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F-04  星に願いをかけてみた

 夜道を一人歩く。
 いつも帰り道には少し虚しい気持ちになってしまう。
 莢子(さやこ)は、喜怒哀楽が激しいと評されるにはあまりに損な顔立ちをしている。中心にいることが苦手で大人しく目立たないようにしているだけなのに、冷めた目ではたから眺めている人だと思われてしまうのだ。
 会社の人は知らないだろう、莢子が帰り道に儚い溜息をこぼしていることなど。
 公園の傍を通り、ふと見上げた滑り台のシルエットはまるで出来損ないの怪物のようだ。その怪物のてっぺんに、ちょこんと丸まった影がくっついていた。
 滑り台と砂場とベンチがあるだけの小さな公園に、莢子は足を進めていった。一人寂しく怪物に寄り添う影が気になった。どのみち、近道なのでいつもここを通り抜けているのである。
「どうしたの?」
 莢子は声をかけた。影は幼い少年だった。
 少年は振り向いて、その小さな赤い滑り台から莢子を見下ろした。軽く見張られた目に、莢子はたじたじとなる。
 誰もいないと思っていたからだろうか、それとも無愛想にしか見えない女が突然話しかけてきたことに不審を抱いたのだろうか。
 星が痛いほどくっきりと見えて、莢子は切なくなった。
「……あったいもの、飲みたくない? お姉ちゃんの家、すぐそこだからちょっとあったまっていかないかな」
 なんと稚拙なナンパ。
 しかし少年は、莢子を見つめてこっくり頷いたのである。

 炬燵の電源を入れて、コートをハンガーに掛けながら、莢子の頭はぐるぐるとパニックに陥っていた。
 ――これはれっきとした児童誘拐なのではないだろうか。
 莢子は決して、妙な気持ちを起こしたわけではない。いくら子供が夜中に一人で出歩いているとはいえ、普通の人はいきなり家に連れ込んだりはしないだろう。それぐらいのことは、莢子にだってわかっている。
 ただ、少年はどこか途方に暮れているように見えたのだ。
 誰に助けを求めたらいいのかわからないように見えたのだ。
 だからといって、莢子は自分に状況を打破するような能力があると思っているわけではない。せめて雨宿りの場所を提供してあげたいと思っただけだ。
 ひとりきりの心もとなさを莢子は良く知っているのだから。
 だから話だけでも聞いてあげようと思った。どんな突拍子もない話でも、どんな我侭な見解でも、ただうんうんと頷いて聞けばいいと思った。
 ――しかし彼の話は、莢子の常識の範疇を超えていたのである。
 少年の名は友衛(ともえ)という。それはいい。
「流れ星にお願い事ってするでしょ、そんで、願っちゃったんだよね。『子供の頃に戻りたい』って。そんなの、子供時代ごと取り戻さないと意味ないのにね。おれ、ほんと、二十三歳なんだけどね、どうしようかこの状況」
 友衛は、ココアを啜りながらあっけらかんとそう言った。
「う、嘘でしょ……?」
 莢子は、たっぷり三秒ほど固まってからそう口にするのがやっとだった。
 それと同時に、あ、駄目だ、否定することを言ってしまったと自己嫌悪に陥った。
 友衛はこの状況にはそぐわないほど明るい態度を保っている。滑り台の上で小さく丸まっていた背中を思い出しながら莢子は思う。莢子が自分の行動に悩んでいる間に、友衛もこの状況について散々悩んだのだろう。それで究極に落ち込んで、それからきっと、そこを突き抜けてしまったのだ。
 たとえこの話が嘘でも、莢子はそれを否定してはいけない、と思う。幼い頭で一所懸命悩んだ何かがそこにあるからだ。
「ごめ、ん」舌の先で言葉が絡まった。
 ――どうしていつもこんな風に空回ってしまうんだろう。私は彼を傷つけたんだろうか。
「さやこ、さん」
 滑り台の上から見下ろしたときと同じ目で莢子を見つめていた友衛が、はっとするような声を出した。
 どうしたのだろう、と莢子は思った。自分はそんなに悲しそうな顔はしていないはずだ。そんなにわかり易く表情に出るなら、常日頃、莢子が苦労する必要などない。
「俺、なにか傷つけるようなこと言った? それとも何か悲しいことでも思い出した?」
 友衛の方がよっぽど痛々しい顔をして、炬燵の向こうから乗り出した袖口で莢子の頬をぐいと拭った。
「……あ」
 莢子はどうやら泣いてしまっていたらしい。なんとも情けない。
「なんでもないよ。ありがとう」
 そういえば、会社はもちろん、学校でも泣いたことなどなかったなあと思い出す。自分の家というものは、ずいぶんと人を解放的にするものだ。油断させる。
 ――もしかして自分は、いつも張り詰めていたのだろうか。
 一人で勝手に思考に耽る癖のある莢子は、友衛を前にしても黙って考えていた。
「――俺、帰る」
 友衛の声でふいに思案が破られ、莢子ははっとした。
「帰る、って。帰れるの、もういいの?」
 玄関先へすたすたと行ってしまう友衛を追いかけ、莢子は慌てて声を掛けた。
 友衛は少しだけ苦い顔をして、それからくしゃっと笑った。
「うん、良くわかった。ちょっとした感傷で、いまの自分を捨てたいと思うのはくだらないことだって。俺、いま大人だったらいいのにって、すげえ思ってる。みっともないから帰る」
 たぶん大丈夫でしょ、とこの先の展望をけろっと口にして、友衛は背を向ける。
 莢子の目の前で、玄関のドアがバタンと音を立てた。

「ここ、いい?」
 いつもどおり一人でもそもそと昼食を食べている莢子の返事も待たず、彼女の視界に一人の男が滑り込んだ。食堂の安っぽい椅子が、ギギギッと床をこする。
「木村、くん」
 喉の奥に無理やりご飯を飲み込みながら、莢子は目の前の同僚の名を呼んだ。
 返答があったことが嬉しかったのか、彼は照れ笑いを見せる。
「昨夜はどうも」
 ――は?
 莢子の持つ湯飲みが、お茶を飲む角度で止まった。
「俺の名前、友衛、って言ったらわかる?」
 幼さとは程遠い精悍な顔が、無邪気そうに傾いた。
「――嘘」
「ほんと」
 本気なのか嘘なのか、にやにやとした笑いを顔に貼り付けていた友衛の瞳が、俄かにきゅっと細められ真剣な色を帯びる。
「俺、謝ろうと思って」
 莢子は目を丸くした。つもりだったが、相手からはそう見えていたかどうか。
「悲しそうに見えない相手が、ほんとに悲しんでないなんて限らないのに」するすると、澱まない川のように友衛の言葉は流れ出す。「そんなこともわからないほど、ガキだったんだな、俺。なんかすげえ悔しくて、すげえ馬鹿馬鹿しくなった、子供に戻りたいなんて。目の前で泣いてる女の子ひとり、どうにもできないのに」
 だから、ごめんな、と友衛は言った。
 莢子は思わず泣きたくなった。目尻の辺りが熱くてじんわりする。
 でも、たぶん目の前の人が困るので泣かないことにした。
「うーん、でもね、友衛くんが子供じゃなかったら家に誘ってなかった」
 莢子だって心を閉ざしていた。殻の内側を見せることができたのは、友衛が警戒のしようもないほど子供だったからだ。同僚の姿だったら、頑ななままだったに違いない。莢子はそう言いたかったのだけれど、
「――それは、あたりまえ」
 友衛の目元がふっと緩んだかと思うと、彼はげらげらと笑い出した。


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