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G-08  勝負

 雨戸の内側で人の動く気配がした。
 気づかれたか――と思うと同時に、当然だという気持ちも強くする。相手は国元に戻れば名を知れた一刀流の使い手だ。あくまで自己流の枠を出ない自分の剣術とは、格が違うというものだろう。
 板戸を挟んでの姿の見えない探りあいは、次第に緩やかなものへと変わっていく。

 まだ、早い……

 そんな思いが互いにあったに違いない。夜明けの気配すらない真暗闇の中では足元すらおぼつかず、相手の顔を確認するのも難しい。濃き闇が薄き闇になるまでに、今しばし時間が必要であった。
 息遣いと木々のざわめき、虫の声だけが支配する世界。ほどよい緊張に身をゆだねつつ、新之助は微かに震える腕を叱咤する。
 怖くはないと言えば嘘になる。徳川様の御世となり世情は安定した。武士といえども命のやり取りをする世界から、弁や根回しといったものが大切な世界に変わっている。木刀を握っての練習こそ欠かしはしないが、本物の人を斬る機会などめったにあるものではない。
 それでも今回は斬らねばならぬ、と新之助は決意している。その決意は並々のものではない。これを覆すことなどできぬと、自分自身がよく知っていた。

 相手の豊橋は父母の仇。幕府で定められた法により、新之助は豊橋を討たねば家督を継げぬ。このままでいけば小池の家も断絶となるだろう。
 国元を出たばかりの血気盛んな十六の新之助であれば、それはゆるぎない事実として、己に課せられた枷として受け止めていたはずだ。しかし、十年の年月を経た今の新之助にとって、家督を継ぐことは渇望するものではなくなっている。
 大きな家ではない。養うべき家人が新之助の戻りを待っているわけでもない。親族にとっては多少体面の悪いものはあるだろうが、脱藩した人間を追って仇を討ち取るのは容易いことではないのは誰もがよく知っている。
 いや、むしろこのまま朽ち果てるほうが喜ぶかもしれぬ――と思うのは、いささか屈折しているだろうか。
 こういう時ばかりは年を経たと思う。十六の子どもには見えなかったものが、今の新之助には透けて見える。豊橋の脱藩が滞りなく行われた理由。十分な準備をする暇もなく、押し出された自分。次第に途切れがちになっていった親族たちの援助。そして江戸の豊橋の行き届いた住居。それら全てを鑑みると、藩の中枢に豊橋を保護するものがいるのであろうと新之助には思えるのだ。
 そのことに対し恨みがましい気持ちがないとは、正直なところ言い切れない。世の中の全てがきれいに善と悪に分かれるなどという青臭い考えはとうにない。理性では納得しながらも、感情がそれを許さぬだけだとも分かっている。
 責め苦のような日々に心は引き裂かれ、己の存在自体を疑問に思ったとき、新之助は刀を捨てた。己が己自身であることを捨ててまで、仇討ちをすることなどないと思ったのだ。
 世の中は割り切れることばかりではない。そして同時に、案外よくできている。豊橋が保護されるのは、それだけの理由があるからに違いない。大きな局面で見たとき、小さな善が大きな悪に、小さな悪が大きな善につながることもある。それゆえの不幸な事故であったと、思い切ることにしたのだ。

 簡素ながらも居を構え、目の前の畑で作物を育て、近所の子どもたちを集めて読書きを教える。男の一人所帯では何かと行き届かぬと、近所の百姓娘に駄賃をやって飯を作らせたりする余裕もできた。贅沢をしなければ、生活には困ることはない。
 だからといって、本当に落ち着いてしまおうなどと考えたわけではない。十六の荒削りな熱情は角が取れてきたとはいえ、確かに核らしきものが新之助の中に存在している。なればこそ、大儀のために父母の仇は諦めることができても、酒や女の肌に溺れることは許されないような気持ちがある。
 だが、偶然というものは転がっているものらしい。駄賃をやっていた百姓娘おしまの家族が流行病で次々に亡くなったのだ。
 他に頼る親族もいないと、一人でもここに住むしかないと、引かぬ調子で言われれば新之助としても心が動く。女の一人暮らしなど、それこそ何があってもおかしくはない。狭くてもよいならば……と住込みで働くように勧めたのだ。
 好き心では決してない。よく働き飯もうまいと感謝はしていても、おしまをそのような目で見たことはなかった。
 実際、その頃のおしまといえば百姓娘らしい健康さにあふれてはいても、二十を超えた年増で潤いなど微塵もない、どこか乾いた女のように新之助は見ていたのだ。
 しかし、おしまは紛れもなく女であった。
 最初から新之助を慕っていたのか、それは分からぬ。一つ屋根の下で暮らすことで、男女の情が沸いたのかも知れぬ。とはいえ、己の年を考えたのか、おしまは一筋たりともそのような気持ちは漏らさなかった。しかし、心はいくら抑えようとも身体は正直に変化する。
 ふと気づけば甘い水っぽい匂いがおしまを取りまいていた。今までと同じ所作をしていても、どこか華やかな空気がする。新之助のような無骨な男でさえ変化には気づいたのだ、女に慣れた男であれば「ははん、こいつ俺に惚れているな」くらいは思っただろう。
 思いを秘めた女と年頃の男、それが一緒に暮らしていれば間違いはいずれ起こる。
 夏の蒸し暑い日であった。
 おしまが髪を洗っているのを新之助は見とめたのだ。半脱ぎにした単から、女の白い乳房が出ていた。水を含んだ黒髪が重たげに肌へとまとわりついている。
 背中に悪寒とも快感ともいえぬしびれが走り、新之助は唾を飲み込んだ。じっとりと全身が汗を吹いている。背中どころか腋の下、手のひらまで水を被ったようだった。時間とすれば、そう長い間のことではない。蝉が五つ六つ鳴くか鳴かぬかといったところだ。ふと、おしまが微笑した。気づいているのを知らせるような微笑に、新之助は全身を朱に染めて踵を返した。
 おしまが忍んできたのはその夜のこと。蚊帳が押し上げられひやりとした女の肌身が寄り添った。闇の中浮かぶ白い腕に掻き抱かれて、新之助はおしまを抱いた。
 翌朝、まるで何事もなかったかのようにおしまは新之助に給仕したが、潤んだような眼差しだけが昨夜の名残を残していた。そして新之助もいつにない白粉の香りに、酔ったような心地であった。
 一夜で終われば遊びだが、そうはならなかった。一見、何も変わらぬまま日々は過ぎていくように見えたが、その裏では互いの思いが交錯するようにせめぎあっている。おしまは何も求めなかった。新之助もおしまを求めなかった。しかし、ふとお互いの気が昂ぶって身体を求めることがある。
 知ってしまった女の柔肌に溺れたわけではない。ただ、新之助はおしまと祝言をあげた。雪に椿が映える時期のことである。
 子宝にも恵まれ、新之助は今や一児の父だ。ようやく片言を喋るようになった幼子は、見ているだけで可愛らしい。おしまも変わらず尽くしてくれる。百姓の娘だけあって畑仕事は苦にならないのか、最近少しだけ畑を広げた。新之助も新たに内職を始めた。金はあって困るものではない。おしまや幼子のためにも、少しずつ貯めておきたかったのだ。
 これが幸せというものだろう、と新之助は心から思う。他人から見ればとるに足らない小さな喜びを分かち合い細々と生きようとも、新之助の生活に過不足はない。おしまと娘のおこうの存在は、十六の新之助が抱き、二十六の新之助が消そうとして消せぬと燻らせた感情すら、静かに溶かしてしまったのだ。このまま年を経て死ぬのも悪くはないと、心の底から思っていた。

 しかし、そのような幸せな時にこそ影は忍びよるのかもしれない。

 この春、新之助は一人の子どもを保護したのだ。混んだ境内ではぐれたのだと泣いていた。肩のあたりで切り揃えられた黒髪とふっくりとした頬が、何とも言えず愛らしい。自分の娘に重なって放っておくことはできなかった。
 幸いなことにすぐに母らしき女が見つけ、丁寧に頭を下げられた。大したことはしていないと、自分も娘を持つ身であれば放っておけなかっただけなのだと言っても、気が済まぬと女は言う。近くにある井筒屋という料亭の女将だと、礼の代わりに寄っていって欲しいとせがむように頼まれた。
 最初は固辞した新之助だが、熱心に幾度も頭を下げられては固辞するほうが悪い心持になってくる。では少しだけ、と井筒屋へと足を向けることとなった。
 思った以上の高級料亭に新之助の足は竦んだが、女将は愛想がよく、また女将から話を聞いた主人も通された離れまでやってきて頭を下げる始末。遅くにできた一粒種で、大切にされているらしい。
 遠慮なく運ばれる酒と肴の味もよく、少々度が過ぎた新之助は酔いをさまそうと庭へと降りた。
 井筒屋は母屋の他に、いくつかの離れを持っている。
 酔い覚ましに歩いているうちに、新之助は自分の離れからずいぶんと遠ざかってしまったようだ。前方に見える明るい光に引き返そうとして、新之助は固まった。
 豊橋がいたのである。
 井筒屋の離れで豊橋は傲岸であった。側にいるのは国元で幾度か見かけたことのある顔がいくつか。国元では傲然とした表情だった男たちが、豊橋の前では蛙のように這いつくばっている。豊橋はそれを当然のように受けていた。その視線は蜥蜴のような陰湿さと抜け目なさが光り、そして奇妙に優しかった。人間がいずれ縊り殺す鶏を見つめるような、優しさだった。
 誰が見ても明白な力関係。男たちが差し出した箱に金が入っているのは想像がついた。
 主君のように豊橋は振る舞い、男たちは家臣のように仕えるばかり。一気に酔いが覚めた頭で自分の離れへと戻り女将にそれとなく水を向ければ、大きな声では言えませんがどこかの殿様のご落胤だとか毎月豪勢なものでございます、と教えてくれる。
 疑問が芽生えた――
 自分が信じていたものが本当に真実だったのか、それとも欺瞞であったのか。この時、新之助は十六の愚直なほどに真っ直ぐで、熱病のようにせきたてられる病へと戻ってしまったに違いない。娘のために貯めていた金を遣い、豊橋の周囲を舐めるように洗い出した。自らも寺子屋を閉め、連日のように豊橋の家へと通いつめる。
 そこで得た真実は、新之助の心を激しく揺らした。
 豊橋は確かにご落胤であった。身分の低い母から生まれた男児。身分の高い弟や、認められぬ鬱屈があることは想像に難くない。剣の道へと深く踏み入ったのは、そういった鬱屈が形を変えたものかもしれぬ。ここで、昇華してしまえば豊橋にとっても周囲の人間にとっても、幸せなことだっただろう。
 豊橋は昇華できなかった。むしろ、なまじ腕があるだけに豊橋の剣は邪剣となった。内へ内へと陰鬱さを秘める剣は、道場の皆からも遠巻きにされたという。
 そして、事件は起きた。
 新之助の父は身分こそ高くないものの豊橋の処遇には、新之助の知らぬところで心を痛めていたらしい。今や預かり知らぬところではあるが、往時の事情をよく知る人物の一人であったのだ。
 剣の道を勧めたのも父だという。なればこそ、豊橋の内に秘めた暗い何かを感じ取ったに違いない。しっかりなされと、上に立つお方がそのように鬱屈していては下はついてきませぬと、思い余って叱ったそうだ。好きで叱ったわけではない、叱ることで正そうとする親の愛に近いものだ。
 それに豊橋は刀でもって応えた。子どもの癇癪のようなものだが、この子どもは危険な刃物を持っていた。
 父は殺された。同時刻に屋敷にいた母も、豊橋に斬られた。
 本来ならば豊橋は罪人となるはずだったが、そこは事情というものがある。藩主の嫡男は当時まだ幼く、そして身体も弱かった。万が一のことがあればお家断絶の憂き目にあう。新之助のような小さな家ではない。それこそ藩に仕える全ての武士が浪人となるかの境目なのだ。
 中枢にあるものは豊橋を生かすと決断した。江戸へと追いやり、屋敷を与え金を与え、血筋のために飼い殺したのだ。
 新之助はことが成ったときの最後の仕掛け。嫡男が無事に成長し血筋が絶える心配がなくなったときに、正当な理由でもって豊橋を殺すことができる人物を残しておく必要がある。ただ、必要な時期に殺されては困る。いつ殺すかという加減だけが難しかった。
 こうして、茶番は相成ったのだ。
 少し調べただけで耳に入ってくるのは、豊橋は用なしだと判断されたのだろう。殺せと、今こそ仇を討てと言っているに違いない。
 でも、この苦い気持ちは何なのだろうと新之助は思う。
 自分の人生とは、このように他人に操られるものだったのかと。道具とみなされ、主を殺すためだけにこの十年を過ごしたのかと思うと、国元に対しても怒りの念が込み上げてくる。
 このまま意図を裏切り、豊橋を生かし続けようか――そう新之助は思いもした。自分が道具のように扱われたのは不満であったし、同時に豊橋の鬱屈も分かるような気がしたからだ。
 しかし、そんな躊躇いを吹き飛ばす事実が目に入る。
 夜道を歩いていた町人を、豊橋は新之助の目の前で迷いなく斬りすてたのだ。一瞬の出来事に斬られたほうも、つけていたほうも、現のこととは思われなかった。町人が持っていた提灯が地面へと落ちて燃えている。その灯りの中で、さらなる闇をまとった豊橋が立っていた。怒りよりも絶望が、そして見ている方が哀れを覚える姿であった。
 誰からも必要とされていないと豊橋自身が誰よりも知っているに違いない。斬ろうと新之助は決意した。藩のためではなく豊橋のために斬ってやるのだ。
 新之助の決意を聞いてもおしまは何も言わなかった。新之助が家督を継ぐこととなれば、おしまでは家格がふさわしくないということになるだろう。己の身も娘の身もどうなることかと不安だったであろうに、何も言わずに無言で新之助の身なりを整えるのを手伝った。
 新之助も何も言わなかった。一人の人間の意地である。同じように道具にされた哀れな同胞に引導を渡してやるのも、人々を守るべき武士が身を守るすべをもたぬ人を殺すのを止めるのも。捨てても捨てきれぬ何かが、こうして意地を張らすのだ。
 戻ってきたらとも、すまぬとも言えぬ己を責めながら、新之助はここにいる。
 そう、まずは斬ることだけを考えねば――
 腕の震えは止まり、ゆっくりとした呼吸が新鮮な空気を身体の中へと取り入れていた。

 夜空に有明の星が瞬く。薄紙をはがすように夜が明けていく。

 待ち構えていたように板戸が開き、豊橋も刀を構えていた。同じ同胞、同じ道具、異なりながらもよく似た二人は対極で刀を構えた。
「勝負!」
 澄み切った空気の中、新之助の声が響く。光に薄れる有明の星が、ひときわ大きく輝いた。


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