index 掲示板
Aブロック Bブロック Cブロック Dブロック Eブロック Fブロック Gブロック Hブロック
G-04 さいはての星
海が呼んでいる。崖に押しよせた波は白く砕け、啼き叫ぶ海鳥に和して轟いている。
王はおのれの死が近いことを悟った。
年老いた彼が夢見るのは、燃えいずる太陽を追いかける未来ではなく、没する太陽と共にこの世を去りゆくことだ。
それは太陽が大海原に没する地の果ての夢。
銀の河が降りそそぐ星の野、約束の場所で、乙女は彼を待っている。揺れる白い花に埋もれて、微笑みながら。
約束が果たされる日を待っている。
まどろむ王の皺深い口元に微笑が刻まれた。
海の呼び声にいざなわれ、王は時の流れをさかのぼり、乙女と出会いし少年時代に帰っていく。
王子は狩りたてていた牡鹿の枝角に太ももを突き刺され、馬から転げ落ちた。生死の境をさまよった王子が目覚めた時、おのれの足がふたたび大地を踏みしめ、歓声をあげて駆けることはないことを知った。
不具となった王子は巡礼の旅に出た。殉教した聖人が流れ着いた星の野を目指して。
聖人に祈願する者すべてに救いの手は差し伸べられ、目が見えぬ者は瞳に光がもどり、足の萎えた者は歩けるようになり、病の鎖につながれた者はみな解き放たれ癒された。それらのあまたの奇蹟譚を信じて、王子は聖人が祀られている大聖堂に連日通いつめた。だが、祈りは天に届かなかった。
王子の足は萎えたままであった。
絶望し、寝台に横たわる日々を送っていた王子のもとに、最後に残された希望が届けられた。それが奇蹟をおこなうという評判の娘だった。
娘は痩せた小さな体を擦り切れた灰色の服とも呼べない襤褸でおおっていた。垢で汚れた浅黒い顔のなかで瞳だけが美しかった。みつめられた瞬間、王子の背骨は弦のように震えた。巡礼の途上でみあげた銀河がその瞳に輝いていた。
幾千幾万の星がうたっていた。
母なる海につながる血潮の歌をうたっていた。
心臓は歌にこたえて轟いた。血は高潮のようにうねり、体の隅々を駆けめぐり、歪みを正し、癒していく。
そして、王子はおのれの足がふたたび大地を踏みしめていることを知ったのだった。
「わたしは葦で編まれた籠にいれられて、貝殻が敷きつめられたこの岸辺にたどりつきました」
捨てられた赤児を拾った者も貧しかった。食べるものも着るものも十分に与えられず、醜い娘だと疎んじられて育った。
「わたしの母さんは、波の彼方の国にいるんです」
月の明るい夜だった。顔も知らぬ母を恋しがって泣いていると、彼女を呼ぶ声がした。その歌声は娘を呼ぶ母の声のように慕わしかった。海から響く歌声に引き寄せられるまま歩きだした彼女は足を濡らしていく水の冷たさに我に返った。すると、呼び声は潮騒でしかなかった。
唇をぬらす塩辛い涙は寄せる波のうえで砕け、引いていった波のあとには貝が残っていた。拾い上げた貝を口にあてると、息を吹き込んだ。
狂おしく母を求めて嘆く音色が海に届いたのであろうか。
冴え冴えとひかる月が海原を二つに割いて、銀の光がさざ波立てて走る波間に白い腕がゆらゆらと揺れていた。母の手が娘を手招くように。
――あとに残されたのは寄せては返す波に洗われる貝殻だけだった。
「そうして、わたしは海の底で母さんに抱きしめられ、瞼に母さんは口づけてくれました」
それが母親の贈り物だった。彼女の瞳はうつしよを見る光を失ったかわりに彼岸の彼方を視る星の光が輝いていた。
そして、その盲目の瞳には奇蹟をおこす力を授かっていたのだ。
歪んだ足を癒してくれた娘とともに王子は白い花が揺れる野原で沈みゆく太陽を眺めていた。
娘は歌をうたっていた。海の楽の響きに血潮が高鳴る。胸を割ってあふれでるほどに。
王子の頬に涙がつたいおちた。これほどに美しい歌がこの世にあるだろうか。
王子と乞食、身分の違いは天と地ほどに隔てられていても、ふたりが親の温もりを知らないのは一緒だった。孤独な魂は互いに呼び合い、おのれ以外の体温が毛布よりも温かいことを知った。
しかし、別れの時が迫っていた。
巡礼者の旅路は海がはじまるこの地の果てで終わる。巡礼を終えた王子もまた都に戻らねばならない。
「僕は君と別れたくない。どうして一緒に来てくれないんだい」
「王子様、わたしは海から離れられないのです」
娘は波の彼方をみつめていた。
「僕は君が好きなんだ!」
海にとらわれている娘の心を振り向かそうと必死で絞り出した声を吹きつけてくる風がさらっていく。
人ならぬ輝きを宿した瞳が王子をみつめた。
「誰からもかえりみられなかった孤児のわたしを愛してくれた人は王子様だけです。でもわたしは海から離れられないのです」
王子は娘の荒れた手を握りしめた。
「ならば、この地を都にしよう。僕が王になったら、必ず。それまで待っていてくれるかい?」
娘は微笑んだ。
「ああ、王子様にも視えたら良いのに。この地の果てにたどりついた巡礼者の流す罪が、どんなに美しいか。罪を悔いる涙は、さなぎから孵った蝶のように燦めきながら天の川にのぼっていき、そして星になるんですよ」
それは王子が聞きたかった答えではなかった。
彼女がなぜ罪は美しいと言ったのか。少年だったあの頃の彼には理解できなかったのだ。
四季が三度めぐり、青年となった王子は王となった。
娘との約束を果たすため、さいはての地を目指す。
暗闇のなかでも迷わないように空にかけられた銀の道が、星の瞳をもつ娘のもとへと導いてくれるだろう。
だが、彼は知らなかった。
巡礼者が聖人ではなく、乞食の娘に救いを求めることを認めるわけにはいかない者たちがいた。神に仕える祈る者たちである。彼らは、娘の癒しの技は奇蹟ではなく、魔術だと断じた。
聖女と讃えられた娘は魔女と罵られ、海の底に沈められた。
約束をかわした白い花が揺れている野原。哀しい昔語りを聞いた貝殻が波に洗われる岸辺。
星の光を宿した娘の姿を探し求めて彼はさまよう。
娘の名を呼んでも、答える声はない。
ただ白い泡が砕ける波の音だけが。
鳴きかわす海鳥の嘆きだけが。
響くのみ。
太陽が没していく。海面に燃える光の筋がきらめく。波の彼方の国に架けられた橋のように。
ああ、このひかり輝く橋を渡っていけば、彼女に会える。
踏み出した足を押しよせる波が迎えた。
その水はなんと冷たいことか。
海の底にいる彼女はどんなに冷たいことか。
温めたくとも、届かない波の彼方に去ってしまった愛しい娘。
寄る辺のない孤独な彼女をどうして置いて行ってしまったのか。無理にでも都に連れて行けば良かったのだ。
塩辛い味が口のなかにひろがった。
唇からしたたりおちた血の涙が、溶けていく。
太陽が血を流す海に。
ゆらゆら、ゆらゆら、あかく。
この世は黄昏に翳りゆく。
海よりたちのぼる霧に隠れゆく。
ゆうらり、波の下から、のびてくる、おぼろな斜日に照らされし腕が。
螺旋をえがく大きな貝殻をかかげ、泡立つ波のごとく白く。
海星と藻がからむ波打つ髪が裸身をおおいし乙女の、眼窩の深淵に瞬く星が歌をうたった。
つみびとの涙は
落日のあかき血をながし
波の下の渦巻く貝にながれつく
さなぎが孵化して蝶となるまで
夢を見よ
明けの星がのぼるとき
罪は虹色にかがやき
闇を照らすともしびの一つとならん
うたう乙女が渦巻く貝を天にかざした。
月のひかりをあびて虹色に燦めく蝶が、舞いあがっていく。
暗闇のなかでも迷わないように凛々ときらめき流れる星の河にむかって。
――罪を悔いる涙は、さなぎから孵った蝶のように燦めきながら天の川にのぼっていき、そして星になるんですよ。
別れのときにかわした言葉の通りに。
彼女の瞳は未来を視ていたのだ。自らの死も、救うことができない彼のことも。流される悔恨の涙も。
そして、すでに赦されていたことを彼は知った。
乙女は微笑し、歌をうたった――
寄せては返す波が肌をなでていく。
波打ち際の浜辺に横たわっていた彼は身を起こした。砂がぱらぱらと落ちていく。
いつのまに眠ってしまったのか。
夜明けの炎が海と空のあわいで燃えていた。
あれは夢だったのか。
だが彼には乙女の歌声が波の彼方から響いているように想われた。
日が沈むとき
夢はおわる
海があなたを呼ぶでしょう
日がのぼるとき
あらたな夢のはじまり
わたしたちは出会うでしょう
海が呼んでいる。
夢の終わりを告げている。
老いた体をひたひたと浸していた冷たい波は海に還っていく。
引き潮にさらわれて彼は旅立った。
海の底で、両手をひろげて軽やかに笑う乙女のもとへ――
窓からさしこむ夕陽に染まった老王の顔はおだやかに微笑んでいた。
G-04 さいはての星
Aブロック Bブロック Cブロック Dブロック Eブロック Fブロック Gブロック Hブロック
index 掲示板