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E-11  光の手

 ──今日は水曜日。
 岡林はるかの足取りは軽い。
 日も暮れかかり、通りはごった返していた。ざわざわとうごめく人波をすり抜けて、彼女は駅へと走る。
 走る速度をゆるめぬまま、スポーツバッグに手を突っ込んで、携帯を探り当てる。サブ画面が点滅していた。不在着信とメッセージ。聞くまでもないとは思いつつ、留守録を再生する。お母さんです、と流れ出す声は、はるかの予想通りのものだった。
『お母さんです。今日は迎えにいけないから、塾終わったら一人で帰ってきてください。もう日も短いんだから、寄り道しないで帰るのよ。ごはんは炊いてあるから、冷蔵庫の中のものチンして食べてね』
 はぁい、と口のかたちだけで小さく返事する。そして、再生を止める。このあとに付け加えられているだろう、恒例の一言を、あえて聞かずに。
(じゃあね。しっかり勉強するのよ)
 よほど天変地異でも起こらないかぎり、彼女の母親はこの言葉で電話を締めくくっているはずだから。
 ──今日は水曜日。ママの、パートの日。
 ぱくん、と携帯を閉じ、はるかは駅へと急いだ。

 学校から一時間以上かかる場所に、はるかの通う塾はある。
 通学路の途中にもあるにはあるのだが、おもに母親の強い勧めにより、彼女はほぼ毎日、この長い距離を往復している。“難関高校受験コース”で有名な、県下随一の名門塾。
 勉強は、嫌いではなかった。出された問題が解けるというのは単純にうれしいものだし、もっと言ってしまえば、他の人が解けない問題が解けるということが、はるかの気分を良くした。
 やり直しはきくのよ、と彼女の母親は言う。
 人生、たった一度の失敗で何もかもがだめになるわけじゃないの。でも、何度でもやり直しがきくわけでもないのよ。ね、はるか、わかるでしょう? いい高校に入るには、今がんばらなきゃね。そのとおりだ、と思う。高校生になってからでは、高校受験することはできないのだから。
 ──失敗は、もうできないんだ。
 本来ならば今ごろ彼女は、自宅からこんな地元の中学にのこのこと通っているべきではないはずなのだ。全国に名前を知られた都内私立校に籍を置き、白いブレザーに身を包み、家からではとても通えないので寮暮らしで、月に一度は自宅へ戻って、丸ばかりのテストを見せて……。
 今の自分は、何かの間違いだ。そうでなければ、仮の姿だ。
 だから、今日の抜き打ち漢字テストで満点を取ったぐらいで喜んでいる場合ではないのだ。そんなのは、当たり前のことだから。あたしがいるべきなのは、もっと高いところのはずなんだから。
 ──そうだよね、ママ?

***

 ポケットの中の硬い紙の感触を確かめながら、少年はロビーを抜け出した。
 夕食は五時。その少なくとも十分前ぐらいまでには帰り着かなければ、なにかと面倒なことになる。たとえば、問診の時刻に遅れてしまう。ベッドにいない自分をみんなが探し回る。そのさなかへ戻ってくれば、当然叱られる。そして、次からの外出はよりいっそう困難になる。
 大きく、かぶりを振る。それだけはいやだ。
 ポストまでは走ればほんの十数分だ。そう、走れさえすれば──ケガする前の兄ちゃんのように、風のようにすばらしく速く。
 実際のところは、それはかなわない相談だった。誰に厳命されるまでもなく、彼自身の呼吸器が強く戒めてくれるから。そんなことをしたら、お前の身体《からだ》の自由がさまたげられるだけだ、と。
 北風が通りを吹き抜ける。少年はウィンドブレーカーのジップをあごまで引き上げた。
 肩をすくめて、ポケットに両手を突っ込む。右にハガキの感触、左にはプラスチックの器具の感触。彼がひとりで行動するときには、必ず持ち歩かなければならない決まりになっているものだ。ぐ、と左手を握りしめる。知らず、眉間にしわが寄る。壊してしまえるほどの勇気は、とても持ち合わせていなかった。
 もう一度、彼はかぶりを振った。ハガキを取り出して、歩きながらそれを眺める。楽しいことを考えよう。そう、ぼくは、今からこれを投函しにいくんだから。
 主人公の名前は、“ラジオボーイ”。一週間に一度、電波上にあらわれる、ぼくと同い年の明るい少年。パソコンも携帯も、彼の手元にはない。“ラジオボーイ”は、彼がハガキを送り続けることによってのみ、存在することができるのだ。
 その少年は、大好きだった陸上競技をあきらめるように言いわたされてしまった。しかし、彼はあきらめたわけではない。先生の言うことをよく聞き、安静にし、食事はきちんと平らげ、体力を蓄えて手術をすれば……それが成功すれば。
 何パーセントほどの確率なのかは、あえて聞かない。なにもしなければなにも変わらない、それだけのことだ。だから彼は挑む。
 それがたとえ、空に手を伸ばして星をつかみ取るような話だったとしても……。
 目指すポストまでは、まだしばらくかかる。一番近いポストは、もう今日の集配を終えてしまった。今日の便に乗らなければ、今度の放送には間に合わないということを、彼は経験から学んでいた。でも、あそこならば、きっと間に合う。
 彼は、ほんの少しだけ、歩く速度を上げた。

***

 軽い振動とともに電車が止まると、はるかは開くドアの隙間から身をよじるようにして飛び出した。到着した駅名も、乗換え案内も彼女には無用のものだ。下りエスカレーターを二段抜かしで駆け下りてゆく。
 だが、すぐに改札へ向かうわけではない。駅を出る前に、いくつかやるべきことがあるのだ。
 まず、はるかはトイレに入る。目当ては一番奥の個室。コートをフックにかけ、通学バッグを広げる。隠し持っていたとっておきの服を取り出すと、手早く着替え、制服をカバンの中に詰め込む。そして、水を流す。
 できるかぎり冷静に、はるかは個室から出た。大丈夫、なにも変じゃない。あたしは最初からこの格好だったんだ。誰もあたしを見とがめない。
 洗う必要もないと言えばないのだが、手を洗う。束ねていた髪を下ろし、ピンクの口紅をひき、いつもより少しだけ大人びた鏡の中の少女に微笑む。周りには誰もいない。上出来じゃん、と声に出してつぶやいてみる。くるりと一回転すると、ワンピースの裾がやわらかく揺れた。うん、上出来。
 トイレを出て、コインロッカーの前ではるかは立ち止まった。通学バッグを、お気に入りの小さなハンドバッグに持ち替える。ついでに塾指定のバッグもロッカーに入れてしまえば、ようやく準備完了だ。
 今度こそ、彼女は勢いよく改札を飛び出した。

 駅前の中でもひときわ明るい通りの片隅に、はるかの目指す場所はある。
 夜が更ければ更けるほど明るさを増す商店街、その端のほうで、ぱっくりと入り口を開く店。実は数えるほどしか行ったことはないのだが、勝手知ったる様子で、彼女は通りを駆けてゆく。
 ──週に一度だけ。
 はるかはそう、自分の中で決まりを作っている。
 母親がこの時間帯にパートに出るのは水曜だけではない。けれど、他の曜日には彼女はきちんと塾へ通っている。理由は簡単、成績がみるみる落ちてしまうのが怖いからだ。だから、一日だけ。
 毎日のように通う塾の月謝、通信教材費、家庭教師への報酬……母が自分にたくさんの金をつぎ込んでいることを、はるかは知っている。
 申し訳ない、とは思わない。これはあくまで、母が好きでやっているのだということも、また理解しているので。しかし反抗したことはない。する必要が見当たらないからだ。ママのため、あたしのため。結局は、同じことじゃないのか。
 親に見栄を張らせてあげるのは、子供の大事な仕事。自分にどこまでそれがこなせるのか、ひどく心許ないのだが、仕事であるからには、つとめ上げなければならない。
 ──そうじゃなきゃ、あたしは。
 そうじゃなきゃ、きっと、ママは……?
 ぴたぴた、と、はるかは頬をたたいた。重い方向へと向かってゆく思考を、懸命に打ち消す。
 今日の講義は、たしか理科。理科ははるかの、比較的苦手な教科だ。しかも最近の範囲は、夜空の星の明るさだの距離だののことばかりで、まったく楽しくない。
 星の一生は生まれたときの重さによって決まっているんだ、という話を聞かせてもらったことがある。それを示したのがこの“HR図”っていうものなんだ、と。
 なんだ、同じじゃんか。星だって、人間だって。そう思った。
 塾のことなんか、今は忘れよう。彼女は立ち止まり、息をついて、また勢いよく駆け出した。

***

 予想を、していないわけではなかった。なにせここは、このあたりで一番大きな駅の前だ。はち合わせたとして、なにも不思議ではない。
 ──かつてのクラスメート。彼らは卒業して、入学しただろうから、たぶん高校一年生のはずだ。
 少年は、ハガキを持っている手をとっさに後ろに隠した。
「やあ、久しぶり」
 先手を打つんだ。何ほどのこともないかのように、さりげなく、軽やかに。
 クラスメートたちは互いに顔を見合わせていたが、そのうちのひとりが、やがて合点がいったように声を上げた。
「……あぁ! 須河《すごう》かあ!」
「え? 誰って?」
「ほら、いたじゃんかよ。須河康介って……途中でいなくなっちまったけど」
 最後のほうの台詞が少しだけ小さくなる。後ろ手に持ったハガキが、少したわんだ。そう、彼らの言うとおり、“途中でいなくなっちまった”から、卒業アルバムのクラス写真は、康介の顔は上の隅のほうに一人別枠で映っている。
 彼らのせいではない。断じて。彼らに対して、特別に悪い思い出などはなにもない。むしろ、卒業後もこうしてすんなりと名前を思い出してくれる分だけ、彼らはいいのだ。
 ……だからこそ、やり場のない感情はハガキに向かわざるを得ない。
「なんだあ、ホントに久しぶりだよなぁ! 元気にして……っと」
 クラスメートはあわてて口をつぐみ、わりィ、と小さく口の中でつぶやく。そう、善良なんだ。わかってるんだ。
 康介は、なにも気づかないふりを決め込んだ。簡単なことだ。あいまいに首をかしげてみせればいい。彼らはそろって、繕うような、ほっとしたような表情を浮かべている。それでいいんだ。喉の奥が、少しざらついてきた。もうそろそろ、終わりにしなければ。
「──じゃあ」
 用があるから、と短く告げて、康介はクラスメートたちの横を通り過ぎた。じゃあな、またな、という声を背中に聞きながら、彼は手近な路地へもぐり込んだ。

 ……やっぱり、だ。
 康介はこらえきれず、地面に座り込んだ。左ポケットから吸入器を取り出して、震える手で口に押し当てる。吸入は一回きりと決まっていた。あとは、おさまるまで待つしかない。
 ──ちくしょう。これじゃ、きっと間に合わない。
 拳に力を入れる。握りしめていたままのハガキが、ぐしゃりと音を立てた。康介はあわてて、しわを元に戻した。“ラジオボーイ”の物語は、一度だって欠かしてはいけないのだ。兄ちゃんは、ラジオなんか聞いていないかもしれないけど。それでも、可能性が少しでもあるのなら。
 ぼくは、呼びかけるのをやめちゃいけない。
 まだ完全に収まったとは言いがたかったが、彼はよろよろと立ち上がった。とはいえ、これでずいぶん時間をロスしてしまったはずだ。腕時計を見やり、彼は絶望的なため息をもらす。どう考えても、不可能だ。自分の足では。
 建物の壁に手をつきながら、大通りへ戻った──その時。
 横から強烈な衝撃をうけて、康介はまたもや膝をついてしまった。何ごとかとあたりを見渡すと、少し離れたところで少女がうずくまって小さくうめいている。
 康介は急いで──彼にできるかぎりの速さで──、少女に歩み寄った。
「きみ、大丈夫……」
 薄いワンピースの裾から伸びる、細くて白い脚。いかにも女の子のものだ。ひょっとして、くじいてしまったりでもしたのだろうか。のぞき込むと、彼女は目にうっすらと涙をためていた。見たところ、脚にけがはないようだ。ただ、とっさについたのだろう手のひらが、少し赤くなっている。
「……じゃ、ないみたいだね」
「──あったり前でしょおっ!? 痛いに決まってるじゃないの!」
 勢いよく立ち上がって、少女は怒鳴った。耳がキンキンするほどの豊かな声量だ。平気そうでよかった、という言葉を口に出す直前で飲み込んで、康介は素直に、ごめんね、と告げた。
 申し訳ないのは確かだが、もういいかげん戻らなければ、問診に遅れてしまう。けれどハガキは出さなければならない。 そして、 このことについてあまりじっくりと考えている時間はないのだった。
 康介はひとつのことに思い当たって、スウェットのポケットを探った。やっぱり、だ。少しだけしわになってはいるが、問題ないだろう。
「あの、ホントにごめんね。ぼく急がなきゃなんだけど、これ、ハンカチ、よかったら使って。それから……きみ、足、速い?」
「えっ……足ぃ? って……」
「速いよね? さっき、ものすごい勢いだったもんね。あ、でもそんなに急がなくても大丈夫なはずだから!」
 すっかりくしゃくしゃになってしまったハガキを、ハンカチの上に強引に乗せる。
「ちょっ……なに、何なの!?」
「駅のすぐ近くのポスト。あそこの取り集め、これからのはずだから。今日の便じゃないとダメなんだ。お願いします!」
 一息に言い切って、九十度に頭を下げると、そのまま康介は来た道を戻り始めた。

***

「なんなのよ、あの男……」
 なし崩し的に受け取ってしまったハンカチとハガキを眺めながら、はるかは呆然と呟いた。痛い、と叫んではみたものの、にじんでいた血も今ではすっかり乾いてしまい、結局ハンカチをわずかに赤く染めただけだった。
 それにしても、このハガキだ。これが何ほどのものだというのか。
 はるかはハガキをひっくり返してみた。宛先は、なんとか言うラジオ局になっている。ラジオ番組にネタを送るのに今時ハガキなんて、ずいぶんレトロだな、と思う。
 差出人は、須河康介。ペンネームは“ラジオボーイ”ね。それから、脚のケガで入院していて、手術が必要で、でも病気の弟にお金もかかっていて……?
「……やだ……」
 はるかはあわててハガキを伏せた。少しの罪悪感を覚えたが、でも一方で、これぐらいは許されてもよさそうな気もする。なんたって、どこの誰とも知らないやつに頼まれて、ハガキを投函してあげようというのだから。
 ──あの子の、手首。
 あたしにハンカチとハガキを押しつけてきた手の、パーカーの袖口からのぞく手首の細さ。あれは、いかにも病人のものだ。
 できるかぎりしわを伸ばして、彼女はポストにそれを投げ込んだ。

***

『……ええと、これは、“ラジオボーイ”くんからですね。“いよいよ手術が近づいてます。でも、成功する確率を、ぼくは聞いてません”……』
 わずかなノイズを伴って、パーソナリティの声は流れる。

 ──実は、ぼくの弟も入院しています。弟は、病気のためです。二人分も治療費を出すのは、はっきり言ってかなりキツいってことをぼくは知ってます。だから、あきらめる、と最初言いました。そしたら、弟にものすごく怒られました。逃げるな、って。ぼくを理由にして逃げるなよ、と言われました。
 ぼくは、本当は今までヤケになっていました。HR図、っていうのを天文の本で見たことがあるんです。星の一生は、生まれたときの重さで決まっちゃってるんだって。人間もそれとおんなじようなもんだって思って──思おうとして。
 でも、そういう気持ちはきっと、弟だって同じはずなんですよね。でも、あきらめるな、と言う。自分もあきらめない、って。星の一生は決まってるけど、でも、それを星は知らない。知らないんなら、限界はないってことと同じなんだって思い直して……それで、決心しました。だから、確率なんて、関係ありません。──

 洗濯してすっかりきれいになったハンカチを、はるかは知らず握りしめていた。
 きっとこの先、あの手が脳裏から消えることはないだろうと思った。


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