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F-10  星龍井戸譚

 この時代、皇帝の治世は一片の悪しきものがなく、その仁の心は天の下をあまねいていた。万民は平和を謳歌し、辺境の地であってもその豊かさは行き渡っていた。ここ假睡にも、その恩恵は充分に届いていた。
 假睡は応龍江の上流に広がる街である。古井戸を中心として碁盤の目のように整えられたその姿は、皇帝のまします都もかくやといった風情で、理想的なたたずまいを見せていた。また、黄姓の発祥の地でもある。大陸中に広がる黄一族の本流は、今もなおこの街に住んでいる。

 そこは薄気味が悪くなるほど、日が差し込まない部屋だった。不思議とほこりが積もることもなく、空気が淀むこともない。
 朱色の漆が塗られた扉の前まで、お団子頭の童子たちがもつれるようにやってきた。童子たちは着ている服も似ているのならば、顔立ちまでもそっくりで、同じ茎にぶら下がる二つの瓜のようだった。
「妹妹(妹よ)」
 黒の飾り紐で髪を結んでいる童子――黄垣筐が言う。
「しーっ。
 垣哥哥(垣兄さん)黙っていて」
 赤い飾り紐で髪を結っている童女は、童子の唇に人差し指を突きつける。ほんのちょっとふれた指先は、餅のように白くて柔らかかった。
「ここよりも、広場のほうが楽しいよ。爺爺(父方の祖父)に知られたら、怒られちゃうよ」
「垣哥哥は臆病者で、意気地なしね」
「林圭籃!」
 童子は同い年の従妹をねめつける。童女は肩をすくめる。
「さ、入りましょ」
 林圭籃は扉を押し開いた。
 すーっと光が二人の影を床に縫いとめながら、室内に入り込む。謹厳な祖父と同じように、部屋の造りはどこまでも古風であった。床から天井まで伸びる柱は太く、精緻な彫刻が施されていた。龍が天へ舞い上がっていく様が生き生きと彫りこまれていて、今にも飛び出していきそうな躍動感があった。天井は綺羅らかにも星宿が描かれていた。
 まるで大伽藍だ、と童子は感心する。
「あれ、見て」
 従妹が袖を引き、真正面にある銅鏡を指し示す。漆塗りの台の上に鎮座する鏡は、扉から差し込んだ陽光を受け、ぼんやりと浮かんでみえた。
「キレイ」
 歓声を挙げて、童女は鏡に近寄る。
「妹妹! 爺爺に怒られるよ!」
 童子は慌てて制止する。黄家の長老である祖父はとても気難しがり屋なのだ。許可もなく部屋に入って、無断で宝物にふれたと知られたら、どれほど怒られるのだろうか。
「垣哥哥。とてもキレイよ」
 鏡を手にした林圭籃は、顔いっぱいの笑顔を浮かべる。
「見て。真ん中がキラキラとしている」
 銅鏡の裏面を童女は、童子に見せる。鏡の裏面には四方を守る四神が緻密に彫られ、その中央に黄金に輝く石がはめ込まれていた。
「石が光に反射しているだけだよ。
 ほら、鏡を戻そう」
「そこにいるのは、阿垣(垣坊)と阿圭(圭ちゃん)か?」
 老人の声に童子はギクリと肩をすくめる。
「爺爺!」
 黄垣筐が謝罪の言葉を口にするよりも早く、祖父は相好を崩した。杖を突きながら二人の前までやってくる。体全体の気を入れ替えるように、大きく息を吸うと「これは『星籠』という。
 蚩尤を倒した黄帝を知っているだろう? その黄帝から、我らの祖がいただいた大切な宝物だ。いや、我らはこの『星籠』の守り人なのだ」
 祖父は誇らしげに言う。神妙な顔つきで聞いている従妹とは違い、黄垣筐はいまひとつピンとこなかった。
 黄帝は昔の人すぎて、想像がつかない。美しい銅鏡ではあったが、何故これを守っているのか、疑問ばかりが湧いてくる。
「黄家の一員として、お前たちは『星籠』を守らなければならない。わかるな?」
 祖父は言った。
「はい」
 二人の童子は、うなずいた。

***

 節句の祝いは一族郎党が集まる盛大なもので、一年に一度しかない冬至の日であれば、その騒々しさは半端ではなかった。立春まで続くお祝い騒ぎに、まだ数え十五にしかならない黄垣筐が閉口して、自分の部屋へと引っ込んだのも仕方がないことなのだろう。
「林姑娘(林嬢)が来ているぞ」
 同じ屋敷に住む父方の従兄が悠々とした時間を打ち破りにきた。
「妹妹が?」
 無聊の慰めにと琴の楽譜を探していた少年の手が止まる。
「いつまで、妹妹だ?」
 従兄は、ぷっと吹き出した。
 己は不思議なことを一つも言っていない。黄垣筐は怪訝な顔で話の続きを待つ。
 林姑娘こと林圭籃の母と黄垣筐の母が一つ違いの姉妹であったことと、同年同月同日に生まれた従兄妹ということもあって、七つまでは本当の双子のように育てられた。
 黄家の結束は強く、娘が外へ出ても、他人として扱うことはない。同世代の従兄弟同士は、母方であっても立派な兄弟である。
「未来の妻だろう」
 従兄は肩をすくめながら、種明かしをする。
「結婚に異論はないが、やはり妹妹だ。
 それで、どこに?」
 黄垣筐は尋ねる。
「捜してきてほしい」
「……なるほど」
 少年は立ち上がった。
 同い年の従妹は、次の新年で十六歳になるはずなのだが、変わっていないらしい。
 遅い冬の訪れに半ば感謝しながら黄垣筐は屋敷を出て、街を歩く。息が凍るような冷たさで人捜しをするのは、頼まれてもなかなか首を縦に振れないものだ。例年であれば葉を落としている時分だが、木々は錦秋といった面持ちで、その華やかな葉を見せびらかしている。
 街の中央にある枯れ井戸の側で、捜し人を見つけた。一年ぶりに出会う従妹は、匂うような女人……にはなっていなかった。
 旅人らしい身なりの少女から見出されるのは闊達さぐらいだろう。帯に結ばれた玉つきの組み紐が、若い娘らしい飾りっ気という按配だった。それすらも水気を生む金気の色彩であるところの白玉であれば、めかしこんだとは言いがたい。
「妹妹!」
 黄垣筐は走り寄る。久方ぶりの出会いに顔が自然とほころんだ。
 少女の大きな双眸が長い睫毛も重たげに瞬く。
「垣哥哥?」
 小首をかしげ、小さな唇がささやいた。
「ああ、そうだよ」
「驚いたわ。すっかり背が高くなって、見知らぬ人みたい」
 少女は少年の周りをくるりと回る。
「どこから見ても立派な老爺(旦那さま)ね」
 林圭籃は黄垣筐の鼻を人差し指でつつく。ニッコリと笑う顔は、一年前と変わらない。
「皆が捜している。屋敷に戻ろう」
 少年は言った。
「でも、どうしてかしら?」
「何がだい?」
「一年前も、ここで垣哥哥に会った気がするわ」
 林圭籃は井戸の縁に腰をかける。仙女が舞うような重さを感じさせない動作に、黄垣筐はひやりとする。
 広場の井戸は、ずいぶんと昔に枯れてしまって、落ちたら一巻の終わり。冷たい石に叩きつけられるだけだ。
「妹妹、危ないよ」
「垣哥哥は心配性。
 中身を取り替えてしまったほうが、私たちは良かったのかもしれないわね」
 少女は何がおかしいのかクスクスと笑う。
「林圭籃!」
「去年だって、ここに落ちたりはしなかったわ。その前だって。
 黄家の娘が古井戸で儚くなるなんて、活劇にもなりはしないわ。
 それとも垣哥哥が漢詩にしてくださるのかしら?」
 少女はふわりと井戸の縁から離れ、少年のすぐ傍まで寄ってくる。
「来年は寄り道なんかをしないで欲しいよ」
「さあ? 来年、垣哥哥は私を捜してはくれないかもしれないわ」
 黒く大きな瞳が井戸を見やる。
 簡素に結ばれた髪の間から見える白いうなじから、すっと伸びた背中までに、ふっと陰りが通りすぎた。
決して美人とは言えない後姿ではあったが無性に抱き寄せたくなった。
「何故だかは知らないけれど、妹妹を捜すのは僕の仕事のようだから、真っ直ぐに屋敷に来ないつもりなら、また捜しにくるよ。
 妹妹は危なっかしいからね。目を離しておくわけにはいかない」
 黄垣筐は慌てて言う。
「ま、垣哥哥。次の冬至には、私も破瓜(十六)の歳よ。
 『老婆(愛しい人)には家を守ってもらわねばならない』ぐらい、言ったらどうかしら?」
 体ごと振り返り、従妹は言った。唇を尖らせ告げる様子は、まだ子どもそのものだった。
「結婚して妹妹が変わるとは思えないから、やっぱり僕は捜し回っていそうだよ」
 少年は微苦笑した。


「垣哥哥。応龍江で水遊びしましょ。
 血のように赤く染まっていると思うの。もう見られて?」
 声を弾ませて林圭籃が提案したのは、明日は冬至を迎えるという日であった。
 琴の譜面とにらめっこをしていた黄垣筐は顔を上げて、従妹を出迎える。
「風邪を引いてしまうよ、妹妹」
「綾羅と名高い江を見てみたいの。秋の応龍江は、この上もなく美しいと言うじゃない。どんな綾絹も錦も敵わぬ華やかさだと。
 でも、私ひとりじゃ怒られるでしょ?
 垣哥哥と一緒なら媽媽(お母さん)も許してくれると思うのよ」
 琴を挟んだ向かい側に少女は座る。
「確かに応龍江が紅葉に染まる姿は美しいけれど、もう冬だよ」
「これだけ暖かいんですもの。まだ葉は残っていそうだわ」
 生まれついての揉め事製造人である少女は、力説する。
「勝手に出て歩いたら、皆が良い顔をしないよ」
「天帝様が私に美しい応龍江を見せるために、季節を止めてくれているのかと思っていたのに。
 こんなことは初めてでしょ。だから」
「あまり良くないことだよ。
 長老様たちも、ずっと話し合っている」
「何を?」
 新しい興を見つけて、少女は顔を輝かせる。己の迂闊さに、黄垣筐は後悔する。
「何が今、起きてるの? 未だ葉が赤いことと関係があるのね!」
「僕は何も知らないよ。
 ただ葉が色づいてしばらくすると、雨が降って、それが雪に変わるだろう? 今年は勝手が違うから、それで」
「それで話し合いなのね。面白そう!」
「妹妹」
 少年はたしなめる。
「垣哥哥。琴なんてよして、私とお話しましょ。
 退屈で死んじゃいそうよ」
 真っ白な手を琴の上にそろえて載せて、林圭籃は訴える。
「縁起でもない。
 死を軽々しく口にするものじゃない」
「まあ、垣哥哥。そうしていると媽媽のようね」
 少女は大きな目を真ん丸くさせて、それから陽気に笑った。
 弾けるような笑い声に、つられて黄垣筐も笑む。
「退屈しないように、妹妹の好きな曲を弾いてやろう。
 花に遊ぶ胡蝶のような軽やかで華やかなものがいいかな」
 少年は、普段なら絶対弾かないような曲を挙げる。
「小雨のようにささやく曲が良いわ」
 意外なことを従妹は言った。
 黄垣筐は、長い睫毛に縁取られた双眸を覗き込む。水気そのものの色の瞳は吸い込まれそうなほど深い。
 恋の曲が必要なほど、自分たちは大人になったのだろうか。
 琴の譜面を持つ手が柄にもなく震える。
「それでうたた寝をしたら気持ち良さそうでしょ」
 春風のように満面の笑みを浮かべて、少女は言った。
 取り越し苦労に、黄垣筐は胸のうちでためいきをついた。

 
 ぬるい冬は雨を置き去りにした。あるいは、雨が降らないために季節は停滞しているのかもしれない。常とは違う気の流れを黄家の長老たちは重くみた。何度も易を読み、古書を紐解く。結果は『凶』。このままでは新年を迎えることはできない。雨乞いをすることが決められたのは、まさに冬至の日であった。選ばれたのは黄垣筐と林圭籃。
 これから葬式にでも出るかのように、上から下まで真っ白な服に身を包み、二人は儀式にふさわしい場所へと向う。少女の手には黄家の至宝、『星籠』と呼ばれる銅鏡があった。
 家の窓という窓は閉められ、門という門は閉ざされ、街は水を打ったように静まり返っていた。銅鑼や太鼓の音で神を讃え、迎える通常の雨乞いの儀式とは何もかもが違う。
 まるで己が幽鬼になってしまったようだ。と黄垣筐の胸は鉛でも呑んだように重くなった。
「何故、垣哥哥と一緒なのかしら?」
 物々しい雰囲気に頓着せずに、従妹は弾むようにしゃべりだした。
「妹妹だけでは心もとないからさ」
 黄垣筐はいつもの調子を思い出し、ささやくように切り返す。
「まあ。失礼しちゃうわね。垣哥哥よりも、しっかりしているつもりよ」
「単純に、妹妹が女で、僕が男だからだろう。太極だ」
「それぐらいは知ってるわ。物知らずのように扱わないで」
 つんっと少女は顔を背ける。厳粛な儀式の最中だということを忘れてしまいそうな親しみが心の奥から湧いてくる。正午を境に、黄垣筐が先に生まれ、林圭籃が後に生まれたのは、必然であったのだろう。
「誰もいない街は静かで素敵ね」
「そんなことを言うのは、妹妹ぐらいだろうね。怖くはないのかい?」
「垣哥哥と一緒だもの。怖くはないわ。
 むしろ、心が浮き立ってくる」
 林圭籃は銅鏡を愛惜しむように抱えなおす。
「毎日が儀式の日でも良いわ」
「妹妹。これは重要で、神聖な儀式なのだよ。
 黄帝様に『雨』を祈願するんだからね」
「儀式といっても、煩雑な取り決めもないじゃない。こんな雨乞いは聞いたことがないわ。
 本当に降るのかしら?」
 少女は小さな頭を空へと向ける。冬至の弱々しい太陽の姿が確認できた。
 二人は街の中央まで歩いてきた。ほんの数日前に林圭籃と再会した枯れ井戸の前に立っていると、漠然とした不安が広がってくる。想像もしていなかった未来だ。ここまでうるさいほど話しかけてきた少女も口をつぐんでいた。大きな黒い双眸に、少年はうなずいてやる。「大丈夫」と声に出すことはなかったが、同じ日生まれの従兄妹同士だ。それだけで伝わる。
 黄家の娘が手を差し伸べて、枯れ井戸に『星籠』をかざす。
 一年で最も昼が短い日の太陽が井戸と垂直になる刻が来た。銅鏡を挟んで、井戸と太陽が重なる。鏡裏の中央にはめ込まれた黄金の玉がおのずから光り輝いたように見えた。
「黄を帯び、中央を占める極北の星よ。
 今こそ竹籠を解き、垣根を開かん。
 この地に永らくとどまる土気よ」
 男と女の声が歌うように唱和する。

 それだけだ。

 まず地が揺れた。物が倒れ、崩れ、うなる音がした。ふらりと井戸へ引き寄せられた従妹の体を少年は力いっぱい引きとめた。
 真っ白な手から『星籠』が離れた。大きな揺れだというのに、四神をあしらった銅鏡は迷うことなく真っ直ぐと井戸の底へ落ちていった。
 カランッ
 耳が壊れてしまいそうな騒音の中で、鏡が落ちた音など聞こえるはずもないのに、黄垣筐の耳には玉が揺らぐような音として響いた。
 井戸の側に座り込んだ二人はひしっと抱き合い、それを見た。
 龍が天へ帰っていく。
 水がうねりながら、鳥よりも早く空を駆け登っていく。
 井戸から溢れ出した水は、二人を綺麗に避けて空に撒き散らされた。目に映らないほど小さな雫となり、いくつもの虹をつくる。
 いつの間にか揺れも収まり、街は水の冷気と静けさに包まれていた。
「垣哥哥。龍だわ」
 気丈な従妹は立ち上がり、井戸の縁に手をかける。陰気は水に遊ぶ。危なげな背中を守るように、黄垣筐も井戸の底を見やる。
 数百年前に枯れたはずの井戸は、なみなみと水をたたえていた。
 ここに黄帝に仕えた、土気に遊ぶ黄龍が封じられていた、ということだろう。土気は水気に相克、井戸の水は枯れてしまったというわけだ。
「『星籠』落としちゃった。
 何て謝れば、長老たちは許してくれるかしら?」
 少女は少年を振り仰ぐ。無事に儀式を達成した従妹のいたって無邪気な問いに、黄垣筐は笑みをこぼした。
「鏡は井戸になったんだよ。
 これからの黄家は、この井戸を守っていくんだと思うよ」
 だから、大丈夫。と少年は言った。


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