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H-06  星は虚ろの月を抱く

 私はかつて、人の命を奪いました。とても純粋な愛に溢れた人を、この手で殺めたのです。今なら分かります。純真な心をもって人に愛情を注いでいたのです。だから、裏切りに対しては非常に敏感だったんだと思います。あの時、何故私はあの人を理解してあげられなかったのでしょうか。今でもそれが悔やまれてなりません……。


 エトワールは足元が崩れ落ちるのを感じた。信じられない想いで眼前に立つ恋人を見つめる。いや、予想はしていたのだ。しかし信じたくなかった。
 空から零れ落ちてくる月明かりに照らされた恋人の顔は青白く光り、色っぽさを醸していた。幻想的な彼は、まるで現世に舞い降りた天使だ。だが今この瞬間、彼は冥府の王となってしまった。その言葉は断罪よりも無慈悲で残酷だ。
「ごめん、でもダメだよ」
「リューヌ、どうしてそんな事を言うの――?」
 掠れた声が出た。優しい彼は辛そうに俯く。エトワールは堪えきれなくなって、耳を塞ぎ目をきつく瞑った。どんな悪夢も入り込ませないために。赤くなり始めた果実と葉の臭いだけが世界を満たす。
 静寂が流れる。
「……ごめんね。さようなら」
 最も聞きたくなかった悪夢が沈黙を破る。さくりと土が鳴り、その音と共に愛しい気配が遠退いていく。
 行かないで! 叫びたかった。しかし、渇ききった喉は何の音も発さなかった。虫さえも息を潜める闇が冷たく体に突き刺さった。
 エトワールは顔を上げる。憎悪を孕んだ双眸が夜空を映し妖しく光った。その瞳が映すのは憎らしくも愛しい背中。
 もう何も考えられなかった。


「私ね……、今度の秋に結婚するのよ」
 ふわふわの巻き毛を弄びながら、ソレイユははにかんだ笑みを浮かべた。「まぁ、おめでとう」エトワールも笑みを浮かべる。古びて閑散とした教会に温かな雰囲気が生まれた。ステンドグラスを通して差し込む朝日が彼女を祝福している。夏特有の張りつくような暑さも、今だけは気にならない。
「貴女に一番最初に伝えたくて、こんな朝早くに来ちゃったわ」
 ソレイユはぺろっと舌を出した。彼女の仔犬のような雰囲気によく似合った動作で、エトワールは思わず抱きしめたくなった。美人ではないが、愛嬌がある。それに家庭的だ。相手は隣家のユーロウか、パン屋のブリュノか……教会内でずっと閉鎖的な暮らしをしていたせいで、エトワールは村の事情に疎い。まあ誰だっていい、いずれにせよ良い子を選んだ。きっと良い奥さんになるだろう。エトワールは勝手に想像を巡らせて笑みを深める。彼女との付き合いはそれ程長くはない。しかし、交友関係の狭いエトワールにとっては彼女は大切な友人だった。彼女に抱く感情は、娘の成長を見守る母親のそれと近いものがあるかもしれない。それ程歳は離れていないのだが、ソレイユと居ると自分がいかに輝きを失っているかを思い知らされる。しかし、今の自分には愛し合ってる人が居る。きっといつかは彼女のように結婚して、輝きを取り戻せると確信している。背徳に悩んだ日もあったが、彼のためならばいつでも、喜んで聖職者を投げ出す覚悟があった。私には彼が必要なのだ。
 思考に沈みかけたエトワールは軽く首を振り「お祝いは何が欲しい? 何でも良いわよ」頭を切り替えた。
「本当? 嬉しい! じゃあね、貴女が育ててるあの果実が欲しいな」
 ソレイユは頬を赤らめる。以前から彼女はあの果実が好きだった。収穫したばかりの実を一緒に食べた記憶もある。柔らかな思い出にエトワールは頬を緩めた。
「本当にあれで良いの?」
 しかしいくら彼女の好物でも、結婚式のお祝いとしては随分貧相な代物だ。緩んだ頬を軽く叩いてもう一度確認する。
「結婚したら村を出るのよ。次の収穫で思いっきり食べておかないと後悔すると思うの」
「そうなの……分かったわ。うんと甘くなるように、しっかりお世話するから期待していて頂戴」
 エトワールの言葉に、この世の幸せを凝縮したような笑顔で礼を言うソレイユ。その名が示すとおり、彼女は太陽だった。いつだってエトワールを温かく照らしてくれる。この笑顔を見られるのもあと数ヶ月。寂しくないと言えば嘘になるが、辛気臭い顔をして幸せの門出に水をさすわけにはいかない。
「そろそろ帰るわね。お祝いの件はくれぐれも宜しくぅ」
 ソレイユは最後に軽い祈りを捧げて、教会を去っていった。後に残されたエトワールは複雑な思いでその背中を見送る。


 星々を従えた満月が夜空に輝いていた。ステンドグラスを通り抜けて神秘の光が降り注ぐ。
「素敵な夜ね」
 エトワールは壁に掲げられた十字架の下に座り込み、その光を一身に浴びる。彼女の白い肌が光を照り返すように輝いていた。膝の上には先程もぎ取ってきた果実がひとつ。真っ赤な果汁が純白の法衣を濡らすがさして気には留めなかった。
 蒼穹にも似た双眸が鮮やかなステンドグラスを映すと、まるで万華鏡のように煌めいた。
「空に手が届きそうだわ。月をこの手に抱けそう」
 幻想の瞳で見上げる世界は美しく輝いていた。エトワールは窓に向かって腕を伸ばす。しかし、空は愚か窓にすらその指先は触れられない。遠すぎる月はただ、冷たくも優しい光を降らせるだけだ。
 それでもエトワールは、執拗に、盲目的に、その細腕を伸ばし続けた――


 教会の裏手にはエトワールの果実園へと繋がる道が伸びている。普段よりも早めに一日の世話を終えたエトワールは、その道を歩きながら空想を膨らませていた。華やかな婚礼、幸せな笑顔、惜しみない拍手、誓いの口づけ。小さな村だから、総出でお祝いをするに違いない。笑顔・笑顔・笑顔……、誰もが祝福してくれる。
 朱に染まった頬は決して夕陽のせいだけではない。空想物語の主人公はソレイユではなく、自分だ。花婿は当然、エトワールの愛しい人。寄り添う二人は何ものにも隔たれはしない。そう、永遠に。
 いつかは辿り着くはずの未来。いずれは自分も、祝福する側ではなくされる側へと転じるのだ。
「ああ、やだわ私ったら。何を考えているのかしら」
 火照る頬を両手で覆う。でも、彼も同じ事を考えているに違いない。なぜなら、二人は永久を約束された存在だから。この愛は久遠の前にも途切れはしない。
 ――罪深いと人は罵るかしら。背徳行為だと人はなじるかしら。……何とでも言えば良い。他者の幸せを妬む心の狭い人々の言葉など、私の心に波紋一つ作れはしないのだ。
 足取りも軽く、さながら踊り子のように家路を辿る。我が家でもある寂れた教会が、夕陽を受けていつもよりも荘厳な雰囲気を纏っていた。いつかは生まれ育ったこの教会で挙式を。ソレイユの次は私だ。彼もそれを望んでいるはず……エトワールの想像は翼を得たように拡がり続け、徐々にその輪郭を確かにしていく。
 絶対の真理であるかのように、それはエトワールの心を満たしていった。
 ――故に。
「……ソレイユ?」
 教会のさらに向こう。仲良く寄り添う人影が見えた。エトワールは足を止める。
「それに……リューヌ? どうして二人が」
 逆光なってはっきりとした輪郭は分からないが、風が二人の笑い声を微かに運んでくる。確かに愛しい人、リューヌの楽しそうな声だった。二人はまったくこちらを気にする気配はない。当たり前だ、普段はまだ果実園に居る時間なのだから。それは二人もよく知っている。呼び止めようかとも思った。しかし、勇気が出ない。まるで夕陽が影を縫いつけてしまったかのように、足が動かなかった。エトワールにできた事と言えば、ただ呆然と立ち尽くす事だけだった。目の前の現実が信じられず、憐れに震えながら。
 空想の翼は手折られ、硝子のように砕け散った。
 私との日々は何だったの? 言葉なき慟哭が暗くなり始めた空に放たれる。糸の切れた人形のように座り込み、放心状態で空を見上げ続けた。足に力が入らない。もうどのくらいの時間こうしているのか、エトワールにも分からなかった。
 あの優しい微笑みは二度と取り戻せないの? 彼との思い出が駆け巡る。いつも優しく笑いかけてくれた彼。紳士の仮面を被って、裏ではソレイユと逢い続けていたというのか。
「許せない……」
 震える声が滲み出た。所詮、月は太陽に惹かれるというのなら。夜空を飾るだけの星は、所詮太陽に勝てないというのなら。
「ふ、ふふ。あはは、はははっ……」
 エトワールは夜空に向かって静かに笑い続けた。
 月はもうすぐ満ちようとしている。それは星々が息を潜めた空で、異様な輝きを放っていた。


 楽しい幸せな想い出は空を巡る星のように留まる事を知らず、エトワールの手をすり抜けて零れ落ちる。赤と青の混じりあった果実を抱いたまま、エトワールは嘆息する。ステンドグラスから注ぐ光が傾き始めた。いずれは消えてしまうだろう。伸ばした腕は結局空虚しか掴む事ができず、ゆっくりと下ろされた。
 ――何故最期ですら私を見てくれなかったの。疑問に答える声はもう無い。
 夏はもう終わる。肌を舐める空気も、夜になると冷たさを帯びてきた。実りの季節が近づく。リューヌは手の届かない場所へ行ってしまう。夜空に輝く月と同様に、触れる事は叶わない存在になってしまう。
「そんなの嫌、嫌よぉっ……」
 エトワールの頬を伝うものがあった。それはぽたぽたと落ち、散らばった赤と溶け合っていく。
「私を愛してよ、リューヌ。どうして私を愛してはくれないの」
 嘆きが室内を震わす。――貴方がいけないのよ。貴方が、私を見てくれなかったから。訪れた結末はあまりにも哀しい。
「……」
 エトワールは頬を拭い、視線を教会の扉へと向けた。複数の騒々しい足音が夜の静寂を破って近づいてくる――


 重たい音を立てて扉が開かれた。夜の帳が完全に下りた頃だ。
「エトワール!」
 続けて聞こえたのは親友の叫びだった。走ってきたらしく、息をするたびに小さな肩が上下に動いた。
「どうしたの、ソレイユ。慌てて」
 聖像の下で頭を垂れていたエトワールは振り返り、静かに問いかける。「あ、その。あの……」ソレイユは二の句が継げないようで、視線を泳がせていた。エトワールは中へ促し椅子を勧めた。座ってもなお黙っていたが、やがて決心がついたようだ。隣に座るエトワールの瞳を見据えて「私もさっき知ったばっかりなんだけど……」と前置きをして神妙に切り出した。
「あの、まず私の結婚相手だけどね」
「リューヌでしょう?」
 言うと、彼女は目を見開いた。「知っていたの?」瞳はそう問いかけている。エトワールは頷いた。ついこの間の光景が脳裏を掠めて消えていった。
「……村を出るって言ったでしょ。あれは彼の希望なの」ソレイユは言い難そうに俯く。
「貴女と離れたいって――」
 エトワールは表情を硬くする。分かってはいたけれど、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。恋人を捨てて、別の女性と結婚するのだ。負い目も感じるだろう。
 黙するエトワールに、ソレイユは取り成すように早口に捲くし立てた。
「私も彼も、別に本気で村を出たいと思ってるわけじゃないのよ。出来ることならここで暮らしたいの。だから……」
 ソレイユは立ち上がる。悲壮さを瞳に横たえて、エトワールを見下ろした。胸元で組まれた指が白くなっている。
「だから、彼に、つ、付き纏うのは止めてほしいの」
 言い切ってから、エトワールの反応を窺うように黙り込む。「……付き纏う?」氷のような声が出た。「付き纏うですって? 私が?」心に燻っていた凍てついた炎が一気に噴き出すのを感じた。何を言っているの、この子は。彼と私は、永遠を約束したのよ。
「私達は愛し合っていた」
 無意識に過去形を使うエトワール。
「ううん、それは貴女の妄想よ。お願い、分かって」
 ソレイユの声には懇願するような響きがあった。
「彼も精神的に参ってるの。好きな人を苦しめるのは嫌でしょ、ね?」
「違うわ!」エトワールは立ち上がり、語気荒く叫んだ。
「貴女が私達を引き裂くような真似をしなければ、彼は苦悩せずに済んだのよ! 何故邪魔をするの? 私は本当に彼を愛していたのに」
 溢れ出す憎悪に、ソレイユの顔が引きつった。そして一歩後じさる。「エトワール……」大きな瞳に涙を浮かべて。
「あの人は貴女を恐れているわ。だから、お願い……私は貴女を嫌いになりたくない」
 どんな言葉も、閉ざされたエトワールの心には響かない。


 あの日と同じように、扉が開け放たれた。今日はわざと鍵をかけなかった。この聖域を皆に見せたかったから。
 暗い室内にランプの光が眩しく反射する。ソレイユと、数人の自警団が険しい顔つきで入ってきた。
「エト……ひっ」
 短い悲鳴の後、ソレイユはその場に崩れ落ちた。自警団の面々も青い顔でこちらを見つめている。
「え、エトワール……そ、それ」
「ああ、少し収穫には早かったけれど。……苦労したのよ?」
 膝の上で転がしていた果実を両腕で抱えて立ち上がる。ぽたり、と果実――“リューヌの首”から血が滴った。純白の法衣は返り血に染まり、熟れた果実のような赤をしていた。それがリューヌと一つになったような気がして快い。
「どう? 私達お似合いでしょう?」
 彼を顔の横に持ってきてソレイユに訊ねる。しかし答えたのは彼女ではなかった。
「シスターエトワール、我々と共に来てもらう」
 放心状態だった自警団が我に返ったらしく、じわじわとにじり寄ってくる。ああ、煩い。彼らも私達の邪魔をすると言うのね。
「来ないで頂戴」エトワールの声はどこまでも冷たかった。煌く短剣を取り出し、彼らに向ける。月光の輝きを微かに受けて、銀色に輝く。美しい切っ先はまるでリューヌの頬のようだった。
「待って、待って下さい」
 ソレイユが震える声で自警団を制する。頼りない足取りで歩き出し、大人一人分程の距離でエトワールと向き合った。
「どうしてこんな事をしたの? どうして彼を……」
「彼、私に『さようなら』って言ったのよ。あんなに愛していたのに、許せると思う?」
 親友からの返事はなく、ただ首を振るのみ。構わずに続けた。
「星はどんなに努力しても、太陽には敵わない。月をどれ程求めても、月は輝く太陽に魅せられてしまうの。私の手は決して届きはしない」
 だから、とエトワールは微笑む。
 ――触れられぬのならいっそ、大地に堕としましょう。
 ソレイユが息を呑む。
「間違っているわ、貴女……。ねぇ、昔のエトワールに戻ってよ!」
「私は昔から私よ。いえ、そんな事はどうでも良いわ」
 高揚は最高潮に達していた。今、私はソレイユを――太陽を圧倒している。何て心地よいのかしら。優越感が心を満たしていく。自警団が睨みを利かせているのが気に入らなかったが、もうそれすらも些細な事のように思えてきた。
「貴女に見て欲しかったのよ、ソレイユ。私と彼が結ばれる瞬間を」
「……え?」
 刹那、空気が張り詰めた。
 エトワールは供物のように首を掲げる。
 そして――短剣を突き刺してその眼球を抉り出し、喰らいついた。糸を引く眼球がエトワールの小さな口で咀嚼されていく。嫌な音が響いた。
「い、いやあぁっ……!」
 ソレイユの悲鳴。自警団も、今度こそ完全に言葉を失って棒立ちになる。
「あはは、あははっ、あははっ!」
 狂ったような哄笑。空気が怯えるように震える。恍惚の表情でエトワールは天井を仰ぎ見る。あの向こうでは星々も同じように笑っているに違いない。
 エトワールの狂気は止まらなかった。もう片方の眼球をも抉り出して口に運ぶ。血が白い頬を伝っていく。短剣が鮮血に濡れ鈍く光る。
「エトワール……エトワール!」
 精神が限界に来たのだろうか。ソレイユは唐突にエトワールに飛び掛った。不意の攻撃に背中から倒れこむ。首と短剣が衝撃で飛んでいった。
「どうして、どうしてなの!?」
 叫びながら、馬乗りになってエトワールの首を絞め始める。
 ――止めなさい! 声が出ない。空気を求めてもがくが、早くも意識が薄れていく。
「私はただ、みんなで楽しくやりたかっただけなのに……」
 ソレイユの涙がリューヌの血を洗う。徐々に消えていく視界の中、エトワールはただ嘆いていた。体は生きようと勝手に動くが、本当はもうどうでも良かったのだ。
 ――何故誰も私達を祝福してくれないの。何故……何故誰も私を愛してはくれないの!
 私はこんなにも、愛しているのに……

 視界が消える。
 最後に見たのは、美しい太陽の涙だった。


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