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F-02  星の数ほど

「き、君の星のように輝く瞳に乾杯」
 隣り合った二人でグラスを合わせると、ちん、と小さく音が響いた。続く動作でワインを一口含む。目の前の女性が自分と同じ動作をするのを彼はじっと見つめた。
「美味しい」
 彼女の一挙動がとにかく気になる。彼女が微笑むのに彼はほっと胸をなで下ろし、自分ももう一口ワインを飲んだ。銘柄や説明を聞いてもさっぱり分からなかったのだが確かに美味い。目玉の飛び出るような値段だったのも頷ける──いやいや。
「気に入ってくれて良かった」
 彼も彼女に応えて笑った。少なくとも本人はそのつもりで。
「ワインもだけど、窓の外。今まで都会なんて電車はぎちぎちに混むわ夏はビルの排熱で余計に暑いわだと思ってたけど、夜景がこんなに綺麗だと思わなかった」
 二人がいるのは窓際の席である。一面ガラス張りの窓の外にはいくつもの灯りがきらめいていた。夜になっても点いているビルの照明、道なりに動く自動車のライト、色鮮やかなネオン。ひとつひとつを間近で見ると無粋だが、遠くから眺めれば華やかな夜の光景である。
 ここは夜景が見えるレストランとしてよくガイドブックにも載っているのだ。高層ビルの上層階にあるレストラン、しかも窓際の席。いったい何ヶ月前に予約したらいいのだろうと思い、半年前に電話したらさすがに笑われた。ともあれその甲斐あってこうやって二人で特等席に座っている。
「こちら、前菜の海の幸のゼリー寄せになります」
 ワインを飲みつつ彼女といくつか言葉を交わしていると、ウェイターが食事を運んできた。白色の皿に色鮮やかな料理がこじんまりと盛られている。……なんでこんなに量が少ないんだ、とは言ってはいけないらしい。
「どうぞ」
 彼が彼女に促すと、それじゃあと言ってフォークを取る。彼女は料理を一口口に運び、うっとりと目を細めた。どうやらこちらもお眼鏡にかなったらしい。
 四十七階から見える都会の夜景。会話を邪魔しない程度に流れている音楽も事前に頼んで彼女の好みのものをかけてもらっている。先ほどのワインも彼女の誕生年のもの。ここまでは完璧だ。ここまでは。
(次は)
 ちらりとテーブルの下に視線をやる。だがすぐに首を横に振った。まだだ。せっかくの食事を楽しんでもっといい雰囲気になってからにしよう。
「どうしたの?」
 たちまち前菜を食べ終えた彼女が首を傾げている。彼はぶんぶんとまた首を振ってごまかし自分も前菜にフォークを付けた。自分も食べなければ損だと思いながら口に運んだものの、味はさっぱり分からなかったが。
 前菜の次は温野菜、スープとコース料理は進んだ。ウェイターは客人の様子をよく見ていて、ちょうど食べ終わったところに次のものを運んできてくれる。食事とウェイターの応対の合間にちょっと会話するような状況が続いたあたりで、彼女が口を開いた。
「私ねえ」
 彼女は窓の外を眺めた。何色もの光がきらめく夜の光景。
「もともと田舎育ちでしょ? 大学に入って都会に出てきたときはびっくりしたわよ。だってさ、ほとんど星が見えないんだもの。冬にオリオン座が見えにくいなんて信じられなかった。流星群だって、深夜に数時間ねばったのに五個も見えないし」
 彼女はどこかふくれっ面である。彼女の田舎の実家の話は聞いたことがあるが星の話は聞いたことがない。対称的に彼はずっと都会育ちで、逆に満天の星空というものを見たことがなかった。
「でもこの夜景は都会の星空なのかもね。いや、田舎の空とはまったく違うけどさ、どっちも綺麗だもの。私、一度宇宙に行ってみたい。そうしたらもっとたくさん星が見えるんだろうと思うわ。文字通り星の数ほど」
 言って彼女は肩をすくめ、スープを一口すすった。
 なにか言葉を返さなければ。彼女に一人で話させていたらそれこそ馬鹿な男だと、彼はスープを一気に平らげてから顔を上げた。
「そういえば、実際に星の数ってどれほどあるんだろうな」
 彼の呟きに彼女は眉をひそめた。
「しばらく前に読んだ話なんだけど、今までに発見されている最大の素数っていうのは二百万桁くらいの数字なんだそうだ。それに、現在ネットワークの公開鍵暗号で使われている数値も百万桁以上らしい。こんな大きな数でないと暗号の安全性を保てないんだな」
 はあ、と彼女は生返事をした。話の内容が分からないというわけでもなさそうだが。
 素数は一とその数以外で割りきれない数──たとえば三や七──のことだが、不規則に出現するため大きい数となると発見がきわめて難しい。公開鍵の暗号方式にもこの性質が利用されている。
「でもって、宇宙に存在する分子の数ってのは百桁以下の素数の個数より少ないんだってさ。当然星の数はそれよりずっと少ないよな。ビッグバンで宇宙が誕生してから現在までの秒数なんて、計算してみたら十八桁だし」
 彼はスプーンを手に取ってから既に皿が空であることに気づいた。
「昔の人は、夜空の星が無限にあるんだと思って『星の数ほど』なんて言い方をオたんだろう。けどその話を聞いたら、星の数が手の届かないものに思えなくなってさ。そりゃコンピュータで計算できるってのと現物が手元にあるってのは別だけど、星の数より遙かに大きい数字を今の人間は扱えるんだなあって」
「まあ、今の国の負債が百兆円単位だった気がするけど、それも桁数にしたらたかだか十五桁ねえ」
 それでも税金が上がるばっかりだけど、と彼女はスープをまた一口すすった。
「昔の人が無限だと思ったものは、今の人間には必ずしも無限じゃないのかもしれないな。だったら現在は何を無限だと思うのかなあ……と」
 彼が言ったところで、ウェイターがメインディッシュを運んできた。鴨胸肉の網焼き、北大路魯山人風だそうだ。フランス料理のはずなのに魯山人とはこれいかに。
 彼女は何も言わずに黙々と肉を切って口に運んでいる。俯いたまま上目遣いにその様子を見つめ、彼は内心で大声で叫んだ。
 何をいったいアホなことを言っているんだ俺! せっかくロマンチックな夜景のレストランを選んだのに、彼女が星空の話をしていたのにぶち壊すか俺! これでは、これでは……あああ。
 ちらりとまたテーブルの下に視線をやる。もはや彼女の様子は目に入らなかった。せめて不自然には振る舞うまいと必死でナイフとフォークを動かすが、うまくできているか自信はなかった。それでも鴨肉は美味いと思ったからお高い料理の威力はすごい。
 沈黙のままメインディッシュの時間は過ぎ、デザートが運ばれてきた。こちらは林檎のミルフィーユ。彼女も女性の例に漏れず甘味好き、それも好物の林檎で作ってもらったのだ。少しは失敗を取り返せただろうか、と彼は彼女をちらりと見た。
「無限……ねえ」
 さくりとフォークでミルフィーユをつつき、彼女が呟いた。ぎくりと心臓が跳ねる。
「私にはあんたが本題に入るまでの時間が無限に思えるわ!」
 ざくりとミルフィーユにフォークが刺さった。
「いつもラーメン屋と焼魚定食のあんたがこんなレストランに連れてくるんだから、こっちだって、何かあるんだな、くらいには推測するのよ! しかも夜景! フランス料理! この不景気の時代にどのくらい前のセンスよ、子供の頃やってたテレビドラマの再放送? とどめに君の瞳に乾杯ときたわね、漫画でいいから今の流行の本を読んでこいっ!」
 彼女はばりばりと音を立ててミルフィーユを咀嚼した。
「だいたい人にさんざん下着を洗わせておいて今更ロマンチックに取り繕おうたって騙されるか! 案の定ごまかせてなかったけど!」
 彼女の大音声なによりその内容に、側に控えているウェイターが引きつり笑いをしたのが見える。このレストランを貸し切りにしておいたことに彼は心底感謝した。
「だったらせめて言うことはさっさと言いなさい! さっきから三分おきに見ているその小さな箱を出して!」
 びしっと彼女はフォークで彼の手元を指した。
 ぐるぐると彼の頭の中は回っていた。いちおう彼なりに段取りはあったのだ。そう、もっとロマンチックな雰囲気で、彼女の頬が赤いのはワインのせいか別の何かか……てな感じで。だがもうシナリオの修正は不可らしい。
 どことなくげっそりとした様子で彼がラッピングされた小さな箱を取り出すと、彼女は満足げに笑った。
「よろしい」
 彼女が手を差し出すのを彼はぼんやりと見つめた。
「くれるんじゃないの?」
 彼女はにっと笑ってくる。そうだよなこういう女だったよな……と彼は今更ながらに思った。なんだか取り返しのつかない道に足を踏み入れている気がするが、もう後戻りはできそうもない。
 宝石店のロゴが入った小さな箱。その中には──有り体な表現ではあるが、小さな星がきらめいていた。
 すっと息を吸う。最後くらいしっかり決めろ俺!
「……結婚してください」
 シンプルな一言。だが彼女の頬はほんのりと赤く染まった。
「はい」
 返答もあっさりしたものだった。ほんのわずかなやりとり。だが、勇気を振り絞って良かった、本当に。
「はあ……」
 安堵で身体から力が抜け椅子からずり落ちそうになっている彼に、彼女が苦笑しながら言った。
「これ、付けてみていい?」
 オーソドックスな一粒ダイヤの指輪は彼女にぴったりだった。自分の左手を見つめて彼女は照れくさそうに笑っている。
 不意に彼の顔に彼女の両手が伸ばされた。彼女は頬を両手で包み込み顔を近づけてそっと囁く。
「無限じゃなくてもこれからの時間はきっととても長いものだわ。だから、──星の数ほどの時間が過ぎても、どうか二人で一緒にいられますように」
 言って、二人はこつんと額をぶつけ合った。


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