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H-01  星摘み

 流れ星に手をあわせる。
 幼いときから、願いごとってのはそうやってするもんだと思ってた。
 けれど大概、手をあわせようと腕を持ち上げているうちに星は痕も残さず流れ去ってしまう。三回願いごとを唱えている暇などありはしない。
「千郷ー、頭できたー?」
「できたよー。千尋、胴体は?」
「ばっちり」
 目の前でせっせと雪玉を転がしていた双子はようやく立ち止まり、胸ほどまである雪の塊を傍らに期待をこめておれを見上げた。
「わかった、わかった。こいつをのせりゃぁいいんだろ?」
 昼間の白銀の世界は駆け足で進んでいく夕闇にあっという間に塗りつぶされ、寝床へ帰っていく烏の鳴き声だけが遠くからかすかに聞こえてくる。
 姪と甥にあたる双子の姉弟は南国で生まれてこの方、夏にしかこの雪国に来たことがなかった。かれこれ一時間、はしゃぐにまかせて憧れの雪だるま作りに没頭していたのも無理はない。
 寒い中邪険にされっぱなしだったおれは、ここぞとばかりに期待に応えて双子のご機嫌をうかがった。
 双子は腕を組んで雪だるまを見つめ、同じタイミングでうなずく。
『次は星だね』
 動作同様、幼い二人の声は一人の口から出たようにぴたりと重なった。
「……星……? 顔じゃなくて?」
 意表を突かれ、おれは思わず首をかしげる。
「そう、星。広兄、どこに行けば星摘める?」
 おれの困惑をよそに、千郷が嬉々としておれのコートの袖を引っ張った。
「僕たち、ママから聞いたんだよ。ボタンがわりにここに星をつけてやれば、動く雪だるまになるって」
 千尋がのっぺらぼうの雪だるまの胸の辺りを軽く小突いた。
「動く雪だるま……って……」
 暗がりが雪に染みゆく中、苦笑を浮かべたおれと期待に胸膨らませた双子はしばし見つめあった。
 その話に心当たりがないわけではない。だけど――
「ママはね、動く雪だるまはわたしたちには必要ないからって、星を摘める場所、教えてくれなかったの」
 さては杏の奴、相当かいつまんで話したな。
 これはおれたちが出会った、たった一度の奇跡の話。
 その頃、おれは父と母、それに双子の姉の杏と一緒に、ここよりもっと雪深いところに住んでいた。
 大好きだった母が突然いなくなってしまったのは、おれたちが八つのときのこと。寒さにちょっと体調を崩して病院に入院しに行っただけなのに、帰ってきたときには眠ったまま木の箱に入れられていた。
 おれたちは何がなんだかわからなくて、だけど、お母さんがいなくなってしまったことだけはわかっていて、毎夕、晴れてる夜は父が仕事から帰ってくるまで外に出て、日ごと増えゆく流れ星に熱心に手をあわせていた。
『お母さんに会えますように』
 願うことは、ただその一つ。
 でも幼いからか、なかなかろれつが回らなくて、二人で「お母さんに」と「会えますように」とを分担して唱えてみたりもしていた。
 それが功を奏したのかどうか。
 雪だるまを作って夕方を待ち、その日も一番星が輝きだすなりおれたちは「お母さんに会えますように」と、いつものように二人して天の真ん中を一心に見つめて唱えていた。
 すでに星が流れているかどうかは関係ない。願い事を口にするのは、星が流れているのに気づいてからでは遅いのだ。手をあわせて休みなく口を動かし、うまいタイミングで星が流れてくれるのを待ちつづける。それが最近学んだ賢い願い方だった。
 つと、宵闇の中。それまでなかった場所に星がひとつ、輝きはじめた。
「杏ちゃん、あれ!」
 なかなか消えないことに気づいたおれは、思わず願いごとを唱えることも忘れて歓喜に空を指さしていた。
 杏はこういうときでも動じない。おれにうなずいて見せながら、間断なく「お母さんに会えますように」と唱えている。
 すぐにおれもそれに習った。杏の呼吸を読んで、声を合わせる。
『お母さんに会えますように。お母さんに会えますように。お母さんに会えますように』
 三度唱和したところで、おれたちの願いを聞き届けてくれたかのように星は何度か瞬き、淡く緑がかった尾を引いてゆっくりと天頂から滑りだした。向かう先は誰もいない真っ暗な雪原のさらに向こう。
「杏ちゃん」
「広くん」
 どちらからともなく、おれたちは手をつなぎあって星の流れていく方へと走りはじめた。一人では暗い野原も二人手をつないでいれば怖くない。何より、大切な願いをのせた流れ星の行方を、おれたちは確かめなきゃならないような気がしたのだ。
 雪は深い。長いこと外にいたせいで、ブーツの中の足の指先は妙に熱く膨れている。何度となく雪に埋もれかけながら、それでもおれたちはいつしか流れ星の落ちてくる明るい大地の中に踏みこんでいた。
「杏ちゃん、雪が光ってるよ」
「ううん、違うわ。これはみんな星よ。流れ星が落ちて、今度は大地で輝いてるのよ」
 大人びた口調はいつものことながら、その声は興奮に震えていた。
 ここでは濃紺の空に星はない。
 輝くものは、すべておれと杏の足元にあった。
 咲き乱れる星の中、見渡せば、真ん中あたりにさっきおれたちが作った雪だるまにそっくりなやつがぽつんと一つ立っていた。おれたちが追ってきた流れ星はゆっくりとその雪だるまの中に吸いこまれていく。
 おれと杏は慎重に星をかきわけ、そいつに近づいていった。
 星を飲みこんだというのに雪だるまは自らうっすら光ることもなく、ただ地上からの星明りをうけてどこか寂しげにきらきらと輝く。
 それを見たおれたちはどちらからともなくしゃがみこみ、それぞれ雪原から星の花を摘みとっていた。この花畑の中でも一等明るく色彩豊かに輝いている星の花を。
 思わず、同じことをしていたことに気づいたおれたちは顔を見合わせた。
「やっぱりこの星は」
「雪だるまのボタンだよね」
 おれたちは嬉々として摘んだ星の花を雪だるまの胸元につけてやった。刹那、星は輝きを増し、雪だるまの全身を包みこんだ。
「杏、広」
 不意に聞こえたのは、一ヶ月前に二度と聞けなくなったはずの母の声。
『お母さん?』
 おれたちは声の出所を求めて視線をさまよわせた。
「杏、広」
 声が聞こえてきていたのは明らかに目の前の雪だるまからだった。
 おれたちはおそるおそる雪だるまに視線を戻す。
『お母さん!』
 そこにいたのは、紛れもなく雪だるまだった。ただし、母のホログラムを抱いた雪だるま。白銀の光に輝く母はいつものようににっこり微笑み、枝でできた両腕を広げた。
 否も応もなかった。おれたちは我先にと雪だるま、もとい母の胸の中に飛びこんでいた。
「元気だった?」
 母の腕の中は生前と変わらず温かく、力強くて柔らかかった。細い木の枝の感触などどこにもない。声と温もりと、それだけで懐かしさが胸に熱くこみ上げてくる。
 杏は母の問いに激しく首を振りながら、今まで泣かなかった分めいっぱい泣いていた。
「さびしい思い、させてしまって……」
 言葉詰まった母の声に、ついにおれの涙腺も決壊した。
「お母さん、お母さん、お母さん」
 母は両膝をついておれたちを丸ごと抱きしめていた。
「ごめんね。ごめんね。ごめんね」
 それ以外にはもう、言葉にできないらしかった。
 流れ星に願いごとを唱えるのと同じだ。本当に叶えたいことっていうのは、いざとなると気持ちばかりが前につんのめってしまって言葉にならない。だから、触れ合ってお互いのぬくもりを確かめ合うしかなかったんだ。
 でも、温かいと感じれば感じるほど、寄せた頬に感じた母の感触はもろく融け崩れていくようだった。
 いや、事実、雪だるまは融けかけていた。
 二つの星の周り、僕たちを受け止めるその胸元から、驚くほどの早さで形を失いつつあったのだ。
「お母さん、またいなくなっちゃうの?」
「ううん、お母さんはいつでも杏と広の側にいるわ」
「いやよ。いつでも側にいたって、話せなきゃいや。ぎゅってしてくれなきゃ、杏、いやだもん」
「杏……」
 母は困ったようにおれを見た。
 そんな目で見られたら、おれも同じことを言うわけにはいかなくなるじゃないか。かといって「ぼくはだいじょうぶだよ」などと言えるわけもない。
「杏ー、広ー!」
 ふと、聞き覚えのある声が背後から近づいてきた。
「どこだー、杏ー、広ーっ」
 焦燥感の入り混じった父の声。
 だけど、その声を聴いた母の顔はさっきまでの困惑を脱ぎ捨てて、幼いおれから見ても何かの期待にほんのり赤く上気していた。
「広、杏のことをよろしくね」
 落ち着きを取り戻した母は、現れたとき同様透明な微笑をおれに投げかけた。
 おれはうなずく。
 母も満足そうにうなずき返し、泣き続ける杏の顔を上げさせて優しく涙をぬぐった。
「杏、広のことをお願いね」
「お母さん……」
 杏はまだ茫然と母を見つめている。
 おれは軽く杏の右足を蹴った。
 はっと杏の顔に正気が戻る。その顔で、杏は力いっぱい何度もうなずいた。
「うん、まかせて」
 ようやく、母は安堵したようにほっと息を吐き出した。
 おれたちは確かにその吐息を受け取って、もう一度母に抱きついた。感触など、もうほとんどなかった。霞を抱きしめているようなものだった。
 なのに、母の腕だけはしっかりおれたちの背中を抱きしめていた。
「杏、広。お母さん、ずっとあなたたちのこと大好きだからね」
『お母さん』
 せき止めたはずの涙が再び溢れ出す。
 交互におれたちの名を呼びながら近づいてきていた父の声は、杏の名を呼んだところでふと途切れた。
 父が、すぐ後ろに立っているのがわかった。
 母はおれたちを抱きしめる腕にいっそう力をこめ、一方で静かに顔を上げたようだった。
 二人がどれだけ見つめあっていたのか。そんなこと、おれたちにはわからない。
「愛してるわ、あなた」
 ただ、その一言が母の口から発された瞬間、降り積もった星々はいっせいにまばゆい光を放って、風に掬われるようにふわりと舞い上がった。
 そんな光景に目を奪われれば奪われるほど、視界は黒く暗く閉じていき――
 気がつくと星の大地は消えうせて、目の前には雪だるまの目と鼻と口を形作っていた小石や枯れた杉の葉、それにおれたちを抱きしめていたはずの二本の枝が融けかけた雪の上に無造作に散らばっていた。
 杏はそれを見て再び泣いた。二度母を失ってしまったと、泣いていた。
 おれは泣かなかった。まだ背に、腕に、頬に、胸に、雪だるまの母のぬくもりが残っている。杏をよろしくといった言葉が耳に残っている。
 でも、それよりもなによりも、母が最後に残した言葉。
 おれたちにではなく、父に残した言葉。
 振り向くと、父は呆然と立ち尽くしていた。幻にでも出会ったかのように。
 「大好き」と「愛してる」の違いは何なのだろう。
 愛してるの方が、なんだか深い気がする。そう考えて、おれはちょっとだけ父に嫉妬した。だけどきっといつか、自分も「愛してる」と言ってくれる誰かに出会うのだろうと、ぼんやり思った。
 融けかけていた雪は吹きさらす寒風にあっという間に凍らされていく。おれはそこから小石三つと枯れた杉の葉、木の枝二本を拾いあげ、ざらめの中に埋めなおしてそっと手をあわせた。
「いつかぼくにも愛してるといえる人が現れますように。その人がぼくにも愛してるといってくれますように」
 口には出さなかったけれど、おれはそう心の中で唱えていた。
 気づくと、横で杏も手をあわせていた。
 たぶん、同じことを願っていたんだと思う。
 おれたちの新たな願いをかける星は、この雪の中にあったんだ。
 父は、そんなおれたちの肩を抱いて、消えてしまった母にやっぱり「愛してる」と言った。
 幼いおれたちは思わず顔を見合わせて微笑みあった。
「ちょっと、広兄、何ぼんやりしてるんだよ」
「早く星摘めるところ、教えてよ」
 ぼんやり立ち尽くしたまま答えない俺に、機嫌が悪くなりはじめた双子は容赦なくわめきはじめた。
「千郷、千尋、広、夕飯できたわよー! 暗いんだから早く戻ってきなさーい」
 ついでに、母とよく似た杏の声が明かりの灯った家のほうから聞こえてくる。
 「愛してる」と囁きあえる人を見つけたのは杏のほうが早かったようだ。
 空はすっかり暗く、そうそうたる冬の星座が冴えた光を放つ。
 杏の旦那の俊之さんもそろそろこっちに着く頃だろう。
「広くん! もう、いつまで遊んでんのよ。ご飯できたって言ってるでしょ」
 杏に続いて白い息を弾ませながら直接せかしにきたのは、結衣。今日、杏たちが冬休みを利用して実家に戻ってきたのは他でもない。おれたちの結婚前祝をしてくれるためだった。
『ねー、星は?』
 結衣にかまわず、痺れを切らした双子たちがそろっておれのコートの端を引っ張る。
 おれはゆっくりと二人の前にしゃがみこんだ。
「おれたちの見つけた星は雪だるまを動かすためのものじゃない。大切な人に会うためのものだったんだ。だからその人に会いたいって願いつづけていれば、もしかしたら星を摘める場所に行けるかもしれないな」
 双子たちは不思議そうに小首をかしげ、眉根を寄せて互いの顔を見合わせた。
「千郷、そんなに会いたい人、誰かいる?」
「えー、特にいない……かな。だって、おじいちゃんもママもここにいるし、パパもそろそろ来るんでしょ? 友達だって、学校始まればまた会うし」
 おれは二人の頭を毛糸の帽子越しに軽く撫でてやった。
「二人は星なんか摘みに行かなくたって、とっくに持ってんだよ。雪だるまを動かすよりももっと貴重な星をな」
 双子は再び顔を見合わせて小首をかしげ、やがて同時にうなずいた。
 見計らったように、到着したばかりの俊之さんが双子会いたさに慌しく杏と外に飛び出してくる。
「千郷ー、千尋ー」
 その声はちょっと昔の父に似ていた。
 双子はぱっと顔を輝かせ、くるりときびすを返して二人のほうへと走っていく。
「パパー」
「パパー、おかえりなさーい!」
 未完成の雪だるまとともに取り残されたおれは、何か考えこむようにつっ立っている結衣にとりあえず自分のコートを着せかけた。ついでに一言囁いてみる。
「愛してるよ、結衣」
「は? え? えぇっ……?」
 結衣は何度か口を開閉させたあと、腰から砕けて雪の上に座りこんだ。視線はおれからそらされ、のっぺらぼうのままの雪だるまに止まる。不意に、結衣は素手のまま熱心に雪を掘りはじめた。
「ゆ、結衣?」
 心配したおれの呼びかけにも応えず、指先を泥だらけにして結衣がつまみ出したのは小石三つ。それらを結衣は神妙な面持ちで雪だるまの両目と鼻の位置に埋めこむ。おれも一応探してきておいた杉の葉を口に、二本の小枝を手がわりに雪だるまにつけてやる。
 出来上がった雪だるまを見て、結衣はようやくおれに顔を向けた。
「広くん。わたしもね、きっと今、持ってるよ」
 そう言った結衣は、珍しく自分からキスをした。
 もうすっかり暗いから、たぶん誰も見てはいなかっただろう。
「愛してるよ、広くん」
 頬に触れる結衣の手はすっかり雪にかじかんで冷たい。だけど、火照ったおれの頬にはその冷たさが心地よかった。
 結衣を抱きしめて、おれはそっと空を見上げる。
 一筋。願いをかける間もなく星が深まる夜の帳に短く尾を引いて、輝き増す星空の彼方へと吸いこまれていった。


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