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H-03  黒衣の天使と夜の闇

 それは果たして、夜だったか昼であったか。宵であったか、明けであったか。
 問われて窮するほど記憶の乱れは多分にあるが、それだけは惑わない。
 現実なのか眠っていたのか、目を開けたまま夢をみたのか、それらは定かではないが。
 ひとつ正しく言えるのは、それは夜であったということだ。


 寒い、と奔るように思った。
 気がつくと、間近に少年の顔があった。
 暗闇の中、首だけが浮かんでいるようで、私はギョッとした。首筋の産毛が逆立つような怖気が、背を滑り落ちる。遅ればせながら鳥肌がたつような感覚が全身を走り、目を見開いたところで、少年の顔がこちらを向いた。
 その顔は、悪意のかけらも見えない表情で笑い、明るく「やあ」と声を出した。言葉と共に零れた白い息が流れていき、白い手が敬礼するように額に添えられる。寒そうに鼻をすすった。
 拍子抜けするくらいの構えのなさと人間らしい仕草に、体の強張りが解けた。
 そして生首などではなく、少年が黒い服を着て夜に溶け込んでいるだけだと気づく。唐突な状況と、月は細く光が弱く、満天の星明かりに目が慣れるまで時間がかかってしまった。
 風が吹き、体中の温度を攫って行く。髪がなぶられて、乱れて顔にかかる。そして再び、寒いと思った。さらに遅ればせながら、裸足の裏にコンクリートが痛いほどに冷たいことに気がつく。ゾクゾクと足元から冷気が這い上がってくる。
「君は何を……しているの」
 彼は、大人の胸ほどの高さまである鉄の柵の上にしゃがみこんでいた。目線が少し高い。
 周りの風景から予想をするに、ここはどこかの建物の屋上だ。夜でも光の消えない街中の、夜景の中に建つ高い建物。何気なく柵の方へ歩み寄ると、見慣れた光景が眼下に広がる。いや、見慣れたものよりは少し高いけど、大きな違いはない。私が住む十八階建てマンションの屋上だ。私の家はこの十二階にある。
「お姉さんこそ」
「……分からない」
 こちらが聞きたかった。
 風呂に入って温まり、ベッドの中で少し本を読んで、そのまま眠りについたはずだった。明日は仕事だから、定刻通り、いつも通りに。それが、気がついたら裸足で、寝巻代わりのフリースとジャージのままで、夜風に吹かれてこんなところに立っている。
 何がなんだか分からない。そもそもマンションの屋上は、立ち入り禁止のはずだ。上に続く階段には格子の扉がつけられ、鍵がかけられている。どうやってそれを解除してここに来たのか。それすらも記憶にない。
 ただ、寒いという事実だけが、現実に縫いとめる。
「だけど、君――」
 わけの分からなさに不安が募るが、それよりも少年の様相の方が恐怖をあおる。少年は、十八階建てマンションの屋上で、鉄柵の上にしゃがみこむなんて、危険極まりないことをしている。まるで――
「じゃあ、推理してみようよ」
 不安定な場所にいることをまったく意識していない顔で、彼は無邪気に提案をした。危なげもまるでない。
「死神に呼ばれたのと、夢遊病で歩き回っているのと、実は自殺願望だったのと、二重人格と、どれがいい」
 彼が用意した選択のどれもがあまり気持ちのいいものではなかったが、何故ここに立っていたのか記憶がないのだから、不相応だと跳ね除けることもできなかった。突拍子もない選択肢だとしてもだ。
 死神とは、彼のことをあらわしていると考えてもいいものだろうか。何かの映画で、人間に擬態した天使たちが皆、コートを着て高いところにしゃがんだ姿で登場するものがあったのを思い出す。少年の黒い服は、学生服だが。
 とにかく、立ち尽くしていても仕方がない。彼に背を向けて帰って寝るか、ここで少年と話を続けるか。とにかく、去るかとどまるかしかない。何がなんだか分からないままなのも落ち着かないので、私は彼に言葉を返した。
「実は自殺願望、というのは、そちら側の推測で、こちらの事実ではないね」
「さあ、実はそうなのかもしれないよ」
「どれがいい、と選んでみても、何か意味があるのかな」
「意味があることしかしないなんて、つまらない人生だね」
 なかなかに突き刺さる言葉を陽気に放たれ、私は束の間言葉に詰まった。 
「寝ている間に運ばれた、という可能性は」
「泥酔してたか、薬を飲んで寝ていたかとかじゃないと、さすがに気がつくんじゃないかな。申し訳ないけど、俺あんまり力ないから、お姉さんみたいな大人の人を静かに運んだり出来ないよ。お姉さん、細いけどさ。俺を疑ってないなら第可能性はあるかもね。あ、それかお疲れだったのかな」
「地震が起きても気づかないくらい鈍い人間もいるんだよ」
 一般論で言い返したが、しかし私はどちらかというと、人の気配ですら目が覚める性質だ。
「君はここで何をしているの」
 最初の問いが、口をついてでた。
「うん、呼ばれたんだ。多分、お姉さんと同じ」
 彼は、あっさりと二つのことへの答えを出した。私の状況と彼のこととの。
「……君は、私がここに立っている理由を知っているの」
「知ってるよ」
 さらにまたあっさりと、彼は今までの問答を無駄にした。
 知っているならさっさと教えてくれても、と思うと同時、彼の雰囲気に撒かれて薄れていた警戒心が皮膚をとりまく。ゾク、と震える空気。寒風が二人の間を流れ、私と彼の髪をなぶっていく。
 少年がにこりと笑う。
「夢をみているんだよ、きっと」
 そして矛盾を唱える。
 くつくつと笑いが落ちた。その声は、彼からではなく。
 突然、彼と私の間に闇が膨れ上がった。
 そして夜空から、星が降り注ぐ。
 紺藍の空に張り付いた、それはそれは彼方にあるはずの光が、突き刺さるように落ちてきて、私は恐慌に陥った。
 さあ、うたえ、うたえ、うたえ。
 爆音のような声が頭の奥で鳴り響く。殴られたような衝撃。音量を最大にしてイヤホンをつけてしまった時のように、頭の中身をかき回して好き勝手に和音を奏で、驚きが思考を奪う。言葉が背を押す。
 さあ、さあ、さあ、足を踏み出し、歩き、落ちろ。
 そして死ね、と。


 星が降る。矢のような流れで、尾を引いて突き刺さる。
 そして空から落ちて下に散らばる。零したように。
 遥か遠い光が、地表に広がる。空を模し、夜を忘れ、光をばら撒く。
 地表の光が空を染め上げる。雪のように花のように。
 どちらが上か下か。
 それが幻のようで、眩く美しく、虚しく、冷たく、優しいと思った。
 このまま落ちて、落とされて、光に吸い込まれても、それもまた楽しい、と。
 愉悦の中、奇妙な高揚と静穏に翻弄される。
 さあ、歌え、歌え、歌え。嘆きを謡い、歌い、謳い、下界にばら撒くがいい。
 嘆き、喚き、泣き、叫び、苦しみを振り撒け。
 さあ、落ちろ、落ちろ、落ちろ。
 落ちて砕け、散らばり、飛び散り、ぶちまけろ。
「聞くに耐えないねえ」
 同意を求めるような声が間近で聞こえた。途端に、頭の中をかき回していたものが消える。
 最初と同じように、生首かと錯覚する白い顔。そして、光の粒を切り取る黒い服が見えた。
 少年の体は宙に浮いていた。
 彼の上にも下にも彼を支えている紐や土台のようなものは見えず、どう考えても宙に浮いていて、彼の腕ひとつに支えられて私も浮いている。不安定に足場を無くして漂っていた。悲鳴を上げたかったが、恐怖のあまりに声が喉に張り付いたままだった。
「ちょっと我慢してね」
 まともな言葉どころか声すら出せずにいる私に、彼は最初と変わらない陽気な声で言った。私は眼下を見て、自宅のマンションが遥か下にあるのに気がつく。
 足元に広がる光の粒。頭上を散らばる光の雲。
「落ちたの、私」
 言葉が震えた。
 自殺しようとしたの、と暗に問う。自分で落ちたの、と。
 くるりと視界がまわり、満天の星が鮮やかに見えた記憶が鮮明にある。その事実に、途方もない暗闇が心の中を覆っていく気がした。実は自殺願望、という少年の明るい声が甦る。それは、激しいショックだった。
「落ちた。でも、落ちてない」
 彼の声は変わらない。明るくのんきだ。
 だけどあまりに平坦で当たり前で、宥める気配すらない声が、すうと意識を落ち着けてくれた。例え寒風ふきすさぶ中、足場のない宙に釣られていてもだ。
 無意識にしがみついていた、学生服の手触りは随分と懐かしい。今の生活とはまるで縁がなく現実感のないはずの感触が、意識を戻してくれた。
 嘘つき、と心の中で笑う。
 寝ている間に運ばれたという選択肢だって有効じゃないか。彼なら、静かに運ぶことだって出来たはずだ。
「君は、何」
「何だろう。天使かな」
 図々しいほどの明るさだ。
「あれは何」
「なんだろうねえ、死神かな」
 死神――死ぬべき人を狩るものだ。マンションの屋上に、黒い染みがまだ見える。夜の色の中でも分かる。
「気にしなくていいよ。たまにいるんだよね、ああいう粘着質なやつ」
 まるで人間に対するかのように言う。だけどアレは。どうみてもアレは。
 月の明かりも星の明かりも、人の作る明かりすらも通さない、闇の塊。見ているだけで嫌悪感に吐き気を催すような、悪意の塊だ。生き物の類には思えない。思いたくもない。
「幽霊? 自縛霊?」
 私に霊感はないはずだ。
「うーん、多分そういうのじゃないと思うよ。俺、霊感はないし」
 私が思ったのと同じことを彼は当たり前のように言った。霊感はない、その言葉が何か妙に、この事態に現実感を与える。
「霊じゃなくて、妖怪とかそういうのかな。なかなか頭が働くヤツになるとね、自分の手を使わないで人を殺して食らうのもいるんだよ。楽して食べ物にありつこうなんて、怠惰もいいとこだよね」
「それは、どういう」
「だから、呼ばれたんだよ。最近この界隈で自殺者が多いんだ」
 だからね、見張ってたんだよね、と少年は笑う。
「悩まない人はいない。程度の差はあるけどね」
 人の気配で目が覚めるほうだ。それは神経質の表れだろうか。
 人の思惑が気になるほうだ。人の目線が気になるほうだ。
 自分が他人にとって、多くの人にとって興味を引くような人間でないと分かっていても、逆の意味ですら思われることなどないと分かっていても。分かっているからこそ、気にしてほしいと思い、そして過度に気にされることが怖いのかもしれない。
 傷ついたことのない人間はいない。何かを好きだと思い、何かを嫌いだと思い、人に言葉に揺さぶられない人間はいない。
 程度の差があり、それを表に出さない術を知っているかという差があり、収める場所を持ち、その方法を知っているかという差があり、揺さぶられる場所に違いがありはしても。
 だから少なからず人であれば、餌食にされる。
 だから落ちた。落とされた。だけど、落ちてはいない。
「引っかからないのは、鈍いか頑固者かひねくれ者だよ」
「選択肢はその三つか」
「そうだね」
「君はどうなの」
「俺は、純真無垢なのです」
 胸に空いている方の手をあて、誓いの仕草をして瞳を閉ざし、彼は平然と言った。
 その選択肢はなかったじゃないかとか、どういう理屈でそうなんだとか、文句をつけたかったが言わなかった。問いをぶつけたところで、だって天使だから、とでも言われるだろうか。
「すぐ終わらせるから、ちょっと我慢してね」
 少年がにこりと笑う。
 瞬間、体が急降下して、今度こそ私は悲鳴を上げた。


 それからのことは、あっという間だった。
 闇の塊が、何かに殴り飛ばされるようにマンションの屋上から弾かれ、中空に浮き上がる。そして今度は、突然霧散した。強烈な力で再び殴られたのか、引き千切られたのか。声も音もない間のことだった。闇が夜の中に吸い込まれ、よく分からない。少年が何かをしたのかすら分からない。
 だけど、漂いくる嫌悪が霧散して消えたのを、なんとなく感じた。引き寄せられるような、呼ばわる声がなくなり、頭重感がやわらいだようだった。
「もう大丈夫だから」
 屋上のコンクリートに着地する。冷気が指先からつたわり、体が震えた。
「どうなったの」
「きれいさっぱりなくなりました」
 私をおろすと、少年自身は鉄の柵の上に着地した。おどけるように掌を開いて、彼は言う。
 あれはなんだったんだとか、君は何なんだとか、そういうのがまた頭の中をよぎったが、はぐらかされるのが分かりきっていたので、口から出すのをやめた。黙り込んだ私に、彼は笑う。
「風邪をひかないように、暖かいものでも飲んでから寝るといいよ」
「そうする」
 釣り込まれるような私の答えに、少年はにこりと笑う。邪気のない、裏の見えない、曲者の笑みだ。
「おやすみなさい、良い夢を」
 手を振る笑顔に、おやすみ、と返す。そして私は少年に背を向け、ぺたぺたと音を立てて歩き出した。


 もし状況が違えば楽しめたのに、などと考える。何の道具もなしに空を飛ぶなんてこと、多分二度と出来ないだろう。恐怖の中に見えた、光の粒に包まれた時の高揚。
 ひときわ強く吹いた風に首をすくめ、肩を抱く。家に帰ったら、暖かいミルクティーをいれよう。電子レンジでお湯を沸かしてティーバッグでいれたのでいい。とにかく潤いたく、手っ取り早く温まりたかった。そして今度こそゆっくり眠ろう。いつものように朝日が昇り、そうして目を覚ます。
 朝になれば忘れてしまうかもしれない。
 このあまりに非現実な体験は夢だと。闇の固まりも恐怖も夢だと。
 今このときですら、夢の中かもしれない。随分と、想像力豊かな夢だ。
 何気なく、ピーターパンとウェンディが手をつないで空を飛んでいく光景が思い浮かび、彼らもあの美しい光景を見たのだろうかと考えながら振り返る、その先にはやはり、少年の姿はなかった。
 例えこれが夢でも、あのふてぶてしい少年と、星明かりの幻想は忘れられそうにない。


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