてらっしゃるの? 七年前、お兄様が三日かけて探してくださったバッジです」
 そうだった。珍しくメリラが泣きついてきた。庭でなくしたバッジを探してくれないか、と。何ごとも自分で解決する妹に、頼まれごとをすることも頼られることもほとんどなかったフィリックは、嬉々としてバッジを探した。丸三日地面を這いずり回って、メリラのように泥だらけになって見つけたのが、そのバッジだった。メリラは泣いて喜び、彼はただ純粋に、兄妹の絆を繋ぐものとしてそれを記憶した。
 今、その過去からやってきた品物を目にして、彼はその本当の意味を理解していた。あのときは、まるで考えもしなかった。メリラがそれをどこで手に入れ、何故なくしたのか。
 不意の真実に対する慄きがフィリックを襲った。それでも、手の震えを抑えて何とか妹の胸にバッジをつけ終える。
「ありがとうございます。お兄様があのときこれを見つけてくださらなかったら、私――」
 メリラはそこで口を閉ざし、仮面をつけた。謎の女になって微笑み、一礼して部屋を出て行く。残されたフィリックは、力の抜けた人形のように椅子に座り込んだ。妹はささやかな免罪符を得るために、彼にだけその仕掛けを打ち明けに来たのだ。
「卑怯だぞ、メリラ」
 ひとり、呟く。
 星型のバッジは中央に文字が刻まれていた。
 『U.S.A.』の文字が。

 純白の花嫁と花婿が並んで人々の祝福を受けている。結局、リカードはデブじゃなかったし、間違った花嫁を選び出すこともなかった。ドレスは間に合い、二人はつつがなく愛を誓い合った。
 メリラは、結婚してしまった。
「そんなにメリラとヴァージンロードを歩けなかったことが不満?」
 恨めしげに花嫁を見詰めているところに、突然妻の声がして、フィリックは思わず酒を噴出しかけた。当然ながら、その役は父親がやったのだ。彼の反応を見てリューシュがくすくす笑う。フィリックはますますむっつりした。
「不満だよ、何もかも不満だ」
 アメリカ帰りの男がこちらの視線に気づいて笑顔を向けてくるのを、すっぱり無視してグラスをあおる。
「俺より年上だし、俺より長身だし、俺より頭がいいし、俺より金持ち。顔は、俺の方が上だが」
 最後の付け足しにリューシュが笑った。冗談じゃないぞ、と胸中で呟く。
「それに、メリラを愛してるわ。あれだけの娘たちの中から、一目で彼女を見つけ出したのよ。すごいわ」
「だが、それは演出だよ」
 フィリックは陰気に言った。
「花嫁選びのときに、メリラが銀色のバッジをつけていたのに気づいたか? あれは、七年前、リカードがアメリカに行く前にメリラに贈ったものだったんだ」
「本当? ふたりはそんなに昔から将来を誓い合っていたの?」
「……知らない。あの二人の間にどんな約束があったのか。それとも何もなかったのか、それは、わからない」
 四歳も年上の秀才とガキ大将顔負けのおてんば娘。子供ならば尚更、縁のない組み合わせだ。面識はあっても特別関係がなかったことは、フィリックが一番良く知っている。
 だが、恋はどうだろう。たとえ、ろくに口を利いたことがなくとも、たとえ、お互いのことを良く知らなくとも、恋は。
 リカードがアメリカで成功したあと、フィリック宛てにふらりと舞い込んだ手紙の、本当の宛名は誰だったのか。
「ただ、メリラは七年の間ずっと、そのバッジを大切に持っていた。そして、恋人を作らず、今まで結婚もしなかった」
 それはメリラが無邪気で純粋であるゆえに、恋を知らぬだけだと思い込んでいた。本当は――自分を置いて大陸に渡った男を憎らしく思って、貰ったバッジを一度は投げ捨てたりもした。メリラは、普通の女の子と何も変わらなかった。
「俺は、今日までは――メリラが結婚するその日までは、あの子が自分のものでいてくれると、勝手に思っていたんだ。それなのに、あいつの心の中には、七年も前から別の男がいた……!」
 裏切られたような気さえしていた。おてんばメリラに嫁のもらい手はないだなんて、嘘ばかりだ。詐欺師の女に引っ掛かったような気分だった。女の子らしさなど欠片も見せずに、知らぬ間に恋の片棒を担がされていた。もし、あのときフィリックがバッジを見つけなければ、メリラはリカードを待ってはいなかったかもしれないのに。
 フィリックが俯いて顔を覆うと、リューシュが隣に来て、優しく彼の首筋に手を回した。こめかみへの口付けに、こそばゆい息吹を感じる。
「笑っているな、俺を」
「そりゃあ、おめでたい日ですもの。一人で泣いたってダメよ、フィル」
 そう言うと、リューシュは彼の頭を抱くようにして顔を寄せた。
「リカードは七年も昔に送ったバッジをちゃんと覚えていた。それは、演出のうちには入らない。彼のメリラへの思いは本物よ、そうでしょう?」
「……わかってるよ、そんなことは」
「なら、お祝いを言ってきなさい」
 リューシュに背中を押されて、フィリックは立ち上がった。丁度そこに、人の輪を出たメリラが駆け寄ってくる。
「お兄様!」
 腕の中に飛び込んできた妹を彼は抱きとめた。豪快な妹に接したときの常で、複雑な感情が丸ごと消し飛んでいく。
「おめでとう、メリラ」
 妹が胸の中で泣いていることに気づくと、フィリックはそれが自分の本心からの言葉であることを認めざるを得なかった。胸の内側と外側、その両方が熱い。
「お兄様、メリラがアメリカに行っても忘れないでください」
「うん」
「私がいなくなったら寂しくて死んじゃうんじゃないかって、心配です」
 いつもと逆の立場に、思わず苦笑する。
「おまえだって、何か嫌なことがあれば、来年あたり離婚して帰ってきてもいいんだぞ」
 メリラが身体を離して、泣き笑いの顔をつくる。
「――やだ、お兄様ったら、面白い」
 冗談じゃないんだぞ、と釘を刺そうとするのを、花婿の咳払いが遮った。花嫁は花婿の手に、夫は妻のもとへと戻る。
「あなた」
 他の参加者の挨拶へ向かう二人を見送り、思わず目を潤ませていたフィリックは、それを堪えてリューシュを振り返った。
「なんだよ、随分嬉しそうじゃないか」
「当然じゃありませんか。今日は結婚式なんですもの」
 澄まして身を寄せてくる妻に、彼もそ知らぬふりで腕を回した。


E-05  いとしのメリラ
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