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G-09  金曜日の屋上

 それは、お客のトランクを最上階の17階まで運んだ帰りだった。ベルボーイの鵜野沢友一は、重厚なエグゼクティヴフロアの青い絨毯を踏みしめながら、先を急いでいた。
 落ち着いたランプの光に照らされながらも、彼の心中は穏やかではない。
 2007年が始まったばかりの1月5日、金曜日。時刻は16時半。この三連休を楽しむお客がホテルに押し寄せる直前である。あと少しで、この「グランド・ローザ横浜」は戦争のような慌しさに包まれるのだ。
 今年初めての長丁場を手際よくこなさなければ、と気持ちを引き締め、エレベーターホールに入る角を曲がった時だった。
 突如、目の前に男が現れて、いきなり胸を掴んできたのだ。
「きみ──」
息を呑む友一の目をまっすぐ覗きこむようにして、男は言った。

「追われてるんだ。僕を助けてくれ」

「お客様? 落ち着いてください」
男の剣幕に驚いた友一だったが、ようやく息を整え、男の姿をきちんと見る。
 相手はグレーのスーツを着た60代ぐらいの痩せた紳士だった。縁なしの眼鏡をかけ、胸ポケットからは絹のハンカチを覗かせている。このエグゼクティヴフロアに相応しい容貌ではあるのだが、どことなく──そう、目の輝きの強さが上品さを損ねている。
「頼む、助けてくれ」
「どうか、落ち着いてください。お客様」
何を動揺しているのか。友一は相手を安心させようと微笑んだ。このホテルに就職して今年で3年。やっと身につけた、とっておきのスマイルだ。
「お客様、まずはお部屋に戻りましょう」
「部屋はまずい。連中に捕まってしまう」
しかし気が動転した様子の男は、友一の制服の襟を掴んだまま、離さなかった。
「なあ君、屋上に出たいんだ。どうやったら屋上に出られる?」
「屋上は危険ですから、お客様には──」
「……ぁたず! 社長はどこに行ったのよ」
友一がそう言いかけたとき、廊下の遠くの方で女の声がした。ヒステリックに、誰かを責めているような声だ。
 男が友一の目を見る。彼もその目を見返した。
 バタン、と扉が閉まる。ザッザッと誰かが近づいてくる足音。
「お客様。そちらへ」
なぜだか分からないが、友一は男の背中を優しく押しながら歩き出した。
「すぐそこに、化粧室がございますから」
「屋上は?」
「まずはそちらにお隠れください」
言いながら、男の背中を化粧室の方へと押しやり、友一は振り返る。足音はすぐそこまで迫っていた。


 「困るのよ、今、居なくなられたら!」
太った女は、長い独白をそう締めくくった。ベルボーイの友一を捕まえ、これこれこういう男を見なかったかと尋ねた後は、聞きもしないことをペラペラとひたすら喋った。
 彼の名前が西尾誠次郎で、映画の配給会社か何かの社長だというとこと。彼女は秘書で、この後すぐ非常に重要な会議があるので、15階のレストランに行かなくてはならないこと。
「社長は肺ガンなのよ、もう身体はボロボロなの! どうせ煙草を吸いに喫煙所にでも行ったんでしょうけど」
秘書女が最後に言った言葉を聞いて、友一は仰天した。
「フン」
 女は、ぷいと友一から目を背けると、肩を怒らせて足早に歩いて行った。その背中を見送りながら友一は、男──西尾が不憫になった。
 少なくとも、肺ガンという事実は、ちょっとコンビニに酒を買いに行くような口調で語られるべきことではない。
 とはいえ、一介のベルボーイが口を挟むべき問題でもない。ふぅ、とため息をついたあと、友一はトイレの中に入り男、西尾を呼んだ。
「お客様、秘書の方が──」
言いかけて、友一は絶句した。トイレには人の気配が全く無く、窓が開け放たれている。ぽっかり空いた黒い空間に、夜空が見えていた。
「しまった!」

 「飛び降りたとでも思った?」
 友一に手を貸しながら西尾は笑みを浮かべて言った。ベルボーイは相手を睨みつつも、息を切らし言葉も出ない。彼はまだ二十代半ばで体力には自信があったが、この高さだ。足は震え、息が切れる。
 このホテルでずっと働いているものの、非常用ハシゴを登って屋上に出たことは初めてだ。すぐそばの山下公園を歩く人たちは、米粒のようだし、港に停留している帆船の氷川丸などはまるでオモチャだ。高さに目がくらみ、心臓が縮み上がる。
「お客様、困ります。本当に」
「かくまってくれて、有難う」
西尾は彼の非難を無視して、にっこりと微笑む。階下で見たような切迫した表情は微塵もない。「あれは、煩い女でね」
「重要な会議があるんですよね?」
「いいんだよ、少しぐらい待たせたって」
会社社長は両手をいっぱいに空に伸ばし、気持ち良さそうに背筋を伸ばした。遠くに見えるライトアップされたランドマークタワーと観覧車の夜景に目を細め、彼はリラックスした様子で懐から何かを取り出す。それは、煙草の箱だった。
「いけません、お客様」
慌てて、友一は声を上げた。
「先ほど秘書の方が、お身体に障ると……」
「んなこと、あの女が言うわけないだろ。君はそんな気を使わなくていい」
西尾は堂々とした仕草で、赤いラークの箱から煙草を一本引っ張り出す。友一は発言の意図を見抜かれ、赤面した。
 煙草に火をつけた西尾は、一息吸い込んでからゆっくりと満足そうに煙を吐く。
「君、名前は?」
「鵜野沢です。鳥の鵜の鵜野沢です」
「鵜野沢くん、こんな話は知ってる? ──アメリカ軍のヘリで、ビルの屋上に降り立った主人公とヒロイン。彼らは抱き合って、熱烈なキスをする。“クラリス、ペガサス座を探してくれ。俺たちはそれに乗って空に帰ろう”。彼女は微笑んで彼に寄り添い、彼はジーパンの尻ポケットからつぶれた煙草をひっぱり出し、うまそうに一服する」
「あ!」
友一は、西尾のセリフに思い至って声を上げる。「“狼たちの沈黙”だ!」
「そう、ご名答」
西尾は片目をつむってみせた。
「DVDで見る派かい? それとも映画館で?」
「映画館で見ました」
「91年。春のロードショーだ」
目を細める西尾。「僕がハリウッドから引っ張ってきたやつだ。あれはヒットしたよな」
 友一は先ほどの秘書の発言を思い出した。
「映画の配給会社を経営されているって聞きましたよ?」
「うん。まあ今期限りだけどね」
ケホッと渇いた咳をしながら西尾は答えた。「売るんだ。僕の会社」
 ──え? と漏れた友一の声をよそに、西尾は紫煙をゆっくりと吐く。
「今日はそれで、アメリカの同業者と弁護士と吸収合併の方向性を話し合うんだ。僕の身体が春まで保たないから、今のうちにね」
 話を聞いて、絶句する友一。
「ああ、ごめんごめん。そんなこといきなり言われても困るよな」
西尾は笑顔になり、手を伸ばして友一の肩にポンポンと触れた。ちょっと座ろうか、そう言いながら二人で屋上のへりに並んで腰を下ろす。
「君、タバコは吸う?」
ふと、西尾はタバコの箱を見せながら友一に訊ねた。
「昔はちょっと吸ってたんですけど、今はやめました」
「そうか。酒はやる方?」
「あまり強くないんで、ほとんど飲まないです」
「ふーん」
西尾は指で眼鏡をずらして、上目遣いに友一の顔を覗き込むようにして見た。
「君は人生のうちの三分の一を損してるな」
「そうですか?」
「何にも役に立たない道楽が、人生には必要なんだよ」
と片目をつむってみせて、「例えば煙草。例えば酒。例えば麻薬」
「あ、そのセリフ、ロバート・デ・ニーロの……」
言いかけた友一を手で制して、西尾は先を続けた。
「──屋上で向き合う、刑事と麻薬王。刑事の銃を撃ち落とし、麻薬王が笑う。“命綱無しのバンジージャンプは得意かね?”」
「“レザー・フェイス”!」
にっこりと彼は微笑んだ。
「君はアクション映画をよく見るんだね」
「ええ」
友一も微笑みを浮かべてみせる。思わぬ話題に、目を輝かせながら、会社社長に向かって続けた。
「“レザー・フェイス”は、今、付き合ってる彼女と初めて見に行った映画なんですよ」
「そうなの? あんな映画一緒に見て大丈夫だったの? だって、ギャング映画だろ、あれ。残酷なシーンとかも多いぜ?」
寒そうに両手を組んで背を丸める西尾。その間も、煙草は口に咥えている。
「いやそれがね」
思わず身を乗り出し言う友一。
「彼女、お嬢様ぶってたんだけど、実はアクション映画大好きな子だったんですよ。何しろ好きな映画俳優が、ジャン・クロード・ヴァンダムですからね」
「ヴァンダムか、そりゃいい」
ハハ、と声に出して西尾は笑った。
「それじゃ“レザー・フェイス2”は見た? あれも僕が引っ張ってきたんだけど」
「見ましたよ、当然です」
何か誇らしげに友一は言う。
「生き残った麻薬王のトニーが更正して、家庭教師になっちゃうやつですよね。あれは意表を突かれて面白かったなあ」
「本当に? あれは 興行的には大失敗したんだぜ? ほとんどの映画館で二週間の打ち切りだったし」
「そうですか? でも僕も彼女もすごく面白かったですよ。ラストシーンで、主人公の少年がトニーの死を看取るシーンなんかすごく良かったなあ」
友一は映画の内容を思い出すように、夜空を見上げる。
「……銃で撃たれて息も絶え絶えなトニーが、少年に“俺は星になるだけだから、悲しむな”って言うんですよね? そしたら少年は“それなら、いつでも勉強教えてもらえるね”って。本当はトニーが死んじゃって二度と会えないってこと理解してるんだけど、トニーを安心させようと思って、そう答えるんですよね。あれにはグッときたなあ」
ボォーと、遠くで船の汽笛が聞こえた。ふと、照れたように俯く友一。
「実はね、この春彼女と結婚するんです。結婚式はこのホテルなんですけど……」
ベルボーイは顔を上げる。その横顔をネオンのピンク色が照らした。仕事を忘れ、青年は嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「すいません、こんな話しちゃって。っていうのはね、その……なんていうか映画が仲を取り持ってくれたっていうか、映画のおかげで僕たち結婚することになったような気もしちゃってるんですよ。だからキューピッドは麻薬王のトニーみたいな冗談を──」

 と、友一は西尾の言葉が返ってこないことに気付いた。

 隣りを見ると、会社社長は俯いて腕を組んだ格好のままピクリとも動かない。口には煙草。ゆらめく紫煙が夜空へうっすらと立ち昇っている。
「西尾さん?」
ゆら、と彼の身体が支えを失い、倒れ掛かってきた。友一は慌ててその両肩を掴んだ。
「西尾さん!」
叫ぶように男の名前を呼び、肩を揺り動かす。彼の組んでいた腕が力を失ったように下がった。口から、はらりと煙草が落ちる。コンクリートに当たったそれはオレンジ色の光を宿したまま、コロコロと床を転がっていった。
「冗談はやめてください、しっかりしてください。西尾さん!」
揺り動かされていた西尾の顔が、空を向く。瞳は閉じられたままだ。その土気色の顔を照らすのは点滅する色とりどりの光。付近のビルに付けられた広告のネオンが、彼の眼鏡の上で明滅している。
「西尾さん!」

「嘘だよ」

 パッと西尾の目が開いた。
「西尾さん!」
「映画だったら、たぶん僕はここで二度と目覚めないんだろうが、残念。これは現実だ」
「何てことするんですか!」
非難するような声をあげるベルボーイ。
「騙された?」
「もろちんですよ!」
友一は、真剣な面持ちのまま。西尾はそれを見てプッと吹き出し笑いだした。大きな声を上げて、本当に可笑しそうに会社社長は笑った。
「ずるいですよ、西尾さん。ご病気をネタにするなんて」
口を尖らせ、怒ったように言う友一。
「何言ってるんだ、ずるいのは君の方だよ」
笑い転げるように自分の腹を押さえながら西尾は言った。
「君のせいだぞ。僕はここから飛び降りて死ぬつもりだったのに、その気が失せちまったじゃないか。どうしてくれるんだ?」

「──え?」

西尾は笑いながら、友一を見る。
「ありがとう、鵜野沢くん」
「そんな」
「僕もトニーみたいに星になるだけから、君も悲しまないでくれ」
「嫌ですよ!」
友一は立ち上がり、叫ぶように言った。
「僕は、あの少年みたいになれません。死ぬとか言わないでください!」

 シン、と間があった。
 友一が顔を上げると、西尾と目が会った。一瞬だけ真顔を見せたかと思うと、フッ。会社社長は口の端を歪めて微笑んだ。無言だった。
 ゆっくりと立ち上がると、煙草の箱を出し、一本引き抜く。
 シュボッとライターで火を付けると、これ以上の満足はないと言わんばかりに最初の煙を吐き出した。

「西尾さん、お願いがあります」
西尾が一服するのを待って、友一は言った。低い声でゆっくりと。
「僕たちの結婚式に来てください」
対する西尾は無言のままだ。しかし構わずベルボーイは続けた。淡々と。
「場所はこのホテルです。必ず来てください」
煙草を持つ手が止まる。会社社長はようやく相手を見た。
「日にちは4月19日、あと四ヵ月後ですから。木曜日で大安の日です。会場は9階のチャペルです。別館の方のエレベーターを使って上がってきて下さい。披露宴の会場は2Fのバンケットルームです。結婚式の時間は12時から、披露宴の方は……」
「──分かった分かった。君には負けたよ」
お手上げだと言わんばかりに両手を挙げて、西尾は苦笑した。
「なんて強引なんだ」
眼鏡を直し、「そんな言い方で結婚式に招待されたのは、僕だって生まれて初めてだぞ」
悪戯っぽい瞳を向けられ、友一はみるみるうちに赤面した。緊張が解けて、急に自分の発言が恥ずかしくなってきたのだ。
「すみません。僕はその──」
「気にするな。面白かったぜ、君のセリフ」
友一の肩に触れ、西尾は笑顔のまま。
「本当にありがとう。君に会えて良かった」
「え?」
西尾は聞こえないぐらい小さい声で礼を言うと、コンクリートの縁で煙草の火を消して、捨てた。そして照れ隠しのようにそっぽを向くと、大仰な仕草で腕時計で確認した。
「もうこんな時間か」
スーツの襟を正し、空を見上げる西尾。
「さて、そろそろウンザリな会議に顔を出してやることにするよ。階段はそこだよな?」
そう言って、会社社長は先に階段に向かった。友一は、その背中を見る。
「あの、西尾さん。本当にお身体大切になさってくださいね」
「分かってるよ。煙草はやめないがね」
軽く手を挙げる西尾。後を追おうとしたものの、友一はふと足を止めた。床に落ちている二つの煙草の吸殻を拾おうとしたのだ。
「鵜野沢くん、それはそのままにしておけよ」
彼が身を屈めたとき、西尾が振り向き様に言った。
「君の結婚式のときに、僕が片付けておくから。──何しろ、もう屋上への登り方は覚えたからな」
 顔を上げる友一。
 一月の寒空の下。会社社長とベルボーイは声を上げて笑った。二人の吐く息の白さが、ネオンに照らされ夜空に昇っていった。


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