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F-06 翡翠
古より、
この二連をあわせて、
向かってくる男を斬り伏せ、返す刀で、もうひとりを討つ。
肉を絶つ感触が刀を握る手に伝わり、瞬間、刎ねられた首が宮殿の床にごろりと転がった。返り血が目にしみる。彼は、上着の袖で顔を拭き、あたりを見回した。
桔梗殿。そう呼びなわされる宮殿の廊下には、数多の死体が折り重なり、倒れ付していた。生きている者もいるが、もはや動ける者はおるまい。血の臭気の中を、形を成さない呻き声だけが彷徨っている。
それを無感動に見つめる少年の姿を見つけ、彼は安堵の吐息をついた。
「
名を呼べば、血に汚れた顔が上げられ、研ぎ澄まされた藍の眸が焦点を結ぶ。
そちらは大丈夫?、と問うと、問題ないに決まってる、と彼のあるじであるひとは不敵に笑って返した。憎まれ口が叩けるのならば、本当に問題なさそうだ。彼は結論付け、刃こぼれを起こした刀を捨て、代わりに死体の腰に差されていた太刀を拾い上げた。抜いて、冴え渡った刀身を確かめると、また鞘へと戻し、腰に佩く。
もう幾度か、刀は取り替えられている。何人殺したかなんて、わかったもんじゃない。最初の九人までは数えていたが、十になった時点で彼の頭はついていけなくなったので、数えるのはやめにした。とりあえず十よりは多いのであろう。
……罪悪なんて。ひとりめで頭がついていけなくなったので、もう感じない。
「まもなく夜が明ける。急ぐぞ」
傾き始めた満月を仰ぎ、翡翠が言う。承知、と形だけの礼儀をもって返し、彼はあるじの背を追った。
急げ。急がねば。夜が明け、昇る日輪が死を連れてやってくる、その前に。
彼のあるじであるひとは、現皇帝の第七子として生まれついた。
翡翠という。鴉の濡れ羽色の髪と、藍色の眸と、研ぎ澄まされた美貌を持つ少年だった。聞けば、彼の母もたいした美姫だったという。芸者にすぎなかった娘は、帝に見初められ、妾となった。だが、身分の卑しい女に周りの風当たりは強く。そのうち帝にまで見捨てられ、女は失意のうちに死んだ。死ぬ数年ほど前に、ひとりの赤子を産み落として。それが翡翠である。
翡翠の乳母となったのが、彼の母親であった。つまり、彼は翡翠の乳兄弟にあたる。同じ女の乳を飲み、寝食を共にし、共に学び、共に剣を打ち合わせ、そのようにして育った。血は違えど、兄弟同然である。彼はこの弟をたいそう可愛がった。元服してからは、その臣下となりて、支えた。
「翡翠」
とはいえ、第七子にはたいした仕事もないのが現状である。
政に口出すならば、嫡男や、御歳三十になる第二子、第三子がいる。戦に赴くにも、翡翠は“とある理由”からそれが叶わない。七番目の子供に回ってくる役割などほとんどなく、かといって王族がそうそう王宮を抜け出してよいはずがない。結局翡翠は一日中、自室での生活を強いられたのだった。まるで籠の鳥である。
花弁をかたどった朱色の窓から、頬杖をついてぼんやり庭を眺めていた翡翠を呼びやり、
「暇ならお庭でも歩かれればいいのにー?」
と、彼はあっけらかんとした口調で勧めた。
藍の眸がこちらを見つめる。翡翠は気だるげに吐息をついた。
「庭で、何をするんだ?」
「うーん、花を愛でたり?」
「それは女子のすることだろう」
「偏見―。それ偏見だよ、翡翠サマ。外に出なよ。風を感じて、鳥の歌声を聴いて、そうすると不思議と心も凪いでくるものだよ」
微笑まじりに教えてやると、翡翠は少しばかり心を動かしたのか、窓の外の景色に一度視線をやる。しかし、とたんに表情を険しくしてこちらを振り返った。
「何です、その疑わしい目」
「お前の言うことは、基本的に胡散臭い。よく見ろ、鳥なんて一羽も鳴いてないじゃないか」
「えーヤだなぁ翡翠サマ。知ってます?ねぇねぇねぇねぇ、知ってます?心の清いひとじゃないと、そういうの、聴こえないんだってコト」
「ああそう。じゃあ、お前はまず聴こえないわけだ」
失敬な、と心外そうに彼はあるじの頭をぺしりと叩く。王族に向けて何を、と周りに控える者が目を瞠るが、そんなことは気にしない。どころかその柔らかい髪をぐしゃぐしゃかき回していると、翡翠は声を立てて笑い、
「なぁ、花や鳥はいいから、刀をもってこい。手合わせしよう」
と子供のごとき無邪気さでせがんでくるのだった。太刀を一本、肩にかついで、嬉々として庭へと飛び出していく翡翠を、彼は目を細めて追いかける。
そんな風にしていたから、気づかなかった。
翡翠の中で、ゆっくりと何かが変わり始めていたこと。
朝から晩まで、外を眺めながら、翡翠が何を見ていたか。
帝にいいように遊ばれ果てた母と、己の身の上を顧みながら、翡翠が何を考えていたか。気づいたのは、ずっとあとになってからだった。
「帝をしいそう」
ある日、それは、唐突に翡翠の口からもれた。
彼は、きょとんとする。ゆっくりと眸を瞬かせ、それから首をかしげた。
「しいすってどうして」
愚かな家臣の言葉に、彼のあるじであるひとは妖艶に笑ってみせた。
「私が帝になるためだよ」
到底、信じられない台詞だった。
翡翠は、野心が強い人間ではない。また、欲が強いわけでも。
そして今上帝もまた、少々女癖が悪くとも、とびきりの圧政を行っているというわけではなかった。おおむね、善政。その首をすげかえてまで、また父である男を裏切ってまで翡翠が帝となる理由も必要もない。
どうして、と彼はもう一度繰り返した。
翡翠は、驚いたように彼を仰ぐ。藍の眸が何故か、悲しそうに揺れた。
泣くのかな、と彼は思った。翡翠は泣き虫だったから。いつものように、今のはただ“兄”である彼に駄々をこねてみただけで、わぁって泣いて、よしよしとなだめすかしてあげたら、そのあとできるわけないだろ馬鹿、って癇癪を起こしながらまた泣くんだろう。そうだ、そうに違いない。彼は思った。
「わからないのか?」
だから、続いた台詞は予想外で。いつもよりは少し反応を鈍らせて、彼はあるじをうかがう。
「お前には、わからないのか」
翡翠はもう一度繰り返した。それから目を伏せて、口元に自嘲気味の笑みを滲ませる。それだけだった。泣きもしない。笑いもしない。翡翠はこの愚かな家臣に自分の心を見せることをやめてしまったようだ。
そのときになって気づいた。このひとは、ずっと鳥かごの中で、にくしみを育てていたのだと。失意のうちに死んだ母から受け継いだ、帝へのにくしみをずっと抱えて生きていたのだと。翡翠の一番近い場所にいながら、一番近い場所で息をしながら彼はそれに気づけなかった。そして、気づいたときにはもう手遅れだった。翡翠は、己の育てたにくしみで己を殺そうとしている。
かくして、彼らは帝の寝所へと乗り込み、その首へ刃を向けた。
計画は失敗した。翡翠の太刀は、帝の身体を確かに薙いだのだけど、部屋の入り口で護衛をひとり殺していた刀はすでに切れ味を落としており、帝は浅い傷を負っただけだった。
綺羅の夢は一転、悪夢へと。彼らは、反逆者として帝に追われる身となった。
「翡翠、血が出てる。腕見せて」
回廊の柱に身をもたせかけて息を整えている翡翠を横目で眺め、その腕が深い傷を負っていることに気づいて彼は言った。いいよ、と強がろうとするあるじを「だーめっ、利き手だから」と言ってきかせ、袖をまくらせる。
さっき追っ手とやりあった際に斬られたのであろう。赤黒い血を滴らせ、肉をあらわにしている傷口に顔をしかめて、彼は帯に差していた薬入れから薬草を取り出した。傷口をおさえる布が必要であったので、自分の羽織の裾を引き裂いて使いつつ、疲労の色が濃いあるじに「少し眠っていなよ」と囁く。
翡翠は柱に背を預けたまま、視線だけを少しずらしてこちらを仰ぐ。
「こんなときに寝れるか」
「こんなときだからこそ、でしょ。疲れてると集中力が切れる。それは命取りになる」
俺きみの尻拭いはごめんだよ、と苦言を呈してやると、しぶしぶとうなずいて藍色の眸を伏せた。
彼はくすりと笑って、翡翠の傷口に薬草をあてがう。そこに布を巻くようにしていると、「たくさん星が見えるな」と翡翠が呟いた。まっすぐ顔を上げ、空を仰ぐ。
「“あれが王の星”」
夜空でひときわ輝く明星を指差し、翡翠は屈託のない口調で言う。
「そんな風にね、母上に教わった。“あの星を討つのはお前だ”と。“お前があの星に成り代わるのだ”と。子守唄の代わりに毎夜聞かされたよ」
「翡翠、」
「いい気なものだ。自分はさっさと死にやがったくせに」
無邪気な笑みはさらりと消え、そこには皮肉るような自嘲だけが残った。
「……別に母上を恨んでいるわけではない。これ以外に私の生き方はありえなかったのだから。けれど」
そこで翡翠は言葉を途切れさせる。乾いた笑みを浮かべたままの表情で目を閉じた。
「考える。私が欲しかったのは、本当にあの星だったのだろうか」
どこか泣き出しそうなそんな顔で呟く。否、ずっと翡翠は泣き出したかったのかもしれぬ。その身に持て余したにくしみを抱えて、途方に暮れていたのやもしれない。
彼は布を結ぶと、「少し、眠りなよ」とあるじに告げる。ああ、とうなずいて翡翠は今度こそ目を閉じた。
まもなく立ち始めたこの場にはあまりにも似つかぬすこやかな寝息を聞いて、彼は小さく苦笑する。手当てを終えて、袖を下ろすと、翡翠の腰に差された腰刀へと目を留めた。翡翠が眠っているのを今一度確認してから、その腰刀へと手を伸ばす。翡翠石のはめこまれた腰刀。冷えた柄の感触を手になじませるように握りこむと、すっと翡翠の懐から引き抜いた。そして、自分の腰に佩き、羽織でもってそれを隠した。
うっすらと空は白み始めている。群青の山の稜線から漏れいづるは淡い光で。回廊からそれを仰いだ翡翠は、藍の眸をつぅと細めた。
朝が近い。太陽が昇り、鐘楼の鐘が鳴らされれば、宮中の衛兵たちも次々起きてくる。そうなれば、逃げ道はない。生き延びる確率は皆無といっていいだろう。であるから、朝日が昇るまでに、この宮殿を出なければならない。
「間に合わないかな」
翡翠は血塗れた顔を袖でぬぐい、疲れたように呟いた。その声にはどうにも覇気がない。
「諦めるのはまだ早いでしょ。わが君」
わが君、の部分をわざと強調して、彼は答える。
うん、と翡翠は儚く微笑した。藍の眸が彼を捕らえる。すでに、見据えるまでの力はなく。ひび割れた唇が何がしかを言いたげに開かれた。けれど、軽く首を振るに済ませて翡翠は「行こうか」と言う。
おそらくは謝りたかったに違いない。彼に。命をかけさせてすまぬと。巻き込んですまない、と。けれど、それを口に出さないのは、翡翠の最後の矜持であり、また家臣である彼に対してのやさしさなのであろう。すまない、なんて弱音を口にしたら、これまでの彼と自分自身の人生をすべて否定することになってしまうから。だから翡翠は毅然と顔を上げ、振り返らず、進み続ける。抗い続ける。果てにあるのが破滅しかないとわかっていても。つまるところ、そういうひとなのだった、翡翠は。
返り血を浴びた藍の衣、汚れたその肌、細い肩を眺めて、彼は固く目を閉じた。
今、自分にできるのは最期まで翡翠に連れ添うことだろうか。それとも。
「翡翠」
歩きかけたあるじを制して呼びかける。振り返ったあるじへ、「いいことを考えたんだよ」と彼はいつもの笑顔で言った。
「――――二手に分かれよう」
翡翠が軽く目をみはる。それからいぶかしむように眉をひそめた。
彼はどんなときであれ、翡翠のそばを離れることを嫌う。それをよく知っている翡翠だからこそ、いぶかしんだに違いない。彼は軽く肩をすくめ、「一緒にいるよりは分かれたほうがどちらかが生き残る確率は上がるでしょ」と微笑んだ。
でも、と反論しかけた翡翠へそっと首を振ってみせてから、彼は続ける。
「それで、翡翠はどこかの女官を殺してその衣装を拝借させてもらうといい。女子の格好をするんだ、衛兵には反逆者は“男ふたり”となっているから目くらましになる」
「だが、」
「――――翠」
不意に彼が紡いだ名に、翡翠が驚いた様子で顔を上げる。
そして、
帝が妓女にはらませ、生まれた子は女子であったのだ。けれど妓女はそれを隠し、男として翠を育てた。何故か。正しいところはわからない。ただ、帝の血を引く男児となれば、母の身分が卑しかろうが七子であろうが万一にでも帝位につくことはできる。妓女はその微かな希望にすがったのだ。自分を捨てた男を、いつしか自分の『息子』が屠り、その帝位を奪うことを願った。それが妓女なりの男への復讐であったのやもしれぬ。だから翠は生まれたときから復讐を定められた子供だった。母親の憎しみを血として引き、呪詛の言葉を乳として受けた。そんな星のもとに生まれた。
妓女をなくしたのち、宮中へと引き取られることになった翠を守るためについていったのが乳兄弟の翡である。彼は翡という名を捨て、彼女もまた翠という名を捨てた。そうしてふたりで、第七皇子“翡翠”のふりをした。
「でもね、翡翠。もう『翡』は俺に返して?」
少女の細い顎をとり、血塗れたそれを自分の袖でぬぐうようにしながら、彼はそう囁いてやる。そして、きみはただの翠になるんだよ、と。皇子でもなんでもないただの翠に。
翠は愕然と目を見開き、ふるふると首を振る。短く切られたぱさぱさの髪が肩口で揺れた。
嫌だ、と少女は震えそうな声音で呟いた。
「今さら翠に戻れと?」
「そうだよ」
うなずけば、それではははうえが、ともはや惰性と化した言葉が紡がれる。この期に及んで彼女はまだ悲劇の末に死んだ母に囚われている。母が残した鎖にがんじがらめになっている。それこそ籠の鳥。彼女を捕らえたのは、王宮ではなく、他ならぬ母親であったのかもしれない。
ははうえが、ははうえが、ととりつかれたように繰り返す少女に、彼は「うん」となごやかにうなずいた。
「でもね翠。俺たちは玉座を簒奪できなかったんだよ。俺たちは、きみのいうあの星に手が届かなかったんだ。残念だけど」
だからね、と彼は続ける。
「『翡翠』はもうおしまい。母上のために生きたやさしい『翡翠』は帝をしいすのに失敗して、死んだんだ。ね?」
「――――翡、」
思わず、といった様子で呼ばれた名前に彼はにっこりと微笑む。ようやっと我が名を返してくださった。あなたを愛し、あなたの幸せを祈る男の名だ。
泣きそうな少女の髪をさらりといとおしげに撫ぜて、翡はその耳元にて囁く。
「翠。どうか、いきて。また会おう」
少女とはそれで別れた。
翡は、懐に手を入れ、先ほど翠から奪った腰刀をかかげ見る。花鳥の彫金がほどこされた鞘には、翡翠の石がはめ込まれている。第七皇子『翡翠』の証。
「本当はこんなもの、叩き割りたかったんだけどねぇ」
そして本当はあなたを王宮からさらいだしてあげたかった。あなたを縛る、運命という名の星からあなたを救い出して差しあげたかった。けれど、愚直なあなたは逃げない逃げないと言い張って、かたくなに抗おうとするものだから。
あなたが背負うべきだった星はこの翡が背負いましょう。
……どうか、この我侭をゆるして。
翡は祈るように眸を閉じてから、腰刀の柄をぎゅっと握り締める。
「けれど、どうせだもの。こちらは存分に使わせていただこうか」
夜明けはもうまもない。日輪がその半身をさらし、闇夜を西へと追いやる。星が消え、月が光を失い、そして朝が来る。
回廊を響く複数の足音を聞きつけ、翡はゆったりと振り返った。その口元には淡い笑みをたたえながら。
誰ぞ、と叫んだ兵士にこう答える。
「――――我が名は第七皇子『翡翠』。この腰刀がその証である!」
都を騒がせた帝暗殺未遂事件はそうして夜明けと共に終わりを告げた。
『翡翠』は宮中にて捕らえられ、その場で処刑。生首を見せられた帝は血相を変え、これはちがうこれはあのこではない、と狂乱気味に叫んだが、いやいや事件の衝撃からくる病でございましょう、と愚鈍な侍医は笑ってのたもうた。帝は事後、体調を崩し、そのあと数年で早世なされたのだとか。
事件を忘れ、華やぎを取り戻した都の片隅に、小さな名もなき墓碑が立ったのはしばらくたってからのことだ。墓碑には一輪の野花が供えられ、毎日欠かされることがない。
一度、墓碑の前にて手を合わせる少女を見つけた老人がそのあまりの美しさに惹かれて、名を問うたことがある。娘はほんの少し考え込んでから、翠でございます、とふうわり微笑んで答え、水桶を片手に楚々と去っていった。
その頭上では二連の小鳥が囀りながら飛び交い、そしてまだ煌き始めたばかりの明けの明星が、少女の行く道をやさしく照らした。
かごの中の
二連の
F-06 翡翠
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