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F-09  カフェ・アルモニカ

 彼女の華奢な足がペダルを踏む。乾いた指先が濡れたグラスを撫ぜ、眩暈のような音色が響き渡る。
 それは三点ヘ音を奏でるソプラノよりも幻惑に、熾天使と謳われた音色は人の心を掻き乱す。
 死者の魂を呼び寄せ、生者の魂を病ませる。精神病棟へ入院した者、夭死した者、自殺した演奏家。挙げ句、演奏会場で人が死ぬ騒ぎ。ドイツでは警察当局が禁止令を出し、逮捕者まで出たという。ウィーンでは、追放された者もいたっけ。
 全てはグラスハーモニカの為せる業。
 そんな逸話多き謎多き楽器を操る彼女は何者か。
 落とされた照明の中、揺らぎを持つ蒼白いライトに照らされた彼女はまるで水中神殿の人魚のよう。
 海の泡となった人魚が水面へ踊り出て消えるように、流れ星が消える一瞬に最も輝くように、煌々しいダイヤモンドダストの音色。
 妖婉な神秘主義。鼓膜から脳髄へと響く音色。酷く気分が悪いのに、酷く心地良い。
 テーブルのトニックウォーターが炭酸を弾けさせ、その音に毛足の短い絨毯を踏む足が、ソファーの肘掛けに乗せた腕が、強張る。
 ブラックライトにキニーネは蒼白く光る。あまり発泡させないのが美味しいジントニックを作る上手いコツであり、グラスの底から一列に並び水面へ向かう気泡は僅かな光に煌き、まるで薄いグラスボール。
 アルモニカ・ア・ビッキエーリ、グラスハーモニカを見世物とするこのカフェは、まるで彼女の為に誂えたようでもある。
 半地下の密室に木霊する様は、まるで頭蓋の反響。
 トニックウォーターを湛えたこのグラスも、濡れた指で縁をなぞればハープとなるのだろうか。グラスハーモニカよりも繊細な、グラスハープ。時折彼女が思い出したようにそれを奏でる時の、無数のグラスを行き来する細腕の忙しない動きが好きだった。
「いつも、聞きにきてくれるのね」
 少し舌足らずな声に、一瞬にしてトニックウォーターが泡立つ。驚いてソファーから身を起こせば、グラスの中に金平糖が落とし込まれていた。
「トニックウォーターなんて、苦くない? 私は嫌いだわ」
 演奏の終った彼女が、キャンディーの入ったグラスボールを手に立っていた。
 グラスハーモニカの妙なる楽に、いつのまにか気でも失っていたのだろうか。まるで空間を切り取ったかのように彼女は壇上から姿を消し、そこに立つ。
 演奏を終えたばかりの彼女の指はグラスハーモニカの振動に耐え兼ね、小刻みに震えていた。
「今日も素晴らしかったよ、マリー」
 痙攣を起こす彼女の手からグラスボールを取り上げる。それを落とすことによって、彼女の指が傷つくのを厭ったのだ。
 魂を病むグラスハーモニカ。
 それを己の心のままに操る彼女の噂は聞いていた。
 カフェにはないメニュー。ジントニックに使われるトニックウォーター。熱病除けのそのメニューを頼めば、彼女は演奏家ではないもう一つの顔を見せる。
 震える手を取り口付けをすれば、まるで金平糖に隠された芥子粒のように、尾を揺らし海底へと誘う鱶のように、彼女は妖婦の微笑みを浮かべる。
 脳髄へと響くグラスハーモニカ。人の心を酷く惑わし、その音色に溶ける者の心を欲する。けれど、触れられるのは肉体ばかり。芸術家の心は、一夜限りの帳の中。神殿娼婦の空気を纏う彼女と甘い夢を夢見る。
 グラスハーモニカの音色はいつしか耳鳴りになり、彼女という幻想に人々を惑わせる。
 彼女は淫猥なる女神の化身。


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