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E-10  フォーチュン・スター

 不幸の星の元に生まれた――という定型のフレーズがある。
 それはつまる所、不幸というものの種類は星の数ほどある、という意味だと私は思う。病気や怪我をしたり、大事なものを無くしたり、誰かと仲たがいしたり……いやまあ、人間の身にふりかかる出来事の半分が幸運で半分が不運なのだと考えれば、そんなの当たり前のことなのだけれど。
 かように不幸とは多種多様、たぶん道で行き逢う人の頭の中をかたっぱしから覗いてみれば、みんな必ず一つやふたつは心配事を抱えているに違いない。
 でも。私の、十四年間の人生で知り得た限りにおいて、不幸のサイズではなくレアリティ……つまり、おおよそ有り得ないほどの確率で不運なる偶然に見舞われてしまった人を問われれば、それはもう考えることもなく即答できる。
 今この瞬間、教室の真ん中いちばん前の机で、屈みこむようにして独りお弁当を食べている女の子。紺のブレザーの生地を通して肩甲骨のかたちがはっきりわかるくらい痩せている。頭の傷痕を隠すための黒いニット帽を深くかぶって、でも何より痛々しいのは顔を横切る白い眼帯。
 彼女の名前は水村アカネ。私とは幼稚園に入った時からの無二の親友で、それこそ朝から晩まで一緒だった。小学校の六年間、そして中学二年になった今年まで例外なく同じクラスで、私はアカネとは運命で繋がってるんだと本気で信じていた。ケンカなんか、一度だってしたことはなかった。
 でも、ちょうど一年前の冬に降りかかったあの出来事、あの不幸の星のせいで、何もかもが変わってしまったのだ。

 十二月、学校からの帰り道だった。
 私は生来ちょっとぼんやりしたところがあって、自覚はないのだが注意力に欠けるらしい。頻繁に何かに躓いたり、自転車のベルを鳴らされたりするので、登下校のときはいつもアカネに手を繋いでもらっていた。子供じゃないんだから、と気恥ずかしく思う部分もあったが、守ってもらっている幸福感のほうが大きかった。ほんとうに、十年間も私はアカネに依存しっぱなしだった。
 しっかり互いの手を握って、その頃二人ではまっていた小説の話をしながら、とある高層マンションの前に差し掛かったときだった。
 アカネが口をつぐみ、ふいっと空を見上げた。つられて私も上を見た。灰色の雲が、どこまでも厚く垂れ込めていた。
「どう……」
 したの、と言い終える前に、アカネが私を抱えるように路上にしゃがみこんだ。直後、今でも耳の奥に残る、とてもとても嫌な音がした。生木に釘を打つような、くるみを道具で割るような、湿っていながら乾いている音。
 アカネの体が、私の上でずるっと滑り、歩道に転がった。白い側線、黒いアスファルト、白いマフラー、黒いコート、白い頬、黒いロングヘア、モノトーンの記憶のなかで、アスファルトに広がる赤い血の色だけが鮮やかに焼きついている。
 マンションの上層階から誰かが石を投げたのだ、というのが警察の発表だった。それがアカネの頭の骨を砕き、ごく一部が脳の奥深くにまで突き刺さった。二ミリほどの小さな欠片だったけれど、手術では取り除けない位置で、どうにか命は取り留めたもののアカネは十日も目を醒まさなかった。自慢だった艶やかな髪は無惨に剃り落とされ、右の側頭部には消えない大きな傷痕が残った。
 失われたものはそれだけではなかった。脳に受けた損傷のせいで、アカネは視力に重大な障碍をきたした。今では、左眼は完全に失明し、右目も〇.一程度にしか見えない。眼球の異常ではないので、メガネやコンタクトでは矯正できない。
 そして最後に、もうひとつだけ損なわれたものがあった。
 私とアカネの、友情。
 昏睡から醒めたアカネは、人が変わってしまったかのように、私をそばに近づけようとしなかった。口も一切きこうとしない、それどころか病室に入ることすら許して貰えなかった。白い眼帯のひもに挟まれた右の瞳を、私に向けようとさえもしなかった。
 アカネが生きていただけでも喜ぶべきだ、そう思いはしたけれど、でも私は毎晩ベッドの中で泣いた。なぜなら、アカネのその態度の理由が私にはよく理解できたからだ。あの事件の瞬間、アカネは反射的に私を庇った。石の降ってきた方向と二人の位置関係からして、そうしなければ直撃を受けていたのは私のほうだった。物心つく頃からずっと私を守ってきたアカネ――染み付いた義務感があの瞬間もそうさせたのだ。だから、ある意味では、彼女の人生を破壊したのは私なのだ。
 大人たちは、あれほどの大怪我をして助かったのは奇跡だ、アカネちゃんは幸運だと口々に言った。
 でも、そうではないことを、私と、おそらくアカネだけは知っている。あれはやはり、とてつもなく微小な確率で降りかかった、それゆえにとてつもなく極大な不幸だった。
 犯人は掴まらなかった。
 当然だ、犯人なんかいない。アカネに続いて上を仰いだあの一瞬、私は確かに見た。灰色の空を背景に瞬いた、オレンジ色の光を。
 アカネを直撃したあの石は、間違いなく、輝きながら落ちてきた。大気との摩擦で燃えていた。つまりあれは――流れ星なのだ。宇宙から降ってきた隕石なのだ。それ以外に、落ちてくる石が光る理由なんかない。
 警察も、親たちも、誰も信じようとはしなかった。隕石なんてものがぶつかって、生きていられる人間はいない、皆がそう言った。
 私はいまでも毎朝毎夕、あの場所に差し掛かるたびに地面を見回し、問題の石を探しているが、しかしいっこうに見つからない。警察の鑑識員たちが付近をしらみつぶしにしても発見できなかったのだ、私ひとりが探したところで無駄なのはわかっていたけれど、でも、どうしても証明したかった。せめて、アカネを傷つけたのが、人間の悪意ではなかったのだということを。計算もできないほどの確率でその時その場所に落下した、小さな不幸の星だったのだということを。
 アカネは事件以後、もうじゅうぶんすぎるほど、人の悪意に晒されつづけているのだから。

 独りで食べる味気ないお弁当を片付け、ジュースの紙パックにストローを挿しながら顔を上げた私は、嫌なものを見た。
 相変わらず抱え込むような姿勢で食事を続けているアカネの左側で、机を二つくっつけて賑やかにお弁当を広げていた女子三人が、最近とみに目に余るようになってきた悪ふざけを始めていた。一人が箸にミートボールを挟み、そっとアカネの左頬に近づけている。それを見ながら、残り二人は声を殺してくすくす笑っている。
 アカネの左眼は眼帯に覆われているし、右眼もぼんやりとしか見えないために左側の視界は無いに等しい。最初に、アカネの左側で変な顔をすると言った幼稚な遊びを編み出したのは男子だったが、今では一部の女子がそれをより陰湿な形に改変し引き継いでいるのだ。
 怪我が癒え学校に戻ってきたアカネを、クラスの生徒ははじめのうちこそ腫れ物に触るような扱いをしていたが、子供というのは良くも悪しくもあらゆるものに順応する。誰とも話そうとしないアカネをやがて皆が異物として無視するようになり、半年もするころにはもうからかって遊ぶ者が出始めた。
 私は今日までに、たった六回だが、「やめなよ」と声を上げたことがある。しかし、クラスの女子の序列にあって最も目立たない位置を占める私の言葉に耳を貸すものはいなかったし、何より、私の声が聞こえていながらこちらを見ようとしないアカネの態度が悲しくて、そのうち席を立つのをやめてしまった。悪しき順応というなら、それはまず私を責めるために使われるべき言葉だ。
 でも、もうたくさん。もう終わりにする。
 あの星が降った日から今日でちょうど一年。今朝、家を出るとき、私は心に決めてきたのだ。アカネの顔色をうかがっているうちは、結局私はアカネに依存し続けているのだと、ようやく気付いた。見返りのためじゃなく、私のために、立たなくちゃいけないのだ。
 いつもスカートのポケットに入れている小さなペンダントを一度ぎゅっと握り締めてから、席を立った私は、アカネの帽子から覗く短い髪に触れそうなほどに箸を近づけている女子の傍まで移動し、口を開いた。
「……もう、やめなよ」
 村岡という名の女子生徒は、厭わしそうな視線をちらりと私に向けただけで、尚も悪ふざけを続けようとした。
 私は、右手に持っていたジュースのパックを彼女の顔に向け、思い切り握り潰した。ストローから飛び出したオレンジ色の液体が、ぴしゃっと音を立てて村岡の頬に飛び散った。
「何すんだてめえ!」
 途端、女子中学生とは思えない怒声とともに突き倒され、背中から床に転がった。間髪入れず圧し掛かってきた村岡の顔を、私は生まれて初めて人を殴るために握った右手で、不器用に突き上げた。
 その一撃が偶然にも鼻筋に命中し、村岡は目を丸くして後ろに尻餅をついた。顔を押さえた手の下から、ぼとぼとと鼻血がこぼれるのを見て、仲間の女子二人が凄まじい金切り声を上げた。
 それから後はもう大混乱だった。男子が大声で囃したて、女子の半分は村岡を保健室に運んでいき、残り半分は私を糾弾し、しかし私はと言えば、結局アカネの背中から目を離すことができなかった。
 アカネは、大騒ぎの最中も一切こっちを見ようとはしなかった。しかし、喧騒に苛立ったように席を立ち、教室を出ていくその寸前、一瞬だけちらりと私に視線を向けた。眼帯の下のその顔が、わずかに、しかし確かに歪んでいるのを見て――私は、ちょっとだけ嬉しく思った。なぜなら、それは、事件以来アカネが初めて私に見せた、何らかの感情のあらわれだったから。

 報復は速やかだった。
 放課後、職員室で、中年の女性担任に事情を訊かれている間、私も村岡も一切口を開こうとしなかったが――村岡にも、自分のしていた行為が決して褒められる種類のものではない程度のことは理解できたのだろう――、事を荒立てたくない内心が見え見えの担任の、なあなあの裁決で放免されたあと、自宅の方向がまったく違う私の帰路で待ち伏せていたその素早さに、私は少々感嘆した。
 仲間二人を従え、私をひと目に付かない公園に引っ張り込んだ村岡は、脱色した髪をいじりながら物も言わずに私の脚を蹴った。火花が散るような痛みにうずくまってしまったあとは、三人にいいように小突き回され、私はひたすらその時間が終わるまで耐えるしかなかった。
 人を殴ったのも初めてならリンチされるのも初めてのことで、せめて声を上げるまい、許しを乞うまいと歯を食い縛っていると、やがてコートのポケットから財布が抜かれる感触を最後に殴打が途絶えた。しかしどうせ、中には小銭が数枚しか入っていない。
 予期した通り、盛大な舌打ちとともに財布が投げ返され、三人はマンガで見るような捨て台詞を残して公園を去っていった。私は地面に丸まった姿勢のまま、全身の痛みが退くのをじっと待った。
 痛さより寒さのほうが耐えがたくなり、のろのろと体を起こすと、いつの間にか空が紫色に染まっていた。私は一円玉まで綺麗に浚われた財布と鞄を拾い上げ、近くのベンチにどさりと座り込んだ。
 主に蹴られた背中と太ももがずきずきと痛み、涙と鼻水で顔はぐじゅぐじゅで、実に惨めな気分だった。しかし、これは、必要な苦痛であり必要な屈辱なのだと私は自分を叱った。アカネが私の代わりに味わった痛みと苦しみはこんなものではないのだ。
 十分ほどもそのままでいただろうか。私は、立ち上がり、家路を辿り、家族にこの惨状を誤魔化すための元気を得ようと、スカートのポケットを探った。
 そして、凍りついた。いつでもそこに入っているはずの、あのペンダントがない。
 小さな銀の星を象ったペンダントヘッドの手触りは、この一年、私のあらゆる活力の源だった。なぜなら、その星がぴったりと嵌まるべき窪みのある三日月型のペンダントを、きっとアカネがまだ自室のどこかに仕舞ってくれているはずだと信じていたから。
 小学校四年生のときに、初めて二人で県外に遊びにいった記念に買ったものだった。アカネの視力を奪った隕石が不幸の星なら、あのペンダントヘッドは幸運の星だった。あれを持っているかぎり、いつか不幸の量を幸運が上回る日が来ると、私は毎晩手に包み、祈った。
 脚の痛みも忘れて、私はベンチから立ち上がった。この公園に差し掛かる直前まで、ポケットの中で触っていたのだから、無くしたのはここに入ってからのはずだ。恐らく、村岡たちに蹴られてうずくまっていたその場所に落ちているに違いない。
 這うようにそこまで戻り、眼を細めて地面を見回した。しかし、乾いた土の上に、あるべき銀色の輝きは無かった。
 早鐘のように鳴る鼓動を押さえつけながら、私は捜索範囲を広げ、文字通り地面を這いまわった。だが、真冬の太陽は無情にも早々とビルの稜線に沈み、通りの街灯の光は樹々に遮られてほとんど届かず、しまいには私は素手で土を撫で、探りつづけた。たちまち掌がすりむけ、血が滲んだが、その痛みも焦燥に比べれば些細なものだった。
 何分、何時間そうしていただろうか。
 疲れ果て、地面にぺたりとしゃがみ込んだ私の喉の奥から、細い嗚咽の音が漏れた。それが子供のような泣き声になるまで、そう長い時間はかからなかった。
 一体なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
 なぜあの日、あの時、私達はあの場所に居たのか。そしてなぜあの瞬間、星が落ちてこなければならなかったのか。不運な偶然、などという言葉では片付けられない。むしろ必然――つまり運命だったのだ、そうとしか思えない。
 私は、アカネとの結びつきこそを運命だと信じていた。私達は同じ日に同じ産院で生まれたのだ。そして同じ幼稚園で再会し、その瞬間、親友になった。私達は、あのペアペンダントのようにぴったりと嵌合する魂の鋳型を持っていた。私が、あまりにもその運命を確信しすぎたから――疑うことすらしなかったから、だからあのような手酷い逆転に見舞われることになったのだろうか。
 せめて、逆ならよかった。私があの星に頭を撃たれていればよかった。たとえそれで死んだとしても――アカネを守って死ねたなら、そのほうが今よりも何倍もよかった。
 泥まみれの両手で顔を覆い、新たに溢れてきた涙を手荒く拭った、その時だった。
 上の方から、決して聞き間違えることのない、あの声がした。
「どうしてそこまでするんだ、ミズキ」
 顔を上げると、そこには、黒のニット帽を目深に被り、痛々しいほど痩せてもなおクラスの誰より綺麗な顔を歪めたアカネが立っていた。
「アーちゃん」
 私の喉から出た声は、一年前と同じように――いや、遥かに幼い頃から何一つ変わることなく、弱々しく震えていた。私はその音を噛み締めるように、もう一度名前を呼んだ。
「アーちゃん……私……私、無くしちゃった。あのペンダント、無くしちゃったよ」
 アカネは、暗闇のなか、遠くのビルの灯りを受けて白く光る頬を、ぎゅっと引き攣らせた。その表情が何を意味をするのか私が理解する前に、ふいっと顔を背け――そして彼女は、不思議な行動を取った。
 失明した左眼を覆う染みひとつない眼帯を、すっと上にずらしたのだ。
 その瞬間、私は確かに見た。わずかな光を反射して、アカネの大きな瞳が、きらりと不思議なオレンジ色に輝いたのを。
 見えるはずの右眼をぎゅっと瞑り、見えないはずの左眼だけを大きく見開いたまま、アカネはぐるりと体を一回転させた。そしてすぐに眼帯を戻し、ゆっくりと離れた生垣に向かって歩み寄った。茶色く枯れた葉っぱの中にがさっと腕を突っ込み、すぐ引き出したときには、その手に握られた細い銀のチェーンが私にもはっきりと見えた。
 戻ってきたアカネは、指先で揺れる小さな銀の星を右眼でじっと眺め、次に私の顔を凝視した。唇が動き、もう一度同じ言葉が流れた。
「どうして」
 今度は、私もちゃんと答えられた。
「アーちゃんは、私が守るんだもん。今までずっと守ってもらったから、これからは私がずっと、ずーっと守るって決めたんだもん」
 それを聞いたアカネの顔が、ぎゅうっと歪んだ。右の目尻からぽろりぽろりと涙がこぼれるのを、私は信じられないものを見る思いで見つめた。アカネの涙を見るのは、これが初めてだった。
「……そういうバカなことを言い出すと思ったから、あんなに突き放したのに。お前はもう、お前の幸運を捜せばいいって、そう言ったつもりだったのに。解れよ。ちゃんと理解しろよ」
 懐かしい、男の子のような口調でそう吐き捨てるアカネの顔は、泣き笑いでくしゃくしゃだった。突然左手をぐいっと胸元に突っ込み、細いチェーンを引っ張りだすと、アカネはその先で揺れる金色の三日月を象ったペンダントヘッドを私に示した。内側の円弧に刻まれた窪みに、右手の銀の星がカチリと嵌め込まれるのを、私は涙の膜を通してはっきりと見た。
 胸がいっぱいで何をどう言っていいのか分からず、私は間の抜けた質問を発した。
「アーちゃん……なんでさっき、あんなに遠くに落ちてたのを見つけられたの。真っ暗なのに」
 するとアカネは、もう一度眼帯をずらし、不思議な色の瞳を私に向けた。
「こっちの眼、失明したのとはちょっと違うんだ。どうしてか分からないけど、どんなに遠くても、どんなに暗くても、お前だけが橙色に光って見えるんだ。持ち物だって、しばらく光ってる。もしかしたら……お前の体のどこかにも、あの隕石の欠片が入ってるのかもしれないな」
 今は両方の眼から溢れている涙をぐいっと拭って、アカネは微笑んだ。
 その言葉こそが、運命というものの実在を確かに証明していると、私はそのときはっきりと悟った。


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