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G-02  月の隣

 早朝の学校は、ひと気が少なくて安心する。
 誰にも言えない率直な感想を胸に、彼は足早に下駄箱へと向かった。
 自分の下駄箱に突っ込まれていた手紙に溜め息を押し出して、まとめて鞄に放り込むと、靴を履く。
 足が向くままに歩き出した彼の表情は、硬い。

 屋上に上って、ぐるりと一周視線を動かすと、給水塔が目に付いた。
 その影を覗き込めば、フェンスとの隙間は、ちょうど足を伸ばせる程度。
 ぐったりとアスファルトに転がると、冷たい温度が心地よい。
 目を閉じて、睡魔に襲われる刹那、ふわりと頬に触れた柔らかな毛並み。
 ごろごろと喉が鳴る音が耳元で聞こえた。
「……猫?」
「む」
 低い声が落ちて、反射的に目を開ければ、怪訝そうな表情で自分を見下ろしている男子生徒が一人。
「……誰だ?」
「お邪魔してます……?」
 お互い疑問系で口にし合ったまま、二人はしばらくの間、動けずにいた。

 見つめてくる視線に耐えかね、起き上がって正座した少年は、折り目正しい礼をする。
「ええと、2年F組の高見千尋、と言います」
「俺は、2年F組の南郷和秀だ」
 律儀に名乗り返す彼の言葉に、きょとりと瞬く千尋。
「あれ、同じクラス?」
 高見、と口の中で復唱して、彼は眉根を寄せ、そのまま、頭を綺麗な角度に下げた。
「済まない、覚えていない」
「はぁ、いや……俺も、覚えてなかったし」
「そうか」
 こくりと頷いて、彼は足元にじゃれつく仔猫を撫でつつ、千尋を見返す。
 何かを言おうと口を開きかけて一度閉じ、再びゆっくりと口を開ける。
「……浅見は」
「高見だ」
「済まない。人の名前を覚えるのは、苦手で」
 おいおい、と内心突っ込みを入れつつ、彼はにこりと対人用の笑顔に切り替える。
「なら、好きに呼んで良いよ」
「それで、北見」
「高見」
「……高見、どうしてここに?」
 純粋に問う目線に、気まずい思いで下を向く千尋。
 表情は、気持ちと同じように素直に暗くかげっていって。
「授業とか始まるまで、教室、いたくなくて」
 そうか、と返したきり黙って仔猫に餌をやっているクラスメートに耐えかね、千尋は恐る恐る口を開く。
「それ、だけ?」
「む?」
「いや、普通さ。何でとか、どうしてとか、聞かない?」
 首を僅かに傾け、少しの間黙り込んでから、首を元の角度に戻して静かに問う和秀。
「……聞いて欲しいのか?」
「いや、正直、あんまり」
 もごもごと呟く少年の表情が、くるくると変わるのが不思議で、視線を外せないまま穏やかに言葉を紡ぐ。
「なら、聞くまい。話たいというのなら別だが。俺自身、さして興味もない」
「……そっか」
 話を逸らしたくて、明るい口調で気分を切り替える千尋。
「和秀は、どうしてそんな言葉遣いなんだ?」
「む……やはり、変か」
 眉間にしわを寄せる彼に、フォローを入れるべきか迷って、無難な線を選ぶ。
「何て言うか……ちょっと変わってるよな」
「祖父が厳格でな。だから、本当は」
「え?」
 小さく落ちた声を聞き返したのと同時に、予鈴が響いて、和秀は顔を上げる。
「……こいつを帰して来ねば」
「へ?」
 仔猫を腕に引っ掛けて立ち上がり、足早に去っていった彼を、千尋は呆気に取られて見送った。

 下校時に下駄箱で遭遇した知人は、手紙を必死に鞄に詰め込んでいた。
 黙ってそれを見つめてから、無言ではまずいのではないかと思い至り、和秀は口を開く。
「……もてるな」
「嬉しくない」
 普段より堅い表情でそう返す千尋の様子に、和秀は黙って彼を見つめる。
 鞄に手紙を詰めるだけ詰めて、荒い動作で下駄箱を閉じると、既に靴を履いていた和秀の制服を引っ張る。
「移動しよ」
 しゃがんでいた青年は、足元と友人の顔を見比べてから、一つ頷いた。
 屋上に二人で座り込み、寒風に吹かれる事二十分。
 自分の膝に視線を落としつつ、千尋はぽつりと呟いた。
「俺、誰に何言われても、響かなくって。だって、みんな俺の意見に賛同するだけでさ。同じに、見えちゃって」
「そうか」
「でも、みんな俺の周りに集まってきて、俺の機嫌ばっか取って。俺なんかの、何が良いんだよ?」
 いつまで経っても注目される事やちやほやされる事に慣れないと言えば、世間一般的には怒られるのだろうか。
 それが、何より居心地が悪いのだと、口にすることも出来ない環境なのに。
「さて、な。だが、俺はお前が嫌いではない」
「嫌いって程、付き合いもまだないし?」
 あっさりと問いに頷いて、しかし彼にしては親切にアドバイスを探す。
「高見、そういう時は、美味いものでも食うと良い」
 きょとんと瞬いて固まった少年に、困惑の視線を向ける。
 ぱくぱくと口を動かしてから、一度唾を飲み込む千尋。
「……今、高見って」
「また、違っていたか?」
 横に首を勢いよく振る少年に、そうか、と頷く。
「なら、良かった。高見、寄り道を出来る時間はあるか」
「え、あるけど……」
「美味い肉まんを出す店がある。俺が奢ろう」
 今度は縦に首を勢いよく振る少年に一瞬だけ笑いを零し、彼は立ち上がった。

 駅までの道を歩きながら、行儀悪く肉まんを頬張る少年に、微かに苦笑する和秀。
 ご機嫌なリズムで鼻歌を歌いながら、彼は口内に残っていた物を咀嚼して、あ、と呟く。
「和秀って、部活やってんの?」
「サッカー部だ。万年補欠だけどな」
「そっか」
「だから、親に辞めろと、言われている」
 普段と変わらず、穏やかに伝えられた言葉だったからこそ、その重大さに気付くのが遅れた。 
「え……?」
「結果を出せないなら、やるべきではない、と」
 口調は変わらぬまま、歩調が微かにゆっくりになっていることに気付き、千尋は彼の前に回る。
「何だよそれ……言いなりに、なるのか?」
「……俺は、何一つ自分の力で為している訳ではない。生活していくための金も、学校に通っている金も、全て親が払っている」
「そりゃ、そうだけど」
「だから、俺はきちんと評価されたかった。でも、スタートラインにも、立てなかった」
 呟く顔は、普段と同じ表情が読めないまま、それでもどこか寂しげで。
 自分に喋ってくれたことが嬉しくて、頭を必死に働かせる千尋。
「俺は、好きなことやって良いと思うけど」
「だが」
「だって、どう生きても、お前の人生じゃん。親が何だよ、誰も責任なんて取ってくれないぜ?」
 戸惑いを隠しきれず、視線を中空に向けてしばし固まり、それから、ゆっくりと千尋を見返して小さく彼は告げる。
「……そう、だな……そう考えても、良いのかも知れない」
 応えて笑う少年に、穏やかな声色で、心からの言葉を伝える。
「ありがとう」

 それから、同じ時間を多く過ごすようになった日差しが穏やかな日、並んで小さい空間に収まり、昼食を食べながら、和秀は口を開く。
「高見は、恒星だな」
「は? 何さ、唐突に」
「いや、授業を聞きながら、思ったものでな。お前の明るさは、人を照らせるほど強いものだ、と」
 事実、俺もそうだ、と呟く彼に、ぶは、と千尋は吹き出した。
「……俺を口説いてどうするよー」
「む……口説き文句に聞こえたか?」
「使えるんじゃね?」
 ふっと表情を緩める和秀に、にやりと笑い返す。
「そうだな、俺が太陽ならお前は月ってトコか」
「む」
「お前が思ってるのと、俺の言ってる意味、多分違うぞ」
 じっと見返されるのに、問う意図を汲み取って、にやにやと笑う千尋。
 そのまま和秀の弁当箱から、玉子焼きを奪い取り口に放り込む。
「でも秘密。まぁ、いつか口説いてやるよ」
「別に求めていない」
「大人しく口説かれとけよー」
「断る」
 冷たい口調で言い切るのが、彼らしくて、楽しくてたまらない。
「つれないなぁ」
「それが、俺だからな」
「ん、知ってる……そだ。午後、文化祭の準備、手伝えよな」
「む」
 途端に顔を横に向ける友人に、にこにこと笑顔を送る。
 さり気なく自分のミニトマトと和秀のから揚げを交換することも忘れない。
「この前、逃げたっしょ?」
「苦手でな」
「俺もだ。だから、一緒に行こうぜ」
 こくりと素直に頷いてくれるのが嬉しくて、ペットボトルの紅茶を喉に流し込むと、弁当の残りに手をつける。
 何か言いたげな視線を向ける和秀も、溜め息を落としてから自分の弁当を口に運んだ。

「高見」
 模造紙を手に脚立に上ろうと一段目に足を掛けた所で、千尋は背後から呼ばれて振り返る。
「ん?」
「俺が変わる」
 かすかに頬に意地悪な色を浮かべて和秀は笑う。
「俺の方が背が高いだろう。寄越せ」
 伸ばされた手に逆らえず、渋い表情で模造紙を押し付けると、和秀に背を向けてパレットに渾身の力で絵の具を絞り出す。
 哀れな状態になったチューブをゴミ箱に向かって投げつけた所で、再び背後から呼ばれる。
「おい、高見。ここで良いのか?」
「……どれ」
 膨れつつも立ち上がり、振り返った時だった。
 ふざけて押し合っていた男子生徒が、和秀の乗っていた脚立にぶつかって。
 呆気なく傾いだ脚立と、和秀と。
 あっさりと、彼は後頭部から床にぶつかる。
 倒れて、目を閉じたその姿は、寝ているかのようで。

 呼吸が上手く出来ない。掠れた音を立てる喉に手をやる。
 ぐらりと、足元が揺らぐ感覚。
「嘘、だろ?」
 情けなく震えた声は掠れて。
 遅ればせながら上がった悲鳴も、口々に叫ばれる彼の名前も、まるで現実味がなくて。
 駆け寄るクラスメイトがすれ違いざまに肩に触れて、がくりと膝を突く。
「救急車……先生、呼んで、早くっ!」
 自分の悲鳴染みた叫びだけが、耳の奥から、消えない。
 


 白を基調とした部屋で、目を閉じたまま静かに呼吸を繰り返す青年に、スーツ姿の青年は、明るく声を掛ける。
「よ、和秀。会いに来たぞ」
 頻繁に病室に足を運ぶのは、最早彼の家族よりも自分になっている事を、彼はよく知っていた。
 精悍だった頬の線が、かすかに和らぎ、筋肉質だった腕や足が細くなっていくのを、日々見ていれば、気付かずに済む訳でもないのに。
 枕元の椅子に腰掛けて、ふっと真顔になると、千尋は取っておいた言葉を口にする。
「なぁ、和秀。俺は、お前がいたから、俺を認められたんだ」
 穏やかに繋がっていく言葉は、紛れもなく彼の気持ち。
「お前が俺に惑わされずにいてくれたから、お前のままでいてくれたから、俺も、俺のままでいられた」
 だから、お前が月なんだ。と呟く千尋。
「……男相手に口説き文句なんて、これっきりだぞ?」
 悪戯に笑って、届かない言葉を並べていって。
「あの時、俺の傍にいてくれてありがとう」
 静かな心で伝えた言葉を、困惑が隠しきれない表情で、受け取ってくれたら、と願いながら。
 それでも彼がまだ、生きていてくれる事に、感謝して。
「じゃあ、またな、和秀」
 笑顔で立ち上がった彼は、振り向くことなく、病室を出る。
 前を向いて歩き続ける事で、いつか彼が起きた時、再び並んで歩けるのだと信じて。


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